ときいた。真之は、 「横浜の兄さんから貰うたんです」 というと、好古は大声で、 「歴とした男子は華美を排するのだ。縄でも巻いておけ」 といった。縄はひどすぎると真之はおもい、結局はもとのひも帯姿にもどった。この ちりめんの兵児帯は行李にしまってついに用いる機会がなかった。 「淳さんは、ひどいなりで歩いているなあ」 と、子規は一度だけ真之にいった。子規は東京ではやりの麦わら帽子をかぶっていた。 正岡子規は、赤坂丹後町の須田学舎に入って漢文をならった。そのあと、神田の共立 学校に入り、英語をまなんだ。 「共立で勉強すると、大学予備門に入りやすい」 というのが、この当時の定評であった。いわば予備校のようなものであり、このコー スは陸羯南がおしえてくれた。 兵秋山真之も、子規と前後して共立学校に入った。授業料は、好古の給料袋から支払わ れた。 騎「なんというても、花の都じゃなあ」 と、入学早々子規が真之にささやいたのは、この学校の英語教師の発音が、まるで松 れき なわ
この学校の校長になってくるのではあるまいな , ーーと、この校長はまず声をあげて恐 怖を示した。紅鳥などはいわば小学校草分けのころのどさくさでその職についたにすぎ す、政府としてはこの種の無資格者をおいおい平教師におとし、師範学校出の者に校長 職をとらせる方針であった。 しいえ、あしは齢が足りません」 「十八だな」 紅島は、ほっとした顔をした。 「で、任地はどこになった」 「愛知県立名古屋師範学校に付属小学校ができましたので、そこに参ります」 「俸禄は」 月三十円である。 ぎようてん これには、紅鳥先生は仰天せざるをえなかった。紅鳥ですら、十七円である。 ちなみにーーーやがてこの物語に登場する正岡子規が、この時期よりはるかのちの明治 二十五年、二十 , ハ歳で日本新聞社に入社したときの給料が十五円であった。 「お豆腐ほどお金をこしらえてあげるがな」 やと、「信坊」といわれていた十歳のとき、父にいった言葉が、八年後に実現した。「信 春坊」は名古屋へ出発した。
244 事のおこりは、旧藩主久松家にある。はなしがはじまったのは、明治十九年の春であ 「重大な話があるから、つぎの日曜日、御屋敷まで足労ねがいたい」 という旨の使いが鎮台司令部にいる好古のもとにきた。旧藩時代でいえば上使がきた キ、もいの・ ようなものである。好古は、つぎの日曜日にはかれが肝煎をしている騎兵会の会合があ ったのだが、 その予定を変更して参上することにした。 旧藩主家というのは、この当時、まだそれはどに重い。明治後、官吏や軍人は天子に 直属し、「陛下の軍人」というたてまえになったのだが、しかし士族あがりの官吏、軍 人の立場は微妙であった。なおも儀礼上、旧藩主家に対し、家臣の礼をとりつづけてい る。 軍人でなくても、学生の正岡子規の場合ですら、そういう例がある。十九年の夏、 さだやす 定靖さまのお供をせよ。 と、御屋敷から命ぜられた。定靖というのは久松家の子息のひとりで、日光方面に旅 ちゅうぜんじこ 行するという。子規は命に従い、定靖のはなし相手をつとめつつ中禅寺湖、伊香保な どにあそんでいる。 つぎの日曜日、好古は御屋敷へ参上した。が、陸軍大尉といえども、旧臣であるかぎ り、応接には通されない。 「御用部屋へ」 る。
坂の上の 坂の上の雲 ( 一 ) 司馬遼太郎 文春文庫司馬遼太郎作品リスト 最後の将軍ー徳川慶喜ー新装版余話として 十一番目の志士 ( 上 ) ( 下 ) 翔ぶが如く ( 一 ) ー ( 十 ) 世に棲む日日 ( 一 ) ー ( 四 ) 木曜島の夜会 酔って候 歴史を考えるみ ー ( 八 ) 新装版 竜馬がゆく ( 一 ) 対談中国を考える ー ( 六 ) 新装版 功名が辻 ( 一 ) ー ( 四 ) 菜の花の沖 ( 一 ) ロシアについて北方の原形 故郷忘じがたく候 歴史を紀行する 手掘り日本史 この国のかたち ( 一 ) ー 幕末新装版 夏草の賦 ( 上 ) ( 下 ) 八人との対話対談集 義経 ( 上 ) ( 下 ) 対談西域をゆく 坂の上の雲 ( 一 ) ー ( 八 ) 新装版歴史と風土 日本人を考える対談集 ベルシャの幻術師 殉死 司馬遼太郎の世界 ( 文藝春秋編 ) 明治維新をとげ、近代国家の仲間 入りをした日本は、息せき切って 先進国に追いっこうとしていた。 この時期を生きた四国松山出身の 三人の男達ーー・ - 日露戦争において コサック騎兵を破った秋山好古、 日本海海戦の参謀秋山真之兄弟と 文学の世界に巨大な足跡を遺した 正岡子規を中心に、昂揚の時代・ 明治の群像を描く長篇小説全八冊 著者紹介 司馬遼太郎 ( しば・りようたろう ) 大正 12 ( 1923 ) 年、大阪市に生れる。 大阪外国語 ! 岩交蒙古言斗卒昭 和 35 年、「梟の城」て、第 42 回直木賞 受賞。 41 年、「竜馬がゆく」「国盗 り物語」て菊池寛賞受賞。 47 年、 「世に棲む日日」を中心にした作家 活動て、吉川英治文学賞受賞。 51 年、 日本芸完恩、賜賞受賞。 56 年、日 本芸術院会員。 57 年、「ひとびとの 跫音」て、読売文学賞受賞。 58 年、 「歴史小説の革新」についての功績 て瀚日賞受賞。 59 年、「街道をゆく 、、南蛮のみち I 、、」て、日本文学大賞受 賞。 62 年、「ロシアについて」て、読 売文学賞受賞。 63 年、「韃靼疾 ) 電刺 て大佛 : 知に賞受賞。平成 3 年、文 イ j 労者。平成 5 年、文イ ~ 章受 を著書に「司馬遼太郎全集」 ( 文 藝春秋 ) ほか多数がある。平成 8 ( 1996 ) 年没。 9 7 8 4 1 6 7 1 0 5 7 6 1 II ⅢⅢⅡⅡⅧⅢ 1 9 2 0 1 9 ろ 0 0 5 5 2 ろ I S B N 4 ー 1 6 ー 7 1 0 5 7 6 ー 4 C 0 1 9 5 \ 5 5 2 E 定価 ( 本体 552 円 + 税 ) 文春文庫 し 1 文春文庫 文 カバー・風間完 552 十税 文春文庫
114 明治十六年六月、正岡子規は中学を五年生で中退して東京へゆくことになった。 「升はおもいたっと、待てしばしがない子じやけん」 と、子規の母親もこれにはこばした。子規は後年、「半生の喜悲」というみじかい文 章をかいたが、このなかに、 「余は生れてよりうれしきことに遭い思わずにこにことえ ( 笑 ) みて平気でいられざり しこと三度あり。第一は東京の叔父 ( 加藤恒忠 ) のもとより余に東京へ来れという手紙 来りし時」 と、書いてある。中学を中退して東京へ出るということが、松山じゅうを駈けまわり こいほどにうれしかったのであろう。 子規は、しつこかった。 東京へ出たい。 という手紙を、半年間、叔父の加藤恒忠に送りつづけた。加藤はそのつど、 国もとで勉強せよ。 せめて中学だけでも出よ。 とかいって反対しつづけてきたが、 この五月になってにわかに、 「出てこい」 とか、 きた
いわば、戦術であった。 どかあーん と「流星」という花火があがり、町のひとびとをおどろかせた。何発もあがった。そ のうちにはおまわりが駈けこんできたが、 ' 真之らは闇にまぎれて逃げ散ってしまった。 ある日、警察では多人数の警官をそろえ、子供たちの挙動を昼から偵知し、かれらが 野外にあつまったとき、それをこっそり包囲していっせいに突進した。このため子供の 半分はつかまってしまった。 真之は逃げた。 げんきよう が、元兇であることは子供たちの自供で知られてしまったから、警官が秋山家を訪 せつゆ ね、厳重に説諭するよう申し入れた。 「私も死にます。おまえもこれで胸を突いてお死に」 と、平素おとなしい母親が短刀をつきつけて真之を叱ったのは、このときである。 子規は、そうではないらしい 文芸史上、あれほど剛胆な革新活動をした正岡子規も、幼少のころは「升さんほど臆 病な児もない」といわれた。 のう 六つか七つのころ、松山ではじめて能狂言の興行が一般に公開され、町じゅうの評判 になり、子規も祖父の大原観山につれられて見物に行ったところ、
膝の上に立てている。 素読の教材は、論語か孟子であった。一日半頁ほどを読む。 解釈はない 。ます先生が朗読される。すこし節のついた素読特有のよみ方で、先生に よっては上体をゆすって拍子をとりながら読んでゆく。それがおわると、子供たちがそ のふしのままに唱和する。さらに一人ずつ読みあげる。すこしでも読みまちがえると、 先生が立てている鞭が飛び、びしっと机をたたく。このおそろしさはそのつど息がとま るほどであった。 解釈はいっさいなかったが、 毎日このようにして朗読していると、漢字の音の響きが 子供心にも美しいものとしてわかってくる。意味もおばろげながらわかるようになるも のらしい これが、 「淳さん」 といわれた秋山真之の少年期の塾であった。 「升さん」 といわれた正岡子規がかよっていた塾は、土屋久明の塾である。 之 もっとも子規は外祖父が松山第一の学者である大原観山であるため、小学校にあがる 真までは観山翁みずからの手で素読を教わるという幸運を享けた。観山翁の教授は朝五時 めから六時までであった。この老人は子規を愛し、
引 0 はさっさとフランネルの長袖のシャツを身につけはじめていた。 たたき 母親のお八重がそういう子規の挙動に気づいたのは、子規がすでに三和土におりてし まっているときであった。 「べースポール , と、お八重は悲鳴をあげた。 子規は薄べったい下駄に足をのせながら両手をあわせ、 ゅんべ 「母さん、タから気分がええもんじやけれ、ちょっと連れざって行かせて賜し」 そう言いすてると逃げるように出た。門前の小川に板橋がかかっている。お八重がく っぬぎ石にとびおりたときは、子規の姿はなく、その板橋を駈けすぎる足音だけがきこ えた。 「全国に知られた松山の野球は、正岡子規によって伝えられた」 と、昭和三十七年刊行の「松山市誌」のスポーツの項に書かれている。子規は明治十 七年大学予備門に入学するとまもなく野球をおばえ、これに熱中した、とある。その後、 これを松山にもちかえった。 ちなみにかれはのちに新聞「日本」に書いた「べースポール」という一文のなかで野 球術語を翻訳した。打者、走者、直球、死球などがそうであった。 きよし このときの子規の姿を、当時まだ松山中学の生徒であった高浜虚子が目撃している。 たも
といった。羯南にいわせると、加藤は大臣になろうというようなそういう野心のある 男ではない。かれほど淡泊で俗っ気のすくない人物をおれは見たことがない、いやにな れば惜しげもなくやめるというところが加藤恒忠なのだ、というのである。 加藤恒忠は、松山藩の藩儒大原観山の子であり、正岡子規の母とは姉弟であることは さき さきに触れた。子規はこの叔父をたよって東京へ出た。たまたま直忠は既述のいきさっ によって旧藩主久松定謨のフランス留学についてゆかねばならなくなったため、子規の ことを友人の陸羯南に托した。そのこともすでに触れた。 ところで。 と、好古の面前にいる家令の藤野漸老はいうのである。 「すでに滞仏三年、加藤からのたよりでは学業は大いにすすんでおられるらしい」 、らに、 「来年ーー明治二十年ーーーは、サンシールの陸軍士官学校に入学なさらねばならない」 と、藤野老はいっこ。 士官学校に入る以上は、輔導役としての加藤恒忠はそのほうの門外漢だから、これ以 校上はっき添っても意味がない。さらに加藤はこの滞仏中に外務省の籍に戻り、「交際官」 兵という職に任ぜられたから、十分の面倒がみられない。 そっか 海「そこで、足下だ」 と、藤野老がいった。輔導役としてフランスに行ってくれんか、というのである。
十九翁が怒りだした。 「あの大街道で、父子対面するような照れくさいことができるか。なあ、淳」 真之は、苦笑した。ひさしぶりの町も秋山家もすこしもかわっていない きよし この夏、高浜清 ( 俳号・虚子 ) は、松山中学に入ってまだ数カ月にしかならない少年 であった。 秋山のヤソクさんのとこの淳さんが帰っている。 といううわさは、少年の仲間にたちまちひろがった。少年たちは英雄がすきで、真之 のうわさをあたかも古英雄の逸話でもきくようにきいた。 とくに、虚子にとっては真之という存在は他人のようにはおもわれない。旧藩時代、 高浜家と秋山家はおなじ徒士組で、八十九翁と虚子の実父池内信夫とは同役でもあり、 その後も家同士の交際がつづいている。 が、虚子自身は真之とゆききがあったわけではない。 ちなみに虚子は松山中学四年生のとき第一高等学校 ( 大学予備門の後身 ) を受験する 校ために上京し、常盤会の寄宿舎に入った。このときはじめて正岡子規に手紙を出し、文 兵学への志をのべ、教えを乞いたいという旨を申し送っている。が、この真之帰省当時の 海虚子は、まだそういう志向も芽ばえぬ少年であったにすぎない。 「淳さんは、泳ぎが一番じやげな」