, つ、こいている 日本という国は、そういう列強をモデルにして、この時点から二十数年前に国家とし て誕生した。 ヨーロッパの興隆というのは白人の人種的優越にあるというよりも、一ツ大陸によく 似た能力水準の民族がひしめき、それぞれ国家をつくり、相互に影響しあい、模倣しあ 、戦いあい、混血しあい、それらのひしめきの結果、地球上の他の域にすむ人種をつ いに力のうえで圧倒してしまったということであろう。 かっしゃ フランス人が滑車を考案すればスペイン人がすぐそれを模倣するし、スペイン人が風 浪につよい船体を発明すると、それがすぐフランス人の船台ででも作られ、イギリスで 発生した産業革命はやがてはヨーロッパの能動的な他の社会がそれをうけ入れてゆく。 技術だけでなく、学問や芸術、宗教もかわらない。宗教といえば、各国共通の組織であ でんば るカトリックが各国のそういう学芸や技術をたがいに伝播しあう役割をはたしてきた。 かん その間、日本は極東で孤立している。 ヨーロッヾ、、、 ノカ真に大きな力をもちはじめたのは十五世紀ごろからであり、日本にあっ 争 戦ては戦国時代に相当している。日本の戦国時代はこのせまい島国のなかでたがいに攻伐 日しあい、戦乱のたえまがなかったが、 ヨーロッパも同様であった。ただ国家単位にそれ 四がおこなわれたところに、規模のちがいがある。
十五世紀のヨーロッパ諸国はみすからの力を列強のあいだだけでためしあうというこ と以外に、そのはけぐちを、ヨーロッパ以外の非キリスト教世界にもとめるようになっ きまうまう あしかがよしま 日本人が応仁ノ乱をたたかい、また足利義政が銀閣寺をつくっている時期には喜望 が発見され、つづいてアメリカ大陸が発見された。織田信長が天下平定に活躍している ときには、英国の女王公認の海賊フランシス・ドレークは五隻の船で世界周航をこころ みた。 やがて日本が徳川家というただ一軒の家の権力を永久にまもるために対外関係をきり すて、鎖国をしたころ、ヨーロッパにあっては三十年戦争がつづいている。以後、日本 には奇蹟のような平和がつづいたが、しかしヨーロッパはそのまま戦争の歴史であり、 かん さらには国富の増大のための植民地獲得競争の歴史であった。この間、ヨーロッパでは あらゆる方面の「人智」がいよいよ発達した。たとえば国家が君主のもちものであると いう性格が変質し、君主権が後退し、国民の国家というものにかわってゆく。 とはいえあいかわらずの帝国主義はつづくが、そういう国家的利己主義も、国際法的 にも思想的にも多くの制約をうけるようになり、いわばおとなの利己心というところま で老熟した時期、「明治日本」がこのなかまに入ってくるのである。 「明治日本」というのは、考えてみれば漫画として理解したはうが早い。
232 これを真之流にいえば、性格として要点把握がすきであったためのものらしい 渡米にあたってかれ自身がえらんだ目標が戦略と戦術以外は考えないというのも、こ の人物の頭 ( あるいは性格 ) がそのようにできていたからであろう。 アメリカ海軍の現勢はその程度でしかなかったが、しかしヨーロッパ海軍にくらべて いくつかのはこるべきものがあると真之はおもった。 水兵の質はきわめて劣弱である。しかし将校の質はヨーロッパ海軍をしのいでいるの ではないかとさえおもえた。そのことは個々の将校に会ったり、アナポリスの海軍兵学 校やニューポートの海軍大学校を参観し、印象としてそう理解した。 次いでその特徴は、造艦についての能力である。技術力がすぐれているというわけで はなく、ヨーロッパのように伝統に束縛されるところがないため、発想が自由なことで あった。おもしろいとおもわれる着想はすぐとり入れるという精神がこの国にはあるら たとえば、軍艦の装甲板である。装甲は厚ければ厚いほど防御力を増すことはこども でもわかっているが、しかし厚ければ厚いほど反比例して艦の戦闘力や航続力が減って ゆくことはたれでもわかっており、これが常識であり、宿命であり、伝統的あきらめで あるとされていた。
海軍はまだすぐれている。陸軍にいたっては海外に派兵するような状態がほとんど想 定できぬなりたちの国であるため、常備軍はわずか二万七千人しかいない ( 海軍の存在 は、陸軍の存在理由にくらべればはるかに必要であるということは世論としても認められて いるために、拡張しにくいといっても、陸軍よりはましであった ) 。 軍人の社会的地位も、ヨーロッパの列強のそれにくらべれば、ずいぶん低い。たとえ ばヨーロッパでは軍人に中将や大将の位をふんだんにくれてやっていたが、アメリカは そ , つい , っことがなかった。 : ヘリーが日本にきたときは東洋艦隊の司令官という資格であったが、そ 古い話だが、。 れでも階級は大佐でしかない。 じっえきしゃ 大佐が、実役者の最高官といってもよかった。たまに代将にのばる者もあった。 八六二年 ( 文久二年 ) 、はじめて、 ) ア・アドミラル 「海軍少将」 という階級をつくった。真之が渡米したときも、米国海軍をにぎっている最高階級者 いかにも市民国家らしいよさが は少将たちであった。大将や中将をつくりたがらぬ点、 米あったといえるであろう。 右のようにアメリカ海軍が拡張期に入った十九世紀後半には、アメリカ国内の工業カ 渡の成長がそれにともなっている。工業生産力と技術能力が、遅ればせながらヨーロッパ の一流国のそれに追いっきはじめていた。その伸びる率からいえば、早晩追いこすこと コモドーア
334 民族だけにその行動範囲はきわめてひろく、紀元前から中国本土を侵しつづけ、そのカ はしばしば中国の帝国を衰亡させた。 それがロシア平原の征服者として、五世紀と十三世紀にかれらの国家をたてたことは すでにのべた。のちロシア人が民族的結集をして西洋史上でいう「ダタール ( モンゴル 人 ) のくびき」を断ち切って民族国家をつくるにいたったが、しかしその影響をまるで うけなかったということは、反ューラシア学派の学者といえども一一一一口えないであろう。 ロシア人は、ヨーロッパ人がもったような市民社会をついにもたなかったというのも、 ロシア以前の支配者であるモンゴル人の影響から説くほうがわかりやすい。さらには、 ューラシア学派のいうように、皇帝の専制主義ということも、アジアの遊牧民族から相 続したものであろう。皇帝の専制主義といえば、日露戦争当時のロシアですら驚嘆した くなるはどにそれであった。こういう、おなじ白人でありながらおよそヨーロッパ的で ないロシア的現実は、アジア人の支配をながくうけたという事実と濃厚な血脈関係があ る。 ともかく口シア人は「タタールのくびき」があったために、他のヨーロッパ人にくら べてすべての点で遅れてしまっていたことはたしかなことである。 さらに、ロシア人は、古いころ、商業民族ではなかった。古代にあっては商業民族は それ以外の民族にくらべてはるかに冒険的で行動力があるが、ロシア人はそうではない。 ロシア人を最初に征服したノルマン人は武装した隊商を組んではうばうを押しわたる機
引 6 と、真之はうなずいた。 真之はイギリスの各造船所で工事が進行しつつある軍艦をのこらず見学した。たとえ ば新式巡洋艦の出雲や磐手もみた。アメリカ海軍がもっているどの巡洋艦よりも優秀な 性能をもっていた。 ぎそう サザンプトンで艤装中の戦艦朝日にいたっては世界一の大戦艦であり、その姉妹艦三 笠もヴィッカース造船所でつくられつつある。 「これが、朝日の後甲板だ」 と、真之はポケットから一葉の写真をとりだして子規にみせた。 「朝日がポーツマスに回航されてきたときに撮った」 士官が二人ならんでいる。 「この横の人はたれかね」 「広瀬というのだが」 と、真之はいっこ。 海軍大尉広瀬武夫のことである。広瀬はロシア駐在武官をつとめていたが、このとき ゆるされてヨーロッパ視察旅行中であり、たまたまロンドンにたちより、イギリス駐在 の真之と落ちあい、ともにポーツマスに行って朝日を見学したのである。この撮影のあ と、ふたりは四十日にわたるヨーロッパ旅行を共にしている。 「いま各国に注文してつくられつつある各級軍艦はことごとく時代の先端の技術がとり
帝政ロシアの体質の一部が、たまたまこういうところにもあらわれている。外務大臣 ファー・イースト のしごとはおもにヨーロッパとの「交際」であり、大蔵大臣は極東を管掌する。極 東とは、中国、朝鮭、タイ、そして日本など。そこにおこる対外問題は大蔵大臣の所管 であるというのは、ロシアにとって極東とは、 「財産もしくは財産になりうる土地」 ということなのである。 もっとも、このころのロシアの各省は近代的な意味での組織とはい : 、こ、。 シベリア鉄道にしてもそうであった。交通大臣というものがいるのに、この鉄道の建 設と運営は、初期においては大蔵大臣ウィッテのしごとであった。先帝がウィッテの才 腕を見込み、そのようにせよ、と命じた。皇帝の命令は、あらゆる法律や法規に先行す る。このことについて、ウィッテがい , つ。 ・ロシアとウラジオストックをむすぶことは、先 「シベリア鉄道を建設してヨーロッパ 帝アレクサンドル三世がとくに私に委任された事業である」 ついでながら、いまの皇帝になってから、ウィッテはシベリア鉄道についての鉄道技 術的なしごとのほとんどを交通省にゆずった。交通大臣も、ウィッテが皇帝にすいせん した。かって鉄道局長をやっていたヒルコフという侯爵である。 この侯爵の略歴は、この当時のロシアの一面をうかがうことができる。かれはもとも 、つ ) 0
と、申し入れた。これによってノルマンの一氏族が北方から南下し、ロシア地帯を支 配し、最初の王であるリューリックがスラヴ人をおさめた。これがキエフ国家のはじめ とされている。もっとも現在のソ連ではこの伝説をみとめたがらない。 要するにスラヴ人は、歴史のながい期間にわたってノルマン人のように冒険心と運動 というのが、前述の、「スラヴ人は本来侵略的でない」 生に富んだ侵略はやっていない、 ということばの背景にある。 が、ピヨートル大帝のロシア近代化によってこの民族も、他のヨーロッパ諸民族から みれば遅い目覚めであったとはいえ、国家的膨脹をしようとする動きがめだってきた。 アジアに対する関、いは、シベリアの毛皮への魅力が中心になっていたということはさ ふとう - 一う きにのべたが、。 ノ大帝以後、それにくわえて不凍港を得たいという関心がしだ いにふくれはじめた。 その後、ヨーロッパでの他の国と紛争があればその期間だけ東へつ伸張活動は弱るか、 休止するが、西の問題が片づくとふたたび東へ活動するという、そういう活動のしかた が、この大帝国の生理的習慣のようになった。 強 ロシア帝国が極東侵略の野望を露骨にあらわしはじめたのは、わが国の年代からいえ 列ば、江戸中期から後期にかけてである。 その地名に、
226 のとき日本人はいわゆる黒船の威容をみて、列強の帝国主義のおそるべきことを敏感す ぎるはどの敏感さで感じ、幕末の騒乱はこのときからおこった。 が、そのころのアメリカ海軍は、世界の二流か、それ以下でしかない。 その後、ながく二流であった。その後南北戦争という内乱をへたが、このときですら 海軍力はさはど活躍しなかった。 さらにいえば、ヨーロッパふうの帝国主義はこの新国家の風土と適ってはいない。国 フロンティア 内に末開が多く、それをアメリカ化してゆくことで十分であり、外交的にも十九世紀 前半いつばいはヨーロッパに対し孤立主義をとっていた。こういう国情のもとでは、海 軍が大拡充されるという必然性がない。 が、十九世紀の国家というのは、その国家的生理として膨脹を欲する。アメリカ合衆 国といえども国家である以上、その生理的欲求は内在していた。 それがおもてにあらわれてくるきっかけをつくったのは、一八六七年 ( 慶応三年 ) ロ シアが、 アラスカを買わないか。 ともちかけてからである。かってロシアはその膨脹政策によってアラスカに侵入して それを領有したが、 その後経営にこまり、アメリカに交渉してきたのであった。アメリ 力は買った。わずか七二〇万ドルであった。 その後ラテン・アメリカに関心を示す一方太平洋に「落ちている」島々に目を向けは
結局はナショナリズムを誘発し、このため一民族が他の民族の領域にふみこんで成功 した例は、歴史のながい目でみればきわめてまれである。結局は、報復される。 ところが十九世紀末のヨーロッパ人は、 「中国人にはナショナリズムはない」 とみた。 そのために軽侮した。されるほうにとってはわりにあわないはなしだが、ナショナリ ズムのない民族ま、 。いかに文明の能力や経済の能力をもっていても他民族から軽侮され、 あほうあっかいにされる。十九世紀末、日清戦争ののち、ヨーロッパ人や日本人が、中 国人をにわかにばかにしはじめたのは、どうやらそういうことであるらしい。 この民族には、なにをしてもいいのではないか。 と、かれらは思いさだめたとき、あらそって中国から利権や土地をむしりとった。 が、その見定めは錯覚であった。 なるほど漢民族は、 しん 「清」 サポタージュ 強という異民族の帝国に対しては、たとえば日清戦争のときのように無自覚な怠業を してやぶれたが、明治三十年以後のロシア、ドイツ、英国などがやった土地の分捕りさ 列わぎに対しては、これはべつであった。農民自身が、外国人の敷く鉄道のために土地を とりあげられ、外国人の商工業進出によって手工業をうばわれ、じかに被害をうけた。