に日本の政治のくびを締めあげてしまうにいたろうとはおもわなかったであろう。 ただしこのばあいの伊藤と川上の会話は、それほど深刻ではない。月 ー上は維新創業の 元勲として伊藤を尊敬していたし、それに川上自身、昭和期の軍人のようにこの国の政 ろうだん を壟断してしまおうという野、いはまったくなかった。 「出兵するかどうかについては閣議がそれをきめますし、閣下ご自身それを裁断なさい ました。しかし出兵ときまったあとは参謀総長の責任であります。出兵の兵数は、われ われにおまかせください」 「憲法だな」 伊藤はにがい顔でいった。かれ自身がそれをつくった以上、なんともいえない。 すぐさま人事が決定された。 朝鮮に派遣される混成旅団の旅団長は、少将大島義昌ということになった。それを輔 佐する参謀は、中佐福島安正と少佐上原勇作のふたりである。 あのふたりはあぶない。 と、陸軍大臣大山巌はおもった。陸軍省を主管する陸軍大臣は内閣の一員であり、閣 議に制約されているが、参謀総長とその参謀本部は天皇に直属している。このため自由 な行動をとることを大山はおそれた。このため、この両人の東京出発にあたって大山は 厳重な訓示をおこなっている。訓示の要点は、 「アジアを西洋の侵略からまもっているものは日本と清国である。もしこの両国が戦う
も受けうる。それに鉄道は国民の便利のためにあるものであり、軍隊輸送を眼目におく などということはあるべきではない」 この議論には、大山、川上と同郷の黒田清隆が川上の反対側にまわり、コプシでテー 。フルを乱打し、 「川上君、陸軍だけがよければ、鉄道のために国家がほろびてもよいのか。君が男なら 庭へ出ろ。庭で真剣勝負しよう」 と怒号したため、川上も譲歩せざるをえなくなったが、要するに参謀本部は日本のな ぎぜん かのプロシャとして巍然として立とうとしていた。 ドイツは遅れて統一を遂げた。目下、ドイツ帝国の伸張期にあるが、そういうドイツ の現実を他の欧州人たちは、 「プロシャでは国家が軍隊をもっているのではなく、軍隊が国家をもっている」 と、冷笑した。 しし。かれはその思想であったた 川上操六は骨のすいからのプロシャ主義者といって、 め、参謀本部の活動はときに政治の埒外に出ることもありうると考えており、ありうる どころか、現実ではむしろつねにはみ出し、前へ前へと出て国家をひきずろうとしてい た。この明治二十年代の川上の考えかたは、その後太平洋戦争終了までの国家と陸軍参 謀本部の関係を性格づけてしまったといっていし
この帰国後、この薩摩出身の軍人の思想はプロシャそのものになったといっていいで あろう。 国家のすべての機能を国防の一点に集中するという思想である。 たとえば、鉄道である。鉄道は海岸をも通るが、川上はこれを不可とした。 「敵の艦砲射撃をうけるではないか。一朝有事のさい、軍隊輸送がそれによって大いし はばまれる。鉄道はよろしく山間部を走るべきである」 明治二十五年、かれは鉄道会議議長となってこれを主張した。この当時、東海道線は すでに開通してしたが、 、 ' 中央線、山陽線その他は敷設計画中であった。九月、鉄道の主 ていしん 管大臣である逓信大臣黒田清隆の官邸でその会議がひらかれ、逓信省側がその精細な実 測図と計画案を出したが、川 上はこれに異論をとなえ、「海岸暴露線はやめよ」とあく までも主張し、川上の意見をとおすとなれば山間にトンネルを無数にはらねばならず、 そのための経費がばう大になるという理由で、会議は大いに紛糾した。 川上の反対者は陸軍大臣大山巌であった。 「そういうばかなことをすべきでない」 と、大山はいう。大山は川上とおなじ薩摩出身の陸軍幹部ながら、その教養をフラン 争 戦スでうけたために発想の方法は多分にフランス的であった。 「なるほどわが国は将来、他国と戦いをするかもしれない。 しかし世界中を相手に戦い をするというようなことはありえず、つねに同盟国があるはずであり、その海軍の援助
ぎよふ ことになれば西洋の列強が漁夫の利を占め、ついには両国の大害になり、アジアの命脈 も回復しがたきにおち入る。されば絶対に戦争を誘発する行動はとるな」 ということであった。しかし参謀次長の川上操 , ハはこれとはまったくべつの内訓をか れらにあたえた。 首相の伊藤博文も陸軍大臣の大山巌もあれほどおそれ、その勃発をふせごうとしてき た日清戦争を、参謀本部の川上操六が火をつけ、しかも手ぎわよく勝ってしまったとこ ろに明治憲法のふしぎさがある。ちなみにこの憲法がつづいたかぎり日本はこれ以後も 右のようでありつづけた。とくに昭和期に入り、この参謀本部独走によって明治憲法国 家がほろんだことをおもえば、この憲法上の「統帥権」という毒物のおそるべき薬効と 毒性がわかるであろう。 とにかく参謀次長川上操六は、清国についてのあらゆる材料を検討した結果、 「短期決戦のかたちをとれば成算あり」 という結論をえた。 はたん 長期にながびけば、不利になる。第一に日本の財政が破綻し、さらには国際関係の占 争 戦でもロシアと英国が清国側につくにちがいなかった。そのことについては、上は外相 日一 陸奥宗光と内々で十分なうちあわせをとげていた。短期に大勝をおさめるしごとは川上 -0 が担当し、しおをみてさっさと講和へもってゆくしごとは陸奥が担当する。この戦争は、
川上がみるように、首相伊藤博文はこの日清間の出兵問題が戦争にまで飛躍すること をおそれつづけた。 六月二日の閣議がおわってから伊藤は川上をよんでこの点を問いただしている。 「どれだけの兵を韓国に派遣するつもりか」 と、伊藤。 「一個旅団です」 川上はさりげなく答えた。伊藤はその程度ですら不満であった。多すぎるな、といっ しいかね、もうすこし兵数をすくなくするのだ」 「閣下、おことばですが」 日上は、まゆをひそめた。 「それについてはうけあいかねます」 伊藤の命令にはしたがわぬという。 首相に対し、参謀次長が胸をはってこのようにいうについては法的根拠があった。伊 藤がつくった憲法はプロシャ憲法をまねしたものであり、それによれば天皇は陸海軍を 争 戦統率するという一項があり、いわゆる統帥権は首相に属していない。作戦は首相の権限 外なのである。このことはのちのちになると日本の国家運営の重大課題になってゆくの だが、そういう憲法をつくってしまった伊藤は、はるかな後年、軍部がこの条項をたて
って船の手配をしようとし、日本郵船所属の船舶のリストを点検した。当時、日本の汽 船の総保有数のうち、日本郵船が三分の一をもっていた。 川上は、副社長近藤廉平をよんだ。 大演習のため。 という名目で、リストのなかから十隻の汽船に赤点をつけ、「いそぎ借りあげたい。 これらを一週間以内に宇品にあつめてもらいたい」といった。 近藤は、阿波の人、大学南校、慶応義塾にまなび、のち岩崎弥太郎にみとめられた。 このとし、四十七歳である。 「承知しました」 と、 いったが、しかし会社には会社の規定がある、によって、この件、役員会の議に 付し、その決定をみたのち正式におひきうけすることになる、左様ご承知ありたい、 つけくわえた。 Ⅱ上は、難色を示した。そういう会議にかけられてしまえば機密の保持はもはや期し 。、たいであろう。当時、清国がス。ハイを東京や横浜に潜入させてしきりに日本の動静を うかがっていることをむろん川上は知っている。 争 戦「あんたの肚ひとつでやるわけには、かよ、か 日といった。近藤は、かぶりをふった。 リ上はにおわさざるをえなかった。大演習というのはじつは表むきだけのこと れんべい と
宇品から出港する前、山地師団長による軍装検査がおこなわれた。沢田は、この大き な緑馬に乗って風のなかで閲兵をうけた。 やがて山地が巡視してきてその前に立ち、おどろいたように随行の好古をふりかえっ 。好古はすかさず、 「閣下、この馬は元来妙な馬であります」 と大声でいうと、山地はただ一つの目をそびやかせ、鉄色の顔をわずかに崩した。ほ ば察したらしい 宇品を発ったのは、十月五日である。好古が属している第一師団は、三梯団にわかれ てそれぞれ上陸地にむかった。 「これが汽船か」 と、はじめて見て感心する兵も多かった。ただしかれらのころの輸送船は、千トン前 後の小船で、外洋に出るとわすかの波にもゆれた。はとんどの者が船よいをした。 ちなみに、当時の日本海運界には、汽船が四百十七隻、ぜんぶで十八万千八百十九ト ンしかなかった ( ほかに帆船が二百二十二隻、三万三千五百五十三トン ) 。 陸軍の参謀次長の川上操六は、開戦にあたってこのことがまず苦のたねであった。陸 兵を輸送できなければ戦おうにも戦えないであろう。 これについて、挿話がある。開戦前、川上は混成一旅団を朝鮮の仁川におくるにあた ていだん
カ均衡の外交思想は英国の伝統思想であり、日本はそれを英国からまなんだ。さらに閣 議はいう、「なるべく平和をやぶらずして国家の名誉を保全する」 「出兵」 というのは、むろん無法の出兵ではない。準拠すべき条約があった。明治十五年八月 さいもつば 十三日、韓国とのあいだにむすばれた済物浦条約がそれである。 「日本公使館は兵員若干をおき、護衛すること」 という条文があり、それによって出兵する。 が、川上操六はそういう意味での出兵には満足できなかった。かれと同思想をもつ者 は外務大臣陸奥宗光である。 陸奥も、多年、韓国において清国のために外交上の圧迫をうけつづけているというこ の現状を打破するには、砲弾による解決法のほかはないとしており、戦えば勝っという 自信もあった。それに日本政府は連年国会の内外において在野勢力の攻撃をうけ、いま や収拾のつかぬまでになっている。陸奥にすれば開戦によって在野勢力の視点をそとに 転ぜしめようともおもった。 この六月二日の閣議のあと、川上操六はひそかに陸奥をその官邸に訪問し、密談した。 争 戦ー上はいっこ。 日「自分が得ている情報から判断するに、清国はすでに韓国に五千の兵を駐在させてい る」
日清戦争はやむにやまれぬ防衛戦争ではなく、あきらかに侵略戦争であり、日本 においてはやくから準備されていた。 と後世いわれたが、この痛烈な後世の批評をときの首相である伊藤博文がきけば仰天 するであろう。伊藤にはそういう考え方はまったくなかった。 が、参謀次長川上操六にあっては、あきらかに後世の批判どおりであるといっていし そこがプロシャ主義なのである。 プロシャ主義にあっては、戦いは先制主義であり、はじめに敵の不意を衝く。 それ以外に勝利はありえないとする。そのためには「平和」なときからの敵の政治清 勢や社会情勢、それに軍事情勢を十分に知っておかねばならない。 ちょうはう そのために、諜報が必要であった。 日上は、諜報を重視した。 しかも諜報は諜報屋にまかせることをせずかれの配下である参謀将校のなかからもっ とも優秀な者をえらび、敵地に潜入させた。それらがいざ開戦のときには作戦を担当す るという点で、他の国とのやりかたがちがっていた。 ベトナム たとえば明治十七年、清国が安南の問題でフランスと戦うや、川上は、 争 戦「清国の軍隊の実情を調査せよ」 日と、おおくの参謀将校を現地に派遣した。大尉福島安正、同小島正保、中尉小沢徳平、 かつろう のぶずみ 同小沢豁郎であり、さらに少尉青木宣純に命じて南シナに三年間、潜伏させた。青木少
ところで日本は。 と、川上はいう。これに対しすくなくとも七、八千の兵は動員せねばならぬ。 いかん 「勝算は如何」 と、陸奥。 「たとえ漢城付近で衝突するも、撃破することは易々たるものである。むろん、清国は わが出兵をきいていそぎ増派するにちがいない。李鴻章はその直属軍四万のうち三万を 韓国に派遣するにちがいないが、そうなればわが軍もそれにつれて増派してゆく」 「要するに初動の兵数は七、八千だな」 「左様、最低の人数である」 「しかし、伊藤首相はゆるすま い。かれはあたまからの平和主義者である」 「そこを、ごまかすのだ」 と、月上操六は、つこ。 「首相に対しては一個旅団をうごかす、といっておく。一個旅団の兵数は二千である。 これならば首相もゆるす」 「それで ? 」 「二千は平時の兵数である。しかし旅団が戦時編制をすれば七、八千になる。首相はそ こまで気づかぬはすだ」