といった。このことを、虚子や碧梧桐などの弟子にいうだけでなく、先輩格の内藤鳴 雪翁にまでいった。 「子規の人間的特徴は執着のふかさである」 と、虚子は後年そのようにいっている。執着は自分のつくった句に対してだけでなく、 弟子そのものに対してもそうであった。人間に対する執着は、つまり愛である、と虚子 はこれについていう、「人の師となり親分となるうえにぜひ欠くことのできぬ一要素は 弟子なり子分なりに対する執着であることを考えずにはいられぬのである。たとえばそ れは母の子を愛するようなものである」 ほうとう どういう放蕩息子に対しても母親というのはそれをすてずに密着してゆく、と虚子は そういう例をあげている。 元来が弟子や子分というのは気ままで浮気であり、師匠や親分がおもっている半分ほ どもその師匠や親分を想ってはいない。それでもなお師匠や親分は執念ぶかく弟子や子 分のことをおもい、それを羽交いのなかであたため、逃げようとすれば追い、つかまえ てふたたびあたためる。 灯子規は、そうであった。 の「おまえをあとつぎにする」 須と子規はいったが、結局、虚子は学問をきらって逃げ、それをことわったかたちにな った。しかしそれでも子規はこりず、懸命に虚子に俳句について教えつづけた。
いとおもいつつ、 りん′ ) ぼたん 林檎食うて牡丹の前に死ん哉 などといった句をつくっていく。 ある日、虚子がきた。虚子がこの家をたずねるのは事務的には雑誌「ホトトギス」の 編集上の相談ごとであり、俳人としては子規の詩論の子規にとってもっとも話しやすい 、こま看病に きき手になることであり、ついで、病床をなぐさめるためであり、じっさしし。 まで手がおよぶことが多い。 しかし高浜虚子自身がいうように、 うっとう 「子規居士の家庭は淋しかった。病床に居士を見舞うた感じをいうと、暗く鬱陶しかっ というのが、まだ二十代の虚子にとってはいつわらぬ心境だったにちがいない。 庵玄関へあがると、妹のお律がいる。まず、虚子はお律にそっと病状をきく。 こだし、ここでは長ばなしをしていてはいけない。奥の子規が耳ざとくききつけて、 子「いま、たれが来ておいでるのそい」 と、病床から声をかけるからである。 かな
と、虚子はきいた。そのくだりについて虚子の「子規居士と余」の文章を借りると、 「このとき余の顔と居士の顔とは三尺ぐらいの距離しかなかったのであるが、さらに居 士は余を手招きした」 手招きといっても、掌をふってまねいたのではなく、掛けぶとんの上に置いている手 をほんのすこしあげ、わずかに指だけをうごかしたにすぎない。 耳を近づけよ。 ということであろう。虚子は察して耳を子規の唇に近づけた。すると子規はほとんど 聞きとれぬはどの小声で、 「血を喀くから物をいうてはならんのじゃ。うごいてもいかんのじゃ」 そのとき、五十年配の付添婦がコップをもって入ってきた。それを子規にわたすと、 子規は顔を横ざまに臥かせたまま血を喀いた。血はコップに半分ほどたまった。 喀血は日に数回あるらしい そのうえ、食事が摂れなかった。サジに一ばいの牛乳すらうけつけず、このままでは 死を待っしかなかった。 かんちょう 灯数日経ち、医師は栄養浣腸をもって体力を養わせる処置をした。最初のそれをやっ のたとき、子規は例によって指をうごかして虚子の顔をまねきよせ、 須「清さん、いまのはなんじゃな」 と、きいた。虚子が説明すると、子規はわすかに顔色をうごかした。驚いたのである。
174 子規が神戸で入院したころ、高浜虚子は京都にいた。仙台の二高はすでに退校してし まっている。文学をやるというだけで、日常なにをすることもないために京都の高等学 校にいる友人をたずね、その吉田神社の前の下宿にころがりこんで、本をよんだり、そ のあたりを歩きまわったりしている。 くがかつなん そこへ子規の発病をしらせる電報がきた。東京の陸羯南が発したもので、 「介抱にゆけ」 というものであった。虚子の、子規に対する献身的な看病はこのときからはじまる。 虚子は、、 しそぎ神一尸へ行った。 病院の受付で病室の番号をきき、二階へあがって病室のドアをひらくと、ひどくなま ぐさいにおいがした。最初なんのにおいかわからなかったが、 やがてそれが子規の喀い た血のにおいであることがわかった。それほど子規の喀血ははげしかった。 室内はしずかである。 子規は、こちらに背をむけて臥ている。 ( ねむっているのか ) と、虚子はおもい、足音を殺してちかづきやがて子規の顔をのそきこんだ。皮膚が透 けるように白くなっている。 まぶた 子規は、ねむっていなかった。瞼をあげ、虚子の顔を見たが、だまっている。 「升 ( 子規 ) さん、どうおした」 のばる
が。さらに子規はい , つ。 「なお、鵐外、露伴などに紹介せよとのことだが、自分は会ったことすらない。またた とえその門下生になったところでどのくらい得るところがあるか疑問である そういう子規の説諭などもあって、虚子は京都にできていた第三高等学校に入った。 碧梧桐は中学を一年休学したために翌年、虚子と同じ第三高等学校に入った。 二人そろったために、かれらの精神はふたたび文学にむかってはげしく傾斜した。 しようごいん 京都では、このふたりの第三高等学校の生徒ーー虚子と碧梧桐ーーは、聖護院に下宿 していた。ほかに五、六人の学生が同宿している。 が、この文学ずきのふたりは自分の下宿に、 「双松庵」 という名をひそかにつけている。むろん下宿のおばさんや同居人に対しても内緒であ った。文学熱もここまでくればもはや病いであろう。この病いは、かれらが自覚すると ころでは子規から感染したものであった。 岸学校がばかばかしくなってきた。虚子はついに在校一年で無届のまま京を去り、東京 に出て子規の家にころがりこんだ。 根子規はさすがに心配し、 とうおしるつもりぞな」
と、かるく頭をさげた。 虚子はそういう子規の顔をばんやりながめていた。子規はいった。 「しかしあと幾年生きられるか、自分でもわからない。ながくはあるまい。命は惜しく 。オしが、心残りはいまやりかけているし」とのことじゃ」 古俳句研究と、俳句に文芸のいのちを吹きこんでゆく俳論の確立ということである。 このしごとは子規が中途で死ねば、おそらく草がはえて空に帰してしまうであろう 8 「空に帰してしまえば、あしはなんのためにこの世に出てきたのか、意味がなくなって しまう。ぜひ後継者がほしい そこで。 と、子規はいった。 「おまえを後継者にしたい。おまえにとっては迷惑かもしれないが、しかしおまえより ほかに適当な者がない」 事実、虚子は迷惑げな顔をした。子規のいう仕事とは研究がおもで、虚子がやろうと しているのは実作であった。 灯「ところがど , つ、も」 の と、子規はいっこ。 磨 須「おまえの様子をみていると、学校は退学するし、その退学後のことでも、すこしも落 ちつきがない。さらによく見ていると、おまえひとりが居るぶんではそれほどでもない く、つ
「正岡の升さんについては清さんが、よくお知りじゃ」 と、たれかがした ( 清 ? ) 真之は、末座にいる丸顔の若者をみた。見覚えがあったから、杯を進呈しようとおも 、立ってゆくと、虚子はすわりなおした。 「高浜君、去年の一月に会うたな」 と、真之はいった。去年の一月というのは前記の久松伯爵凱旋祝賀宴のことである。 うたい あの席上、虚子はわずかな酒に酔い、この無ロな男がめずらしく声をあげて謡をうたっ た。真之も酔っていたから、虚子のそばにきて連吟したが、そのことを真之はさしてい る。ちなみに真之は幼少のころ、伯父から謡をならった。 「正岡の家を見舞わにやいけんと思いつつきようまでにしさにとりまぎれてしまった。 やはり痛むようか」 「痛んでいます。痛みはじめると、いきができなくなるはど苦しいらしいです」 この痛みは、松山をひきあげて上方見物中に出たのだが、その後ひどくなった。いま 米は肺病もさることながら、このほうの苦しみで寝たっきりになってしまっている。 はじめはリューマチだとおもっていたのだが、 去年の春、その方面の専門医にみても 渡らうと、これは結核性の脊髄炎であるということがわかり、それまで自分の不幸に堪え に堪えて「地が裂け、山がくだけてもこれ以上はおどろかぬ」といっていたかれも、こ
「あしは知的な面から文学に入ろうとする。これはよくないが、性分じやからしかたが とにかくかれは俳句というものを歴史的にしらべ と、子規は真之にもよくいったが、 ようとし、その驚嘆すべきエネルギーでそれをなしとげた。この当時、古い俳書や句集 の書物はめったに見つからなかったが、子規は古本屋をたんねんにあるいてそういうく す本のたぐいを買いあつめ、仲間にもあつめさせた。かれの「俳句分類」はこのような 努力からできあがった。 わか 「子規は俳句が判ってから師表になったのではなく、俳句の判らぬうちから師表となっ たのだ」 と、子規の後継者となった七つ年下の高浜虚子は書いている。初期のころ、子規は虚 子らの作品をなおしたり〇をつけたりしていたが、虚子が一家をなしてからそれをみる ほっく とひどく幼稚で、要するに初期の子規は「今考えてみるとそのころの子規は発句が判っ ていなかった」 ( 虚子 ) ということになる。子規の俳句や俳論が大きく成長したのは、 「日本」に入った時期からであろう。 真之が「吉野」の回航のために英国に派遣されているこのとし、子規は「日本」 , 「芭蕉雑談」を連載しはじめた。子規はまだ年若で、論旨に青くさい気おいこみがある にしても、これが、俳句復興の大きなたいまつになったことはたしかであろう。
176 自分の容態がもはやそこまですすんでいるのかとおもったのであろう。 その後、子規はっとめて口から栄養物をとるようにした。 このあたりが峠だったらしい かわひがしへきごどう 峠をすぎてから、母親のお八重が河東碧梧桐にともなわれてやってきた。看護人が ふえた。 子規のからだは、しんのたしかなところがあるらしい 神戸病院にはちょうど二カ月入院したが、喀血もおさまり、あとは須磨の保養院で転 地療養するようになった。 「卯の花の咲くころに入院したが、もう町をゆくひとが単を着ている」 と、病院の玄関を出た子規はいった。看病人はみな帰ってしまい、虚子ひとりが残っ ている。その虚子も、子規の須磨ゆきを見送ってこれで東京へ帰るつもりであった。 停車場へゆく途中で、子規は帽子をひとっ買った。暑気よけのヘルメットであった。 病気のやつれとひげとヘルメットという様子は、子規の風采を別人のように変えた。 虚子は保養院で数日とまった。いよいよあすは出発という前夜、子規は別れの宴のつ もりで、ふつうの夕食の献立のほかに一品か二品、。 へつな皿をあつらえた。 そういう膳にむかいながら、 「清さん、こんどの介抱の恩はながくわすれんぞな」 ひとえ
といういさましい短歌を詠んだ。 子規が新橋駅を発ったのは午後四時十分であった。高浜虚子も河東碧梧桐も、プラッ トホームまで出て見送った。かれらにとって子規はいわば師匠であったが、しかしどう にも双方に師弟らしいあらたまったところがすこしもなく、かれらは子規を、 「升さん」 と、幼名でよんでいたし、ことばもべつに敬語をつかっていない。 子規もかれらを弟子とはおもっていないようであった。たれよりも語るに足る年下の 友人というのが、子規からみたかれらの位置であった。出発にあたっては、子規は二人 「これはあとでお読み」 と、一通の封書をわたした。 ( 遺書かもしれない ) ひら と、ふたりはさすがに緊張し、本郷の虚子の下宿にもどってから二人で披いた。 しんがい せんしよう 岸「征清の事起りて、天下震駭し、旅順、威海衛の戦捷は神州をして世界の最強国たら しめたり」 根と、のつけから書かれている。 「世界の最強国」