と、ウィッテはいっこ。 ウィッテはその秘策をいう前に、君は極東へはどういう人たちをつれてゆくのか、と 反問した。クロ。ハトキンは、 「幕僚と副官、数人だが」 というと、ウィッテはさらに反問してそれらは信頼するに足るひとびとか、といっこ。 「もちろん」 と、クロバトキンは答えた。 「さればいうが、極東総督のアレクセーエフのことだ。かれは極東における軍事、内政、 外政の三権をにぎっている。君は野戦軍の司令官としてゆくのだが、アレクセーエフは れいかぐん 自分の権能のほうが上位であるのをいいことこ、ゝ し力ならず君の隷下軍に対し横から命令 を出してくる。ロシア軍はクロバトキンとアレクセーエフの二つの命令の板ばさみにな って大いに、冫乱し、ついには戦いを失敗させるもとになるであろう」 「そのおそれはある」 けねん クロ。ハトキンも懸念していたところなのである。 ほうてん 火「アレクセーエフは、、 しま奉天にいる。君はむろんかれに着任のあいさつをすべく奉天 へ直行するだろう。そこでもし僕が君の立場なら、部下の士官数人をアレクセーエフの 砲もとに派遣し、有無をいわせず逮捕する。その捕縛したアレクセーエフに厳重な監視を つけ、君が乗ってきた列車にはうりこみ、そのまま本国にかえしてしまうのだ。同時に
202 ウィッテはかぶりをふり、これをやる以外に戦いに負けぬ方法はないのだ、といった。 「まあ、そうだが」 クロバトキンは煮えきらぬ顔でうなずき、ウィッテのもとを辞した。 ウィッテの懸念は、やがてほんものになった。 クロバトキンは満州につくとアレクセーエフとは別の場所に本営をもち、できるだけ 身を離しておこうとしたが、アレクセーエフのほうからクロバトキンの考えを積極的に 拘束してきた。アレクセーエフの戦略は、積極主義であった。 「日本人は猿である」 そんなものは一撃し と、アレクセーエフは皇帝のロぐせどおりのことをつねにい、、 うるのだ、大事をとる必要がどこにあるか、と主張し、このため日露戦争前半のロシア とうすい 軍の統帥は分裂し、みだれた ( もっとも、のちアレクセーエフは本国へ召還され、そのあ とクロバトキン一人が総指揮権をにぎったが ) 。 海軍の戦略にふれておかねばならない。 おく 海軍の権兵衛は臆している。 ということを、若い景気のいい開戦論者たちはふたことめにはいったが、山本権兵衛 というこの慎重な計算能力と魔神のような創造力と独裁力をもった人物は、開戦するぎ りぎりまで慎重であった。
このよ , つに」 陛下に電報する。 陛下が私に命ぜられた重大任務を完全に遂行するために、私は当地に到着してた だちに総督を捕縛しました。なぜならばこの処置なくして戦勝はおもいもよらないから であります。陛下がもし私の専断を罰せられるならば、私を銃殺する命を下されよ。し からすんば、国家のためにしばらく私を許されんことを請う。 「そう電報をうつ」 と、ウィッテはいっこ。 極東における軍事と政治の大権をにぎっているアレクセーエフ極東総督こそロシアの がんであることは、ウィッテがもっともよく知っている。 ちょうしん かれは皇帝の寵臣で、極東における重大問題でも皇帝とじかで話し、外務大臣さえ その内容を知らないことがしばしばであった。さらにはアレクセーエフのもとに過激帝 ほんば 国主義者があつまっており、それらがアレクセーエフをして極東侵略の奔馬たらしめて 事態はアレクセーエフの思いどおりに戦争になってしまったが、そのかれが、極東に おける軍事上の最高権をもち、クロバトキンの上に立っことになるのである。 「あの男が数十万という ( のちには百万近くにまで増大した ) 大軍の総指揮をとるなど、 信じられない」
「旅順へ行きたい」 と言いだして、ロシア側をおどろかせた。冗談ではなかった。旅順といえば大要塞を 築城中で、極東におけるロシアの機密地帯のうち、もっとも重要な場所であった。 きゅうかつじよ 「旅順におられる貴国の極東総督のアレクセーエフ提督を訪ねて久闊を叙したいので といった。アレクセーエフは、極東における皇帝代理者である。かれが北京にきたと き、好古は会ったことがある。 「 : ・・ : 旅順は、どうも」 と、接待委員たちはあまりな申し出に、ロをつぐんで返答もしなかった。しかし好古 は相変らず強引で、 「ぜひ会いたいんじゃ」 しいよいよ相手をうろたえさせた。好古はさらに強引で、宴会のと と、日本語で一 = ロ、 きもリネウィッチと、グラスをあわせつつ、正面からその希望をのべ、ついに承知させ てしまった。 かれは結局、満州に入り、南下し、旅順へゆき、アレクセーエフを訪ね、さらに軍事 施設を見学した。開戦前に旅順の軍事施設を見た者は、間諜ですらひとりもおらず、好 古だけであった。 旅順から芝罘をへて東京に帰ったころは、すでに秋はたけようとしている。この旅行
238 に砲にとりつくと、暗い海面をめがけてやみくもに射ちはじめた。 戦艦ツェザレウィッチ、同レトウイザンのばあいも似たようなものであった。 ) う . ばう . 港ロのあらゆる艦から砲声があがり、二十数本の探照燈の光芒が、くるったように海 日本の駆逐艦たちはねずみのように走りすぎたあとだ 面をいそがしく掃きはじめたが、 つ ) 0 しかし日本のこの水雷攻撃部隊も、きわめて不手際だった。ぜんぶで十八本の魚雷を 射ちながら、戦艦二、巡洋艦一を大破させただけでおわった。大破三艦とも、二カ月の 修理で戦列に復帰できる程度の手傷であった。条件のよさからみれば、考えられぬほど に貧しい戦果しかあげられなかった。 このときのロシアの極東総督アレクセーエフは、旅順にやってきていた。かれは海軍 大将としての礼装をし、海軍会館の大広間で幕僚や文官をあつめて酒宴をひらいていた。 かれは港ロでの砲声がおこったあと、港口から報告がくるまであわてなかった。それ が日本の水雷攻撃部隊の奇襲であることがわかってからも、なお酒杯をはなさず、あわ てもしなかった。むしろ不審顔で、 「ほんとうに日本人がきたのかね」 と、報告者に念をおした。たしかに日本の駆逐艦でした、と報告者がおなじことばを くりかえさねばならなかった。アレクセーエフほどロシアの強大についての不動の確信
208 る。むろん、断交したあと、なにごとがおこっても両国のあいだに平時のルールによる 外交交渉というものはありえない。そのなにごとというなかには、むろん戦争状態をも 含みうるから、このローゼン公使の質問は愚問というべきであった。というより、ロー ゼンですら、日本から断交や戦争をしかけるはすがないとたかをくくっていた。 ト村は、学生に質問された法科大学の教授のような返答をした。 「断交は戦争ではない」 ローゼンの質問に対しては、そう答えるのがもっとも語意に忠実である。むろん小村 はそこに外交的駈けひきをふくめている。小村は断交後できるだけ早期に先制攻撃をし かけようとしている日本陸海軍の作戦計画を知りぬいていた。 この断交の報をうけたロシアの極東総督のアレクセーエフもまた「断交」の意味をあ まく解釈した。アレクセーエフは対日圧迫の急先鋒でありながら、口癖に「猿に戦争が できるか」といっており、このときも、 「断交といっても、戦争を意味しておらぬ。日本には開戦にいたらざる国力上の十分な 理由がある。予はそれを知っている」 と言い、本国にもそういう意見を具申しようとしていた。その時期、つまり四日夜、 山下源太郎は東海道線のくだり列車のなかにあった。 山下源太郎は、米沢のひとで上杉家の旧藩士出身である。旧藩校興譲館の後身である
「シベリア鉄道の輸送試験をする」 という名目で、かれのいう「試験期間」中に輸送された部隊だけで歩兵二個旅団に砲 兵二個大隊、騎兵若干にのばった。さらに旅順と浦塩の要塞工事は夜もサーチライトの あかりのもとにおこなわれているというし、また協商中の十月中旬には、野戦病院のセ ットを満載した十四輛の列車が、本国を出発するということもあった。 「日本に対する返事はできるだけ遅らせたほうがよい」 というのが、ロシア軍部の政府に対する要請であるようだった。 ロシア側は、極東における皇帝の代理者として旅順に極東総督をおいている。総督は アレクセーエフであった。アレクセーエフはロシアの廷臣のなかでも侵略の急先鋒のひ とりで、日本の妥協案を皇帝に送るときも、以下のような付帯意見をつけた。 「日本は小国である。兵も少なく、それに財政も貧困である。その小国が、ロシアのよ せんどう うな大国に対してつねに虚勢を張っているのは、英米、わけても英の煽動によるもので、 それだけが理由である。しかも当の英国が、万一開戦というばあいでも、日本に助勢し て立ちあがるというような決心はない。たとえ決心はあっても、極東で大口シア帝国と へ戦えるほどの実力はない。 こういう英国の事情は日本はよく知っている。だから日本は、 戦決して最後の手段 ( 開戦 ) に訴えるようなことはしない。であるからロシアはあくまで 開も強硬な態度をとりつづけるべきである。強硬に出れば、日本はかならずロシアの言う がままになるであろう」
格的要塞からみれば野戦築城式の仮設要塞であるにせよ、その堅固な堡塁と防衛陣地と それに優勢な火砲群は、ひと月ぐらいは日本軍をよせつけず、その貧弱な ( とおもって いた ) 攻撃にたえうるものとかれは信じきっていた。 「それほどのものじゃないよ、アナートリイ・ミ ハーイロウィッチ・ステッセル」 と、むしろステッセルの期待過剰の計算をわらったのは、海軍あがりの極東総督であ るアレクセーエフであった。 「保ってせいぜい半月ぐらいのものさ」 ロシア軍の最高指揮権はこの総督にある。この総督のもとにも参謀部があり、作戦を 練っている。その作戦計画によれば金州・南山要塞の役割は日本の奥軍に多大の損害を あたえたあと、半月ぐらいで予定のごとく陥落し、守備隊は堅固な旅順要塞にむかって しりぞく、というものであった。それでも「半月」である。半月ももちこたえれば、北 方から野戦軍であるリネウィッチ兵団がうしおのように日本軍におしよせてきて、これ を粉砕してしまう。そのアレクセーエフの予定が一日の総攻撃で陥落することによって くずれた。 車中将ステッセルにいたっては、金州・南山の不陥落論者である。 たとえば奥軍が上陸して金州・南山にむかいはじめたころ、大連の市民は動揺した。 陸「金州・南山がおちれば、大連市はもはや防衛力が皆無になる。市民 ( といってもロシ ア人だが ) を旅順にひきあげさせたほうがよいのではないでしようか」
232 軍規にはとんじゃくせず、 「参謀長、ちょっとごろ寝をしてきます」 と、自室にひっこみ、軍服のままべッドに横たわった。 島村はそれを黙認したが、 東郷はこういう真之のふるまいに対し、いつもにがい顔を した。島村は、 あれは天才ですから。 と、そこまで押しつけがましい言葉をつかわなかったが、東郷にも黙認してやってく れることをそれとなく表情で示した。東郷もまた、ことばに出してまでは、むろん叱言 をいったことはない。 旅順にいるロシア艦隊にとっての不幸は、日本の開戦に気づかず、ましてこの夜、駆 逐艦による奇襲部隊がちかづいていることを気づかなかったところにある。洋上をひろ しようかい く哨戒することもしていなかった。 そのくせ皇帝のもっとも重大な勅電が、アレクセーエフ極東総督あて、すでにとどい ていたのである。 「日本は開戦するかもしれない。 もし日本艦隊が韓国西岸にあらわれて北進するのをみ つければ、卿はかれらの発砲をまたず、かれらを攻撃せよ」 というものであった。
をもっている者はいなかった。かれは日本が開戦するかもしれぬということについての あらゆる情報をもっていたのに、旅順港ロの各艦に水雷防御網をはらせることすら、 おこた 怠った。その提案が海軍部から出たとき、かれは、 「まだはやいのではないか」 といったほどであった。 アレクセーエフは海軍大将としては有能の評判はまるでなかった人物だが、極東総督 という政治家としては大度量の男だったかもしれない。かれは日本軍の奇襲を知ってか らでも、夜会をつづけさせたのである。 たかが、日本人だ と、かれはあたまから見くびってしたが、 、 , それよりもこの場合のかれの配慮は、たか が日本軍の駆逐艦が港口にとびこんできたくらいで部下をさわがせては士気にかかわる とい , っことであったらしかった。 旅順における陸軍の最高官は、旅順要塞司令官の陸軍中将アナートリイ・ミハイロ ウィッチ・ステッセルである。 ロ かれは官邸にいた。 順港ロで突如おこった砲声におどろきはしたが、しかしそれが何であるかをしらべさせ 旅ることをしただけであった。 「海軍の演習です」