に「あのな、お父さん。赤ン坊をお寺へやってはいやそな。おつつけウチが勉強してな、 お豆腐ほどお金をこしらえてあげるそな」 かみがた ウチというのは上方では女児が自分をいうときに使うのだが、松山へいくと武家の子 でもウチであるらしい 「お豆腐ほどのお金」 はんさっ とい , ったと一んも、 いかにも悠長な松山らしい。藩札を積みかさねて豆腐ほどのあっさ にしたいと、松山のおとなどもはいう。それを信さんは耳にいれていたらしい 旧幕時代、教育制度という点では、日本はあるいは世界的な水準であったかもしれな 。藩によっては、他の文明国の水準をあるいは越えていたかもしれなかった。 伊予松山藩では、 「明教館」 という藩校がある。藩士の子弟はことごとくそこに入る。明教館には小学部が付属し ており「養成舎」といった。普通、数え年八つになれば入学した。 信さんとよばれていた秋山好古も、八つでその学校に入った。 明治になり、その四年、松山にも小学校が設けられ、士族も町家の子弟もそこに入っ ましやく たが、間尺のわるいことに信さんはすでに十三歳であったために、齢がどっちつかすで あり、
321 族とされていた薩摩士族軍をやぶってから、評価がかわった。松山地方でも、 西郷隆盛いわしか雑魚か 鯛 ( 隊 ) に負われて逃げてゆく という唄がはやった。チンダイの意外なつよさが見なおされたのである。 明治のはじめ、松山には連隊がなかった。明治八年、丸亀に歩兵第十二連隊がおかれ、 松山には分営があっただけである。 が、明治十七年、松山にも連隊がおかれることになり、歩兵第二十二連隊とよばれた が、実際にそれが発足したのは明治十九年であった。兵営は温泉郡松山堀之内にもうけ られた。 松山も、えらいものになった。 と、土地の連中は満足していた。さらにかれらを満足させたのは、丸亀にあった歩兵 第十旅団司令部が、去年の明治二十一年、松山に移ってきたことであった。 す町に、兵隊の数がふえた。 しず さらにこのねむったように閑かな城下に話題を提供したのは、お城の北のほうの一万 村の耕地六万坪が陸軍によって買収されたことであった。演習場になるわけだが、この ための用地買収はすでにおわり、師団司令部のある広島からエ兵隊がやってきてそれを
どうご たいとう は道後の温泉があり、すべてが駘蕩としているから、自然、ひとに戦闘心が薄い。 この藩は、長州征伐でも負けた。負けてくやしがるよりも、謡がはやった。 長州征伐マの字にケの字 かんぶくろ あと 苗に紙袋で、後に ) 垣う 士族の子までうたった。 ま とばふしみ 敗けといえば、鳥羽伏見でも負けた。藩士は海を渡って逃げて帰った。さんざんに負 けた上に城も領内も土佐藩に保管された。 あずかりち 「当分土州預地」 こう一つ という高札が、城にも城下の四つ角にも立てられた。 おがさ もっとも土佐人がこの松山で乱暴を働いたという事実はなかった。土佐の隊長は小笠 わらただはち 原唯八と一一 = ロ い、淡泊で知られた男で、進駐した士卒を厳重に統率し、松山藩士の感情を 傷つけぬようにつとめた。 むしろ松山藩は、この小笠原唯八のためにすくわれた。なぜならば官軍の一派である みつはま 長州人が海を渡って松山の海港である三津浜に上陸した。 「先年の長州征伐のうらみを報じてやる」 ふくしゅう と、長州人は最初から復讐に燃えてやってきたのだが、小笠原唯八がそれをなだめ、 うた
名古屋には、和久正辰という同藩の先輩がいることを、好古は知っている。 ( 親切なおひとじゃ ) そばく と、好古は素朴におもっていた。好古が大阪の師範学校にいたとき、なにかの名簿で しらべて好古が松山出身であることを知ったらしく、 「名古屋へ来ないか」 と、手紙をくれたのである。和久正辰の手紙は壮士の演説のように激しく、薩長藩閥 が天下をあたかも独占してしまっていることを憤慨し、それにひきかえ伊予松山藩が 微々としてふるわぬことをなげき、 今後は若い者にまっしかない。 と一一一一口し 、、「たまたま自分は愛知県の教育界にいる。仕事の余暇に全国七つの師範学校 の在校生の出身県をしらべたところ、意外にも松山人が大阪の学校にいることを知り、 旧藩のため心強くおもった。それによってこの手紙を出すのである」と書いてあった。 ( えらいことだ ) と、好古はおもった。 おとなどもの藩意識の強さが、である。好古などは十歳の幼さで明治維新をむかえた から、あのとき藩が土佐藩に占領管理されたくやしさというものはあわい思い出でしか なくなっている。その後体が成長して世間に目をひらいたとき、もはやこのあたらしい ひた 時代になんの抵抗もなく全身で浸りきっていた。
この前後、子規の友人の四、五人も中学を中退して上京した。流行のようであった。 東京でのめあては、東京大学予備門に入ることであった。 真之は松山にのこされたが、しかしこの若者 ( 少年というべきか ) にも子規とおなじ 幸運がおとずれた。 「 ~ 浮」 と、父の久敬が真之をよんだのは、子規が東京へ去ってからほどなくのことである。 「淳、東京へゆきたくないか」 ( なにをお言いじゃ ) と、真之は父親の言いぐさが気に入らなかった。自分を東京へやってくれる意思もな いくせに、話題だけで若い者のきもちをなぶるのはとしよりのわるいくせである。 「ゆきたいが、うちにはお金がありませんじやろが」 「いや、学資の問題は解決している」 ときわ 「常盤会 ? 」 と、真之は身をのりだした。 之「常盤会にあしを入れてくださるのじやろか」 常盤会というのは、旧松山藩主久松家がつくった育英団体である。 真 松山藩というのは、維新では「賊軍」に準ずべき立場におかれ、このままでは薩長が ぎゅうじ 牛耳っている政権のもとで虫のように生きてゆかねばならない。 この窮状から脱出す
川 8 これが、県下に演説流行をまきおこした。ついでながら県会議事堂というのを、 「県会座」 という。この県会座は松山中学のそばにあったため、子規らは休み時間にはこっそり 出かけて行って演説の傍聴をした。 明治十四、五年ごろになると松山市内に青年演説グループがいくつもできたが、子規 は一人でその三グループの会員になるというほどに熱心だった。 「自由とは何そや」 といった演題で、子規は市内の会場をぶってまわったりした。 「志士きたる」 などというはり紙が、大街道の人目につくところに貼り出されていた。自由民権運動 家のことを、松山では「志士」といっていた。 えもり ふなや 高名な植木枝盛が松山にきて鮒屋旅館にとまったときも、中学四年生の子規はなかま と一緒に旅館へおしかけ、意見をきいたこともある。 かといってそれがおもしろいということでもなく、 「なにかあしにとっておもしろいことはないか」 ということを懸命にさがしている様子であった。真之はそういう子規からみれば、は るかになまな少年であった。 四年生の正月、真之が子規の書斎にあそびにゆくと、
しゆくさい という三つの学科が、明治初年の教養の三本柱になっているらしい 真之の当時の松山中学校の校長は、儒者近藤元弘である。ちなみに藩の儒者近藤名洲 の長男が元修、次男が元弘、三男が元粋という順になっている。 英語教育については、 「じつにふしぎな英語だった」 と、この当時の卒業生たちはいう。発音は先生の我流で、年中酔っぱらっている三輪 ムーン、月を見よ、といっここ 淑載先生などは、松山弁の発音をした。シー ぐいであった。発音より、意味に重点がおかれた。 むろん、学習専門の英語教科書などはなく、いきなり原書が用いられた。二年生ぐら いですでにバ ーレーの「万国史」を読まされ、高学年になると、ミルの「自由之理」が 用いられた。先生もさほどの学識がなく、そのつど、 「このところ、不可解なり」 と、飛ばしてしまう。生徒たちもそれを当然なことにおもった。維新後十年そこそこ というのに、松山の田舎でミルの「自由之理」の英文が完全にわかるような教師がいる はすがなかった。しかし英語教師は啓蒙思想家をも兼ね、 自由とま、 ) こ 。し力し大切か ということを教壇上から教えた。この点、原書を教材にすることは一種の便利さがあ ーレーの「万国史」にしても、この当時の中学には歴史という科目がなかったか
110 と、子規は、中学初学年のころあれだけ漢文漢詩に熱中していたことからみると、別 人のようなことをいった。 「考えてもお見イ」 ふじゅ 子規がいうのには、松山の漢学の先生はいくら学問がおありでもみな腐儒じゃ。日本 しん、一く に国会開設を要求してのさわぎあり、ロシアが清国をおかして世界の論議がわき、さら にイギリスがどう、フランスがどうというこの地球上が沸きたっちよるのに、松山の漢 学の諸先生の目には見えざるごとく耳には聞かざるごとく、田園に悠々閑居して虫食い 本をめくっておられる。 「やつばり、英語じゃ。英語をしつかり学ばんけりゃならん」 と子規が机をたたいたとき、真之はあやうくふきだすところであった。松山中学では 英語がよくできるのは真之で、子規は他学科にくらべれば格段におちた。 「なるほど、あしは」 と、子規はいった。 「英語がでけん。でけんのは、松山中学の英語があしに受けつけんのじゃ」 ( ずいぶん勝手なことをいうやつだ ) というのが本音であった。 と真之はおもったが、 子規は要するに東京へ出たい、 「出たい、出たい。。 とうにもならんはどあしは東京へ出たい」 と子規ま言、、 。しかたわらの紙をひきよせ、筆をとって、
引 0 はさっさとフランネルの長袖のシャツを身につけはじめていた。 たたき 母親のお八重がそういう子規の挙動に気づいたのは、子規がすでに三和土におりてし まっているときであった。 「べースポール , と、お八重は悲鳴をあげた。 子規は薄べったい下駄に足をのせながら両手をあわせ、 ゅんべ 「母さん、タから気分がええもんじやけれ、ちょっと連れざって行かせて賜し」 そう言いすてると逃げるように出た。門前の小川に板橋がかかっている。お八重がく っぬぎ石にとびおりたときは、子規の姿はなく、その板橋を駈けすぎる足音だけがきこ えた。 「全国に知られた松山の野球は、正岡子規によって伝えられた」 と、昭和三十七年刊行の「松山市誌」のスポーツの項に書かれている。子規は明治十 七年大学予備門に入学するとまもなく野球をおばえ、これに熱中した、とある。その後、 これを松山にもちかえった。 ちなみにかれはのちに新聞「日本」に書いた「べースポール」という一文のなかで野 球術語を翻訳した。打者、走者、直球、死球などがそうであった。 きよし このときの子規の姿を、当時まだ松山中学の生徒であった高浜虚子が目撃している。 たも
を、この重症状の病人がした。かといって療養についての知識はあるほうだから、やは り天性の楽天家なのかもしれない。 話がわき道にそれるようだが、 薩長土肥は明治の天下をとっただけに藩が解体したあ とも郷党の子弟教育に力をそそいだが、その四藩のほかでは子規らの旧松山藩がさかん 文部省の部内でも、 「内藤先生は、たかが寄宿舎の舎監になるために官を辞めるのか」 とおどろいたくらいであった。 あたらしく常盤会寄宿舎の監督になった内藤鳴雪は東京でも知名の士であったが、郷 里の松山ではむろん高名であった。 鳴雪はこのとし四十三歳である。 「内藤先生は一晩で『日本外史』全巻を読まれるそうだ」 というのが、子規らの少年のころの町の伝説であった。神わざにちかい。 す鳴雪が寄宿舎にやってきたとき、子規はまず伝説の真否についてきいた。 と「とんでもありませんよ」 と、鳴雪は青書生に対してもていねいなことばづかいでいう。 「一晩はおろか、『日本外史』を通読したこともあるかないかというところです」 、、こっこ 0 や