る新政府の政策は鹿児島県まできたときはことごとくといっていいほど握りつぶされた。 「薩摩のみがやった維新ではない。何たることか」 たかよし と、長州派の代表である木一尸孝允は、この時期、このために健康を害したといわれる はどに怒りつづけた。 この保守派の久光党とは別個に、維新最大の功臣である西郷は、維新政府の現実があ まりにもかれの理想とちがいすぎることを不満として参議の職をなげうって帰郷し、薩 摩のみは独自に「士族」を温存しつついわば政府に対し、武力による沈黙の威圧を加え つづけてきたのである。 この二月、鹿児島にあっては私学校生徒が、城外の磯にある政府海軍の銃砲製作所を よそお 襲い、兵器弾薬をうばった。さらに、県の政情偵察のために帰郷を装って鹿児島に入っ た東京警視庁の警官およびその党類とみなされた者が私学校生徒に捕縛された。 好古らは、待った。 が、本郷のいうとおり、 政府は士官学校の世話をしているようなゆとりはないらしい というのが実情であった。 おのみち やまがたありとも この当時の陸軍卿山県有朋が西下し、尾道から東京に電報を打ったのは二月十二日で ある。
本郷房太郎も秋山好古も合格しているのである。好古はちょっと微笑して、 「」 , つけこん」 といった。本郷はいきさつを話した。昨日、陸軍省のほうから青山家に使いがきて合 格者名簿をもってきたという。ぜんぶで三十七名であるという。ちなみに、この士官学 校第三期生は結局は百名入学することになったが、かれらのあとも数度試験をしたから であろう。 ( これで、救われた ) みち とおもった。江戸時代でいえば浪人が仕官の途を得たようなものであった。国もとに も名古屋の和久正辰にも報らさなければならない。それよりもます、本郷のいうことが 正確かどうか、士官学校へ行ってたしかめなければならない。 「おい、どこへゆく」 と、本郷はあとを追わなければならなかった。好古は、士官学校へゆく、といった。 「すると、わしへの用はなんだ」 と、本郷は背後からきいた。いや、それだけじゃ、おかげで果たした、といった。 士官学校では、寺内正毅大尉に面会し、自分の合否をたしかめた。 昔 や「伊予松山の秋山好古じゃな」 春寺内はよく覚えていて、合格している、といってくれた。 「兵科は、なにを選ぶかね」
とにかく時間いつばいで書きあげて校庭に出てみると、桃太郎のような顔の本郷がば んやり立っている。どうした、ときくと、「えらいことをした」と本郷はいう。本郷も ひちょう 飛鳥のほ , つであった。 「ところが出てきて、長州の連中が話しているのをきくと、あれは東京の地名じゃそう じゃな。アスカヤマと読み、鳥で無うて人間が花見であそぶという題であるそうな」 「なぜ長州の田舎者がそれを知っている」 「それはおまえ」 長州の連中は早くから先輩を頼って東京に出てきているから市中の様子を知っている、 だから得をした、と本郷はいっこ。 ( 田舎者は来るなということか ) この出題から考えればそうであろう。出題者はひょっとすると旧幕府の儒者で、田舎 者をばかにしているのかもしれなかった。 十日ほど、何の通知もなかった。毎日、寮で待った。 こりや、落ちたな。 昔 やと、秋山好古はおもった。旧藩にもし有力者がおれば陸軍に問いあわせてもらえるの 春だが、伊予松山藩の場合はそういう便宜もなかった。 本郷に様子をきこう。
知「御用はなにかな」 本郷はいった。相変らず桃太郎のような顔をしていたが、士官学校の校庭で話をして いたときとはちがい、殿様の御屋敷に遠慮があるのか、ひどく小心な、他人行儀な、と うろんくさ いうよりも胡乱臭げな顔つきで好古をながめていた。 ( 来なければよかったな ) と、好古は自分のかるはすみを恥じた。考えてみれば士官学校の受験場で出会っただ けの仲であるのに、このように本郷の主家までやってきてしまっている自分が、われな がら胡乱臭げにおもわれるのである。 「いや、そこまできたついでじゃ」 と、好古は歩きだした。本郷は、屋敷に入れなどといえる立場でないのか、一緒に歩 ひのきぎか きだした。檜坂の方角に歩いてゆく。道はのばりになり、やがて東京鎮台歩兵営の前 に出た。所属不明の土塀がくずれている。そこに入ると、もと小大名の屋敷でもあった のか、荒れはてた庭園がひろがっていた。 「しかし、あれじゃな」 本郷は庭石のひとつに腰をおろし、 「お互いに、めでたかったな」 といった。好古は、なんのことじゃ、というと、本郷は不審な顔をした。 「知らなかったのか」
うきよ、つだゅ、つ とおもった。あの本郷房太郎の藩は丹波篠山でわすか , ハ万石の青山右京大夫家だが、 この藩は維新で乗りおくれたあと、にわかに奮起した。明治三年、大阪から関世美とい う学者をよんで振徳堂という藩校をたて、藩士が七歳になると入学せしめ、十五歳で卒 業させた。本郷房太郎もここに入っている。 好古はあの士官学校の試験のあと、本郷からこの話をきいて、 篠山はばかにならぬ。 とおもった。伊予松山は十五万石とはいえ維新で官軍に占領されたときの衝撃が大き く教育制度を篠山ほどはやくととのえることができなかった。篠山では、明治六年、城 下の民家を借りて小学校が開設され、士族以外の者も入学させた。本郷も振徳堂からこ の小学校に移ったという。 たじま しかも、山国のわりに、松山よりも便利なことは、明治八年、丹波に隣接する但馬の みかげ 豊岡に「豊岡県教員伝習所」 神戸・御影師範の前身ーーという高等教育機関ができ たことであった。本郷はここに入った。この点、好古と似ている。 本郷はこの養成所にいたが、 かれにとって運がよかったことは、まだ年若い旧藩主青 ただしげ 山忠誠が大名にしては跳ねつかえりとさえいえるほどの時勢感覚の持ち主であることで あった。この旧藩主は、篠山では、 じゅ′」い 「従五位さま」 とよばれている。若い従五位さまは、
薩長の青年たちは、親類か先輩に陸軍幹部が多いせいか、学校や入学試験についての ことをよく知っていた。 「英語をやらん者は落すそうじゃ」 と、本郷は聞きこんできてそう言ったが、好古は平気だった。落すなら落せとおもった。 試験がはじまった。 作文の考査である。好古は、さきに願書を出したとき作文があるということは寺内正 毅大尉からきかされなかった。 ところが早耳のあの丹波人本郷房太郎が薩摩の受験生からきいてきて、 作文もあるそうじゃ。 と、耳うちしてくれたのである。 「漢文か辷 と好古はきいたが、 本郷はそこまで知らない。 とにかく好古は、 ( ャッカイじゃな ) とおもった。御一新のごたごたで正規の藩校教育もうけていない好古は、作文など書 昔 やしたこともない。 春「作文とい , つのは、・ と , つい , つ、ものじゃ」 と、本郷にきくと、このいかにも秀才らしい若者ですら一言うことがとりとめなかった。
「あんたは長州ではあるまいな」 たんばささやま 「丹波篠山だ」 。しった。ひどい山国からきたものだと好古はおもった。 桃太郎よ、、 「あしは伊予松山の者で秋山好古というのじゃが、あんたは」 「本郷房太郎」 「・は」 と好古が問いかさねたとき、 「あんた、ここの教官かね」 と、背のひくい本郷は好古を見あげながら、憤った顔でいった。しかしすぐ「十八」 と小さな声で答えた。。 とこか、可愛げのある男だった。 ( こいつは出世するなあ ) と好古がおもったのは、父の久敬が藩から県にかけての小役人生活で得た智恵のよう なものをよく語っていたことを思いだしたからだ。可愛げのある男は出世するというの である。 本郷は、一種の福相をしている。軍人などになるより、越後屋あたりの番頭をでも志 したほうがよさそうに思われた。 しかもこの本郷は案外機敏で、薩州や長州のグループのもとに行ってはその話を立ち ぎきしてきて、好古に教えてくれた。 おこ
「自分の藩は、時勢におくれた。今後、思いきったことをすべきである」 と言い、みずからが兵隊になろうとした。 この時代にすれば、異常なことであった。戊辰戦争で官軍に参加した藩は多いが、藩 ところが篠山の旧藩主が自分が兵隊 主みすからが兵をひきいて行った例は一件もない。 になるという。 当時、東京ではすでに兵学寮幼年舎 ( 幼年学校 ) というものができていた。旧藩主青 山忠誠はここへ入校した。 やがて士官学校に進むことになった。この入校についてはこの従五位さまの学友とし て旧藩士のなかから同年の秀才三人を選び、養育生として東京につれてゆくことになっ た。これに本郷はえらばれた。 本郷は青山家の費用をもって前年の明治九年三月に東京へ出てきて赤坂新町五丁目の 青山家に入り、受験勉強のために儒者芳野金陵の塾に入った。 篠山はいわば、旧藩が総がかりで受験のための勉強をしている。 と好古はおもった。それならば及落のことも本郷を通じて旧篠山藩邸できいてもらえ ばわかるだろうとおもったのである。 や 春赤坂新町五丁目の青山家の屋敷にゆき、門番に来訪の旨を告げると、三十分ばかり路 上で待たされ、やがて本郷房太郎が門前まで出てきた。
た「なにとなにが、こ、います」 と、好古はきいた。なにも知らなかった。 「歩兵、砲兵、騎兵、エ兵じゃ」 「あしは騎兵にしますらい」 と好古がいったことが、日本の運命のある部分を決定づけたことになるであろう。 寺内はそういう好古の体格を、ちょうど道具屋の手代のような目でながめていたが、 やがて、 「騎兵にうってつけかもしれん」 合格はしたが、、 しつまで待っても入校せよという通知が来ない。 試験は一月にすんでいる。一月もなにごともなく、二月も音沙汰なしにすぎた。その うち世間が騒然としてきた。 「政府は、士官学校どころではないらしい」 と、丹波篠山の本郷房太郎が、訪ねてきた好古にいった。 「薩摩が、反乱をおこすそうだよ」 薩摩には、維新の功臣西郷隆盛が帰省している。東京の政府では再三出府をすすめた が西郷はうごかない。西郷はすでに数年前、日本でただ一人の陸軍大将の現職のままで
286 この年、子規は健康ではない。 ときわ 「明治二十二年は、本郷の常盤会寄宿舎楼上にて初烏を聞きぬ。折々は俳句などもの せんと試むる頃なり」 と、子規は後年、この年をふりかえって書いている。 かれは一昨年までいた高等中学 ( 大学予備門の改称、のちの第一高等学校 ) の寮からこ の旧松山藩の書生寮である常盤会の寄宿舎に移っていた。 旧藩主久松家があらたに建てたもので大小十四、五室あり、二階は二室だけある。子 規はその二階の一室八畳をひとりで占領していた。この二階の部分がちょうど坂の上に なっており、子規の文章をかりると、 「常盤会寄宿舎第二号室 ( 子規の部屋 ) は坂の上にありて、家々の梅園を見下し、 好きながめなり」 ほととぎす はつがらす