と、好古は湯のみをおいた。 好古は考えている。途中、真之が、 兄さん。 しいかけたが、 : 好古はちょっとにらみつけて黙殺した。ここはよく考えねばならな 好古は、この弟にとって教師だと自認してきた。だからいいかげんなことはいえな いし、このばあいとくに真之の生涯にかかわるだけに、思慮をかさねねばならない やがて、 「おれは、単純であろうとしている」 と、好古はいった。さらに、 「人生や国家を複雑に考えてゆくことも大事だが、それは他人にまかせる。それをせね ばならぬ天分や職分をもったひとがあるだろう。おれはそういう世界におらす、すでに 軍人の道をえらんでしまっている。軍人というのは、おのれと兵を強くしていざ戦いの 場合、この国家を敵国に勝たしめるのが職分だ」 人 負ければ軍人ではない。 変と、好古はいう。 七「だからいかにすれば勝っかということを考えてゆく。その一点だけを考えるのがおれ の人生だ。それ以外のことは余事であり、余事というものを考えたりやったりすれば、
158 好古は、やはり心配だったらしい のばる 「升さん、 , つかりました」 と真之はます子規のことを言い ついで自分も合格した旨を報告した。 「酒をのもう」 好古は、長靴をぬぎすてるなりいった。祝杯だ、というのだが、 真之も子規も飲まな いから、結局は好古だけがのむ。 酒はおれの病気だ。 という好古は、他の豪酒家のように他人に酒を強いるということはなかった。徳利を ひや ひきつけて、冷のまま飲みはじめた。山賊のようであった。 酔えば、多少言葉かずが多くなった。 「秋山の兄さん、この世の中で」 と、子規はきいた。 「だれがいちばんえらいとお思いぞな」 「なんのためにきくのだ」 好古は、質問の本意をきいた。質問の本意もきかずに弁じたてるというのは「政治家 か学者のくせだ」と好古はつねに言う。軍人はちがう、と好古はいう。軍人は敵を相手 の仕事だから、敵についてその本心、気持、こちらに求めようとしていること、などを あきらかにしてから答えるべきことを答える。そういう癖を平素身につけておかねば、
205 七変人 好古はこの弟のことを、単に要領がいい男とはみていない。思慮が深いくせに頭の回転 が早いという、およそ相反する性能が同一人物のなかで同居している。そのうえ体の中 をどう屈折してとびだしてくるのか、ふしぎな直感力があることを知っていた。 ( 軍人にいい ) と、好古はおもった。 軍人とくに作戦家はど才能を必要とする職業は、好古のみるところ、他にないとおも うのだが、 あるいはこの真之にはそういう稀有な適性があるかもしれぬとおもった。 「淳、軍人になるか」 がよろこびは湧か と、好古はいった。真之は、兄の手前いきおいよくうなすいた。、、、 なかった。軍人になることは、かれ自身がもっとも快適であるとおもっている大学予備 門の生活をすてることであった。 子規の顔が、うかんだ。おもわず涙がにじんだ。
244 事のおこりは、旧藩主久松家にある。はなしがはじまったのは、明治十九年の春であ 「重大な話があるから、つぎの日曜日、御屋敷まで足労ねがいたい」 という旨の使いが鎮台司令部にいる好古のもとにきた。旧藩時代でいえば上使がきた キ、もいの・ ようなものである。好古は、つぎの日曜日にはかれが肝煎をしている騎兵会の会合があ ったのだが、 その予定を変更して参上することにした。 旧藩主家というのは、この当時、まだそれはどに重い。明治後、官吏や軍人は天子に 直属し、「陛下の軍人」というたてまえになったのだが、しかし士族あがりの官吏、軍 人の立場は微妙であった。なおも儀礼上、旧藩主家に対し、家臣の礼をとりつづけてい る。 軍人でなくても、学生の正岡子規の場合ですら、そういう例がある。十九年の夏、 さだやす 定靖さまのお供をせよ。 と、御屋敷から命ぜられた。定靖というのは久松家の子息のひとりで、日光方面に旅 ちゅうぜんじこ 行するという。子規は命に従い、定靖のはなし相手をつとめつつ中禅寺湖、伊香保な どにあそんでいる。 つぎの日曜日、好古は御屋敷へ参上した。が、陸軍大尉といえども、旧臣であるかぎ り、応接には通されない。 「御用部屋へ」 る。
いざ戦場にのぞんだときには一般論のとりこになったり、独善におち入ったりして負け てしまう、と好古はいうのである。 「なんのためというて」 子規は、とまどった。ほんの酒の座の座談のつぎほのつもりできいたのである。 「ああ、なにげなしのものか」 と、好古はいった。 「生きているひとか」 「そのほうが、ためになります。生きているひとなら、訪ねて会ってもらえるというこ ともありますから」 ゆきち 「あしは会うたことがないが、 いまの世間では福沢諭吉というひとがいちばんえらい」 と、好古は著書をいくつかあげていったがこの返事は真之にも子規にも意外であった。 好古は軍人だから軍人の名をあげるかとおもったのである。 好古の福沢ずきは、かれが齢をとるにつれていよいよっよくなり、その晩年、自分の 子は慶応に入れたし、親類の子もできるだけ慶応に入れようとした。そのくせ生涯福沢 兵に会ったことがなかった。好古はおそらく、富裕な家にうまれていれば自分自身も福沢 の塾に入りたかったのであろう。 騎 大学の制度は、しばしばかわった。
という者もいた。 ドイツ式馬術を悪口する者もいた。 「あんなものは、馬術ではない」 と、かれらは、つこ。 「秋山もバリをすててベルリンにゆきたいのではないか」 という者もある。 わら 好古は、。 との問いに対しても微笑っているばかりでなにも言わなかった。一大尉の分 際で、外国人にむかって自国の方針を論評したところで、甲斐がない。 ドイツ式の馬術というのはどういうものかというのを、好古はフランス軍人からきい てほば見当がついている。 「ドイツ人は、人間を木か鉄だとおもっている」 と、フランスの軍人たちは悪口をいうが、ためしに好古は士官学校の図書館でドイツ 陸軍の「馬術教範」のフランス語訳をよんでみて、なるほどとおもった。 ( やはりドイツ人というのは世界の奇人種かもしれない ) とおもった。かれらドイツ人の能力の高さは好古が隣国のフランスに滞在しているだ 馬けにかえってよくわかっている。 けんろう 物事を論理的に追及してゆく能力の高さとその構成力の堅牢さはもはやゲルマン人の
ま思いあわせると、この秋山好古以外の者が日本の騎兵をうけもっていたならばどうい う結果になったかわからない 「秋山好古の生涯の意味は満州の野で世界最強の騎兵集団をやぶるというただ一点に尽 きている」 と、戦後、千葉の陸軍騎兵学校を参観にきたあるフランス軍人がいった。 が、この数えて十八歳の当時この若者には軍人になろうという意識はまったくなく、 もしあったところで薩長藩閥以外の青年がそういう世界にゆけるなどは、世間の常識と して一応も二応もむりであったであろう。 この当時の好古にすれば、 「あしは、食うことを考えている」 それだけであった。士族が没落したこんにち、伊予松山の旧藩士族の三男坊としては、 どのようにして世を渡ればひとなみに食えるかということだけが関心であった。この点、 好古はおなじ境遇の士族の子弟とかわらない。 ともかくも、官費で師範学校は出た。師範学校出といえば明治九年の当節、日本中で かそえるほどしかおらず、ほとんどが、卒業後すぐ校長になってそれそれの小学校に赴 任した。 好古は、とりあえずかって勤務した野田小学校の紅鳥先生を訪ね、礼をのべた。 「おま一んがまさか」
皿思慮がそのぶんだけ曇り、みだれる」 それで ? という顔を真之はしてみせた。 「それだけさ、おれがこの世で自分について考えていることは。 「あしのことは、どうなります」 「知らん」 好古は、にがい顔でいった。あしのことはあしが考えろと言いたし 「それで、兄さんは軍人に適いているとご自分でお考えですか」 「そう考えている。むいていなければさっさとやめる。人間は、自分の器量がともかく も発揮できる場所をえらばねばならない」 「それなんじゃが。兄さん」 と、真之はいっこ。 「亠めしは、、 しまのまま大学予備門にいれば結局は官吏か学者になりますそな」 「なればよい」 「しかし第二等の官吏、第二等の学者ですそな」 ふむ ? と、好古は顔をあげ、それが癖で、唇だけで微笑した。 「なぜわかるのかね」
たえて応募した。この名古屋あたりに書類がまわってきたのは、こんどの三期生からだ とい , つ。 「いったいなんという学校でございます」 「軍人の学校だよ」 と、和久正辰はいった。 ( なんのことじやろ ) という顔つきで、好古はばんやり正辰のロもとを見ていた。 「秋山」 正辰は、どなった。 「おまえは、若いのか年寄か」 「 ~ 右 , っ」ギ、いますらい」 「若ければ、敏感に反応しろ。好きかきらいか、どっちだ」 「考えたこともないけん」 と、つぶやいた。できれば学者になりたいとおもって勉強してきた。それがいきなり や鼻さきで兵隊になるかならぬかと問われたところで、即答できるわけがない。 春第一、兵隊というのは薩長の独占だときいてきたが、割りこむすきがあるのか、と思 5 しそこから質問してみた。
少年のころからするどく、顔そのものも筋肉でできているように筋ばっている。お律に いわせればそのうえに色が真っ黒になって目ばかりぎよろぎよろしている。 「だから悪相か」 子規は、笑った。お律の反語にちがいなかった。 好きなんじゃ。 と、これまでもそうにらんできたが、いまあらためてそうおもった。 かって、かるい縁談のようなものが、匂い程度にあったらしい 正岡のお律さんを、好古さんか真之さんにどうじやろか。 と、ある漢学の先生が秋山で話した。ところが意外な返事があった。 「あれらは、ど , つにもなりますまい」 と、秋山家のほうではいうのである。 もともと兄の好古は独身主義者で、 「軍人でも学者でも、嫁をもらうと堕落する」 という独断をもっている。好古にいわせると、この国家を興すために大勉強をせねば すならぬというのに、嫁をもらって家庭をつくるとふしぎに呆けてしまう。だから嫁をも とらわねばならぬとしたら、うんと晩婚がいし というのが持説であった。この晩婚論は 晩年になっても後輩にしばしば説い 自然、真之に対して、 にお すじ