の政体は絶対君主制だと確信している」 という。西欧的プルジョワ思想のもちぬしだったウィッテにしてしかもこのような意 見をもつのは、、かにロシア国家とその社会が他のヨーロツ。ハ諸国とちがうかというこ とを見るべきであろう。 アレクサンドル三世のロシア帝国はたしかに強大であった。 「なにがそのロシア帝国をつくったか。それはむろん無制限の独裁政治であった。無制 限の独裁であったればこそ大口シア帝国は存在したのだ」 ついでながら、ロシア帝政はニコライ二世を最後の帝としてたおれたが、それにとっ てかわった革命政権もまた独裁政治である時期が長かったことをおもえば、このウィッ テのことばはきわめて深い暗示をもっている。 開明家といっていいウィッテですら、ロシア的性格には独裁政治が必要なのだという。 「ピヨートル一世にせよアレクサンドル一世にせよ、憲法があったのでは、ロシア帝国 の建設はできなかったはずである」 強と、ウィッテはい , つ。 「私は内心ではまるで魔女にでも魅せられたように無制限な独裁政治の心酔者である」 列ウィッテ伯爵がこの回想記をかいたときには、すでにロシアの絶対君主制がたおれた あとであったから、かれは君主制にこびを売るつもりで書いているのではない。
372 と、ささやいた。 ウィッテは、日露戦争を予想した。 さらにはその敗戦も予想した、とウィッテ自身、その回顧録で語っているが、そこま では信じることができない。過ぎたことをふりかえるとき、人間は神になりうる。こう なることを私だけは知っていたのだ、と当時の渦中の当事者がいうほど愚劣なことはな ウィッテは、閣僚として渦中にいた。 「遼東半島を強奪したことがロシアののろわれた運命の第一歩だった。私のみがそれを 知っていた」 と、ウィッテは言いながら、遼東半島をシナからとりあげるということをニコライ二 世がきめたあとは、ウィッテはかれ自身の反対論をすて、その半島をとりあげる方向に むかってかれは、その能力を使用した。官僚は、一個の機能である。皇帝の大臣である 以上、しかたのないことであったかもしれないが、ウィッテのいう「没落への第一歩」 に、ウィッテ自身も力を貸したことはまぎれもない 「卿よ、卿は反対したが、しかし私はそれを決めた。わが艦隊はすでに陸軍部隊をのせ て遼東半島にむかっている」 ニコライ二世は、食卓の話題のような調子でウィッテにそう告げた。ウィッテは、無
374 このため西太后の態度はきわめてかたかった。 しかし、ウィッテには、手がある。 わいろ ウィッテの手とは、賄賂である。 シナ人官吏に対するロシア人の見方は、 「かれらシナ官吏は、すこしでも仕事をすれば当然報酬があるものとおもっている。こ の呼吸をのみこんでいなければ、シナで外交のしごとをすることはできない」 り・」うしトう というものであり、ウィッテはそれをやろうとした。賄賂の相手は、李鴻章である。 すうき この清帝国の国政の枢機をにぎる権勢家については、ウィッテは以前、李鴻章がロシ たいかんしき アの戴冠式にきたとき、ペテルプルグで会って知っている。 「かれは私の見た偉人中の偉人である。かれはヨーロッパ風の学者ではなかったが、シ ナにおいては大学者であった。そのうえなお尊敬すべきことは、明敏な頭脳と常識の発 達していることである」 ウィッテは、そうほめている。ウィッテは露支条約を締結するためこの期間、李鴻章 と折衝を大いに深めたのだが、 李鴻章の政治哲学を知るうえで印象的なことばをいくっ かきくことができた。 戴冠式はモスクワでおこなわれた。その行事のひとっとしてモスクワ近郊の広場ハド ウインカで群衆の自由参加をたてまえとする園遊会が企画された。ここに新帝が親臨し
帝政ロシアの体質の一部が、たまたまこういうところにもあらわれている。外務大臣 ファー・イースト のしごとはおもにヨーロッパとの「交際」であり、大蔵大臣は極東を管掌する。極 東とは、中国、朝鮭、タイ、そして日本など。そこにおこる対外問題は大蔵大臣の所管 であるというのは、ロシアにとって極東とは、 「財産もしくは財産になりうる土地」 ということなのである。 もっとも、このころのロシアの各省は近代的な意味での組織とはい : 、こ、。 シベリア鉄道にしてもそうであった。交通大臣というものがいるのに、この鉄道の建 設と運営は、初期においては大蔵大臣ウィッテのしごとであった。先帝がウィッテの才 腕を見込み、そのようにせよ、と命じた。皇帝の命令は、あらゆる法律や法規に先行す る。このことについて、ウィッテがい , つ。 ・ロシアとウラジオストックをむすぶことは、先 「シベリア鉄道を建設してヨーロッパ 帝アレクサンドル三世がとくに私に委任された事業である」 ついでながら、いまの皇帝になってから、ウィッテはシベリア鉄道についての鉄道技 術的なしごとのほとんどを交通省にゆずった。交通大臣も、ウィッテが皇帝にすいせん した。かって鉄道局長をやっていたヒルコフという侯爵である。 この侯爵の略歴は、この当時のロシアの一面をうかがうことができる。かれはもとも 、つ ) 0
いまの状態、というのは「ねむれる状態」のままとどめておくということであり、シ ナにとってみればおそるべき発言である。 「停滞させるためには、いろいろの手段が必要だが、ひとつはシナの側に立ってその領 土と独立を保全してやらねばならない。その独立をおびやかすようなことはすこしでも してはならない」 ウィッテの考えは、シナを家畜にすることである。いまあせって肉にしてはならない。 ロシアだけができるならよいが、他国もそれをやる。自然わけ前の肉はすくなくなるし、 またそのことに反抗してシナ人の民衆がめざめてしてしまえばそれまでである。それよ りも懐柔してロシアにとってよき家畜にすることだ、という。ウィッテはロシア人では あったが、 まるで英国人のような感覚をもっていた。 日本が日清戦争で さらにウィッテは、日本を無用に刺戟することには反対だったが、 遼東半島を得たことについては他のロシア高官とおなじ立場をとった。つまり日本に遼 東を放棄させ、シナに返させよ、という意見である。それによってロシアはシナに恩を 売っておく。 強「もし日本が返還をしぶるなら、日本のある地点を砲撃するくらいのことは、やむをえ オし」 列と、閣議で主張した。 ウィッテの極東に対する政略は、右のようである。
いる」 カイゼルは安堵し、かさねて念を押し、 いかん 「もしも、である。ドイツが膠州湾を占領するようなことがあれば、貝国は如何」 「異存はない。むしろ歓迎する。いまロシアの対アジア政策をいたるところで妨害して いるのは英国である。これに迷惑している。ドイツが来てくれればむしろ、ロシアにと って有利かもしれない」 このあと、まるで白昼の押し込み強盗のようなドイツの膠州湾事件がおこった。占領 は、ロシア側を刺戟した。 ) の外務省に入ったとき、すぐさま御 その電報が首都ベテルプルグ ( レニングラード 前会議がひらかれた。メンバーは例の大蔵大臣ウィッテ、陸軍大臣ワンノフスキー、海 軍大臣トウイルトフ、それに外務大臣ムラヴィョフである。 「ロシアとしてはこのドイツの強奪事件を利用し、このさい遼東半島の旅順、大連を占 領すべきである」 と主張し、ウィッテをのそく他の大臣がことごとく賛成し、皇帝も賛成した。 強 ウィッテは大蔵大臣ではあったが、閣僚中の実力者として外交問題にもつよい発一言権 列をもっていた。 このウィッテの終始かわらなかった考え方は、極東においてはなるべく日本との衝突
皇帝は、裁可した。 「しかし、ウィッテはゆるすかど , つか」 と、皇帝は軍部大臣にいった。ウィッテは大蔵大臣であり、ロシアの金庫番である。 ウィッテがそれに否を発すれば問題がめんどうになるのである。しかしウィッテは、予 ねんしゆっ 算外の非常支出ながら、それを捻出した。総計九千万ループルという、気の遠くなる ほどの巨額である。 このロシアの関東州租借があった時期から、シナではいわゆる義和団が蜂起し、さわ ぎがまたたくまに北シナの天地をおおった。 「拳匪」 と一・もい , つ。 この時期、列強はあらそって中国に土地や利権ーーたとえば鉱山の開発権ーーを得、 鉄道を敷き、さらには大量の商品を流入させた。このことは中国のふるくからの経済社 会を大混乱におとし入れた。商品の流入は農民の副業をうばい、鉄道や河川の汽船便は 船頭や飛脚を失業させ、その他、はかりしれぬ破壊をもたらしたが、それによってあぶ 強れた農民が各地で暴動をおこし、それが次第に義和団運動に吸収されてゆくにつれて暴 動の範囲がひろくなった。義和団が攘夷団体であることは、 ふしん 列「扶清滅洋」 清をたすけ洋をほろばすというスローガンによってもわかるが、一面では宗教団体で ポグサー
「この当時のロシアの政治家の通弊として、極東についてなにも知らない。たとえばシ ナの国情とか、シナ、朝鮮および日本などの地理的情勢やらそれら諸国の相互関係など について、高官たちを見わたしたところ、いっこうに知っていそうにない」 と、ウィッテはい , つ。 外務大臣ですら、例外でない。 ほうてんきつりん 「もし前外相ロバノフ侯爵にむかって、満州とはどういうところか、奉天、吉林はどこ にあるかなどを質問したところで、かれは中学二年生程度の回答しかできないであろ そのくせ、ロシアの極東における出先機関は決して鈍重ではない。虎のような攻撃心 と機敏さをもっており、日清戦争が勃発したときも、ウラジオストックにいたロシア軍 団は、どういう目的か、にわかに戦闘態勢をととのえ、国境をこえて満州の吉林にまで 進出し、そこで進駐しつつ事態を観望した。この目的の真意は、なそである。 ともあれ、首都のペテル。フルグの高官たちはその程度の知識しか、極東についてはな 。ひとり、ウィッテのみがもっている。ウィッテが大蔵大臣の身で、皇帝の極東問題 しもん についての諮問にこたえつづけてきた理由のひとつは、そこにある。 ウィッテの極東感覚を知るうえで、かれが日清戦争直後に閣議でいったことは重要で ある。 「シナは、し 、まの状態にながく停滞させなければならない」
364 を避けるというところにあった。要するに日露戦争を回避するということであり、こう いう考え方は、この時期のロシアの大官においてはきわめてめずらしい むろん、ウィッテは平和主義者ではない。 修道院的な平和主義者が、この時代の本来血なまぐさい大国の大官がっとまるはすが よ、。 ただウィッテは、帝政ロシアの大臣のなかにあっては、めずらしく西欧プルジョワジ ーの考え方をもっていることはすでにのべた。簡単にいえばウィッテは銀行家の代表で あり、その立場からいえば、 「日本との戦争は、ロシアになんの利益ももたらさないばかりか、害のみである」 という考え方をとっている。 まず、財政家として戦費の浪費がおそろしい。ロシア財政は疲弊するであろう。それ に日本と戦って得るところのものは、日本列島ぐらいのものである。得たところで海を へだてて列島を支配するというのは困難で、それに列島には単一民族が人口多く居住し、 それを治めるのにおそらく手を焼く。さらには、日本には米以外の産物がなく、資源も こういう列島をとったところでひきあうものではない ( むろん、ロシアの他の大 官も、日本まで奪ろうとおもっている者は一人もいなかったが ) 。 さらにはウィッテは、戦争の副産物としての社会問題にするどい洞察眼をもっている。 すでにロシアにおける反帝政主義運動は、ロシア的矛盾のなかで癌のようにはびこって がん
いる。戦争はど人心を投機的にさせ、社会の既存秩序をゆさぶるものはないが、この時 期、ロシアがもし対日戦争をおこせば、帝政秩序はただではすむまい。もっとも、 「むしろ帝政にとって有利である」 という者が多い。大いなる外征軍をおこして連戦連勝すれば、人民の関心は一挙に戦 争のほうに集中し、人民の国家への随順心も大いに高まるであろう、というのがその論 者の論点だが、 ウィッテはそうはおもわない。ウィッテはすでにロシアの社会主義勢力 がどこまで来ているかを十分に察していた。もし兵士に厭戦気分がおこれば戦いに負け るばかりか、負ければ後方のロシア社会は変質する。あるいは帝政は倒れるかもしれな という危機感をもっている。 ウィッテは、およそ楽天家ではない。 「日本を刺戟してはいけよ、 と、ただ一人言いつづけてきた。 もっともかれは、ロシアの極東伸張政策そのものに異存があるわけではない。その世 襲的国策は、ロシア国の大臣としてむろん支持している。ただ日本を刺戟せずしてそれ 強をやる方法はある、という側であった。 かんしよう 列「この当時、日清戦争前後、極東に関する諸問題は、もつばら私の管掌に属していた」 と、大蔵大臣ウィッテはいう。帝政ロシアにおける大蔵大臣は、大きな権限をもって