るすはずがない。ちなみに好古はこのころ陸軍士官学校を卒業して少尉に任官し、東京 鎮台騎兵第一大隊の小隊長をつとめていた。 しんあに 「信兄さんはおこるじやろか」 「中退してはな」 とお貞はいっこ。 「ホいでも母さん、中退しても学力さえあれば東京大学予備門には受かるんそな」 「中退は、ならんぞな」 お貞は、針をうごかしつづけている。 「ホいでも母さん、正岡の升さんは中退してゆくそなもし」 「正岡の升さんはな」 と、お貞はいった。 「気のうつりやすいお子じやから」 お貞は、子規の気象をそうみていた。 「それに正岡さんにはお金がある」 之秋山家は武士でなくなったいわば退職金ー・・ー家禄奉還金ーーというものを、お徒士だ から , ハ百円しかもらわず、それに子だくさんだから家計は大変だったが、正岡家は上士 真であり千二百円の家禄奉還金をもらっているうえに家族は末亡人と子規とその妹しかい ない。子規が東京へゆく経費ぐらい、なんとか出るのである。
子規の家は、子規がうまれた年に湊町四丁目一番地にかわっている。 かんがいトう 市内ながら灌漑用の小川が流れている。川幅二メートルほどで、中ノ川といい、石手 ーのえだ川であり、水が飲めるほどにうつくしい。 子規の正岡屋敷は南側の生垣をこの流れに映し、東側に土塀がつづき、表門がある。 屋敷地のひろさは百八十坪ほどであった。 おうままわり ( 正岡の家は御馬廻役じやからな ) 御馬廻役は戦場にあっては殿様の親衛隊隊士であり、身分は低くない。だから屋敷も ひろい、と真之は門を入りながらわが家とくらべてそうおもった。門を入って十数歩ゅ くと、正面に玄関がある。 玄関が四畳、すぐ奥が八畳の客間、その北六畳が居間、居間の東側に板敷四畳半はど すいじ の台所兼食事場、その東が土間になっていて炊事場になっている。 若い娘たちの声がきこえた。 ( あら、なんじゃ ) とおもったが、すぐお針だということをおもいだした。子規の母のお八重は未亡人に 之なってから近所の娘たちにお針を教えている。もっとも正岡家の暮らしは士族の家禄奉 還金があった上にお八重の実家の大原家が多少のめんどうをみていたから、裁縫教授で わばお八重の趣味のようなものであった。 真家計がささえられているのではなく、い 「こっちイお出で」 みなと
文の報酬もでるわけではない。 ちなみにこの正岡老人らの努力で松山の水泳は瀬戸内海沿岸の諸県では群を抜いて水 準が高かったことはたしかであった。流儀は一部水府流もおこなわれていたが、神伝流 がおもで、大正十二年、クロール泳法が移入されるとともにそれに座をゆずった。 とにかく、正岡老人がすわっている。 老人の頭上に、 ふんどし 「ここでは褌をせぬと泳がれん」 という注意がきが貼りだされている。「泳がれん」というのは泳ぐべからすという意 味で伊予弁と土佐弁にある語法である。 入場者は、老人に頭をさげる。真之も老人にあたまをさげて入った。 ほうらっ しばらく泳いで上へあがると、陸軍の兵隊が二人、入ってきた。ふたりとも放埒にも 褌を締めす、上から下までつるりとしている。 木彫が、動いた。 「なぜ、法度をまもらぬ」 すと大喝したが、 兵隊はそれを黙殺した。老人がさらにいうと、兵隊のひとりが、 持たんのじゃ。 と、水の中からわめき、平気でおよいでいる。藩政以来のお囲い池の神聖伝統がやぶ られたばかりか、松山の水泳の神さまに対してこれほどの侮辱が加えられたことはかっ はっと
324 きのう、わしらの仲間をたたいたのはあんたじやろうがの。 と、広島弁でいった。 ところ 「あいは、住所と名を名乗った。それが武士の作法じゃが、鎮台はそれを心得んか。官 姓名を名乗ってからものをいえ」 兵隊は、いよいよひるんだ。 たれも名乗らす、くちぐちにうぬは兵隊を侮辱した、警察に願い出るけん、そのつも りでおれ、といった。かれらは真之のからだのすみずみまでみなぎった闘志に閉ロした のであろう、警察へ出訴するという案に方針をかえていた。 これはいかん。 とおもったのは、脱衣所の前のむしろの上にすわっていた正岡老人である。 ( 警察に訴えられては、秋山の家名にも傷がつく。兵学校にも知れるにちがいない ) とおもい、立ちあがった。この時代の警察の威光は旧藩時代の奉行所以上のものであ り、町の者は警察ときけばふるえあがった。むろん、兵隊も、警察をおそれた。兵隊に 警察は国家権力そのものであった。 はなんの権力もないが、 「おぬしら、しばし黙れ。あしは旧松山藩水練指南役で正岡という者である」 と、老人は扇子をにぎってすすみ出、 「このお囲い池にはお囲い池の規則がある。ここで規則違反をやった者はお囲い池の水 をのませるという作法になっているけれ、それほど鎮台衆がご不満なら、秋山がいま申
、こまごまと養生法を教えた。第一に安静、第二に滋養という。 。しオカ松山の牛肉はおそろしく固く、物 滋養については牛肉が第一と明星さんよ、つこ、、 食いの子規も、 「あの肉では、噛むうちに疲れて、病気にはようない」 と言い、食わなかった。 スッポンの生血がいしし 、と、うことは、松山では定説のようになっており、スッポン屋 てんびんぼう という商売もあって、天秤棒で荷をかついで町をながしている。そのスッポン屋が、毎 日正岡家に入ることになった。 スッポン屋は台所のすみを借用して仕事をする。手袋を噛ませ、くびを十分にさしの ほうちょう べさせたうえで庖丁でそれを断ち、生血をとる。盃に七分どおりはとれる。 ( 兄さんはいやがるやろな ) それを病室にもって行ってやると子規は平気でのんだ。 と、最初、お律はおもったが、 子規にはそういうぬけぬけとしたところがあった。 残った肉は吸物にした。この美味は子規をよろこばせた。スッポンというのは松山で も値のたかいもので、正岡家ていどの世帯ではふつう、ロに入らぬものだった。 ぜいたくといえば、医師のすすめで、桃を毎日食べた。なまの桃ではなく、ぶどう酒 で煮た桃だった。 けんたんか 子規は元来が健啖家で、このような病気になっても食欲がおとろえず、食事と食事の
少年のころからするどく、顔そのものも筋肉でできているように筋ばっている。お律に いわせればそのうえに色が真っ黒になって目ばかりぎよろぎよろしている。 「だから悪相か」 子規は、笑った。お律の反語にちがいなかった。 好きなんじゃ。 と、これまでもそうにらんできたが、いまあらためてそうおもった。 かって、かるい縁談のようなものが、匂い程度にあったらしい 正岡のお律さんを、好古さんか真之さんにどうじやろか。 と、ある漢学の先生が秋山で話した。ところが意外な返事があった。 「あれらは、ど , つにもなりますまい」 と、秋山家のほうではいうのである。 もともと兄の好古は独身主義者で、 「軍人でも学者でも、嫁をもらうと堕落する」 という独断をもっている。好古にいわせると、この国家を興すために大勉強をせねば すならぬというのに、嫁をもらって家庭をつくるとふしぎに呆けてしまう。だから嫁をも とらわねばならぬとしたら、うんと晩婚がいし というのが持説であった。この晩婚論は 晩年になっても後輩にしばしば説い 自然、真之に対して、 にお すじ
174 味をもったことや自分が悟った真実を友人たちに及ばさねば気のすまない性質だった。 真之も読むことにした。 大学予備門の生活は、子規にとって快適であった。 「この世に語学というものさえなければ、天下におそるべきものはない」 と、子規は毎日、あたるべからざる活気でくらしている。才を恃んで多少ひとを小馬 鹿にしているようなところもあったが、同級の連中もそういう子規をゆるし、一段高い 場所に置いているふうがあった。 そういうなかで、子規の親友が , ハ人あり、子規はこのなかまを、 「七変人」 と称して得意になっていた。その名は、子規の手記を写すと、つぎのようである。 関甲七郎陸奥人 ひたち 菊池謙一一郎常陸人 井林広政伊予人 つわのり 正岡常規 ( 子規 ) 伊予人 秋山真之伊予人 神谷豊太郎紀伊人 たの
引 4 ろうばい をされるのがはじめてだったから、狼狽のあまり、ざるをおとしそうになった。そのざ るを地面に置くと、家のなかに駈けこんだ。 ざるの中の胡瓜が、まるく陽にあたっている。その一本ずつに呪文が書かれていた。 となると、お律は「胡瓜封じ」から帰ってきたところなのだろう。真之はその呪文つき の胡瓜をながめているうちに、 ( 升さんも、大変じゃな ) と、妙に物哀しくなってきた。 子規の病気のことであった。 「正岡の家の前には、いつもスッポン屋が荷をおろしている」 ときいたが、 きようはそれをみず、呪文つきの胡瓜を見てしまった。 やがてお律がもう一度出てきたときは、別人かとおもわれるほどにとりすました顔に なっていた。 武家ことばで神妙にあいさつをし、真之を招じ入れた。奥四畳に通ると、子規が臥て 「淳さん、おそかったなもし」 と、子規はうらむようにいった。真之はあのように伝言していながら、学校の都合で 帰省の日がのびてしまった。 「ああ、都合があったけれ」
114 明治十六年六月、正岡子規は中学を五年生で中退して東京へゆくことになった。 「升はおもいたっと、待てしばしがない子じやけん」 と、子規の母親もこれにはこばした。子規は後年、「半生の喜悲」というみじかい文 章をかいたが、このなかに、 「余は生れてよりうれしきことに遭い思わずにこにことえ ( 笑 ) みて平気でいられざり しこと三度あり。第一は東京の叔父 ( 加藤恒忠 ) のもとより余に東京へ来れという手紙 来りし時」 と、書いてある。中学を中退して東京へ出るということが、松山じゅうを駈けまわり こいほどにうれしかったのであろう。 子規は、しつこかった。 東京へ出たい。 という手紙を、半年間、叔父の加藤恒忠に送りつづけた。加藤はそのつど、 国もとで勉強せよ。 せめて中学だけでも出よ。 とかいって反対しつづけてきたが、 この五月になってにわかに、 「出てこい」 とか、 きた
いわば、戦術であった。 どかあーん と「流星」という花火があがり、町のひとびとをおどろかせた。何発もあがった。そ のうちにはおまわりが駈けこんできたが、 ' 真之らは闇にまぎれて逃げ散ってしまった。 ある日、警察では多人数の警官をそろえ、子供たちの挙動を昼から偵知し、かれらが 野外にあつまったとき、それをこっそり包囲していっせいに突進した。このため子供の 半分はつかまってしまった。 真之は逃げた。 げんきよう が、元兇であることは子供たちの自供で知られてしまったから、警官が秋山家を訪 せつゆ ね、厳重に説諭するよう申し入れた。 「私も死にます。おまえもこれで胸を突いてお死に」 と、平素おとなしい母親が短刀をつきつけて真之を叱ったのは、このときである。 子規は、そうではないらしい 文芸史上、あれほど剛胆な革新活動をした正岡子規も、幼少のころは「升さんほど臆 病な児もない」といわれた。 のう 六つか七つのころ、松山ではじめて能狂言の興行が一般に公開され、町じゅうの評判 になり、子規も祖父の大原観山につれられて見物に行ったところ、