338 この状況は、マカロフに伝わった。マカロフはいまこそ局部決戦をやるべきときだと 判断した。 マカロフは、この場合、勇敢でありすぎたといえるかもしれない。 敵見ゅ、ときいてちょうど闇くもに馬にとびのって駈けだすように、かれの旗艦ベト ロバウロウスクは、港内をすべり出した。かれにつづく艦は、多くはない。すぐ出港し えたのは、例によってフォン・エッセン艦長のノーウィック ( 三等巡洋艦 ) である。っ づいて戦艦セヴァストーポリ、二等巡洋艦アスコリド、二等巡洋艦ディアーナ、戦艦ポ べーダという雑多の編成だった。このほかに九隻の駆逐艦をしたがえていた。 これを、日本の第三戦隊の出羽司令官は遠望し、 「あれはマカロフではないか」 と、幕僚をかえりみた。 マカロフであるかどうかは将旗が見えるほどの距離ではなかったから幕僚はなんとも 戦艦が三隻あらわれ出たことはたしかだった。それに駆逐艦群の 返事できなかったが、 しままでにない大き ほか、二等、三等巡洋艦も数隻まじっている。ロシア側としては、、 な兵力が洋上に出現した。 外洋に誘おう。 と、出羽はおもったが、誘うにはます敵の砲火をすすんで浴びねばならない。
ちょうだ かれは単縦陣という、いわば長蛇のえんえんたる縦隊をひきいて旅順口をかすめて通 過しつつ、西へゆく。 その敵前を通過しきると、各艦とも逐次回頭して南方に遠ざかるのだが、先頭の三笠 が敵の射程からのがれ出たころ、上村彦之丞のひきいる第二艦隊の第二戦隊 ( 巡洋艦編 成 ) がちょうど敵前にさしかかり、砲戦を開始していた。 ロシア側にも、勇敢な艦長がいる。 三等巡洋艦ノーウィック ( 三〇八〇トン ) のフォン・エッセンというドイツ系ロシア 人の若い中佐で、かれの勇猛さと操艦のうまさは、日露戦争を通じて敵味方の評判にな っこ 0 ェッセンの部下の水兵は、旅順艦隊のなかでも各艦がもてあました乱暴者があつまっ ており、エッセンはそれをよく統御し、かれの艦の士気はずばぬけて高かった。 そのエッセンのノーウィックが味方の群艦をはなれて日本の第二艦隊の列をめざして 突進してきたのには、日本側もおどろいた。三等巡洋艦といえば装甲もプリキのように 薄く、二等巡洋艦より木造部分が多く、一弾でもあたれば始末におえなくなる艦である。 かっちゅう ロエッセンはいわば、甲冑もつけすにふんどし一本で斬りこんできたようなかっこうだ 順った。 旅その射撃も正確で、日本側の第二戦隊にびしびしあたった。
「日本のような貧弱な国力をもつ国が、列強海軍に肩をならべるような艦隊をもっこと はとうていできないし、また日本はそのようなことをしないであろう」 そう観測した。 実際のところ日清戦争当時の日本海軍というのは、劣弱そのものであった。 一等戦艦というのは一応の基準として一万トン以上の艦をいう。それも日本はもって いないが、ロシアは十隻ももっている。二等戦艦は七千トン以上、日本はゼロ、ロシア 八隻。三等戦艦は七千トン末満、日本ゼロ、ロシア十隻。一等装甲巡洋艦は六千トン以 上、日本ゼロ、ロシア十隻。日本がもっていたのは、二等巡洋艦以下の艦種ばかりであ る。それが、十カ年で巨大海軍をつくろうという。 世界史のうえで、ときに民族というものが後世の想像を絶する奇蹟のようなものを演 ずることがあるが、日清戦争から日露戦争にかけての十年間の日本ほどの奇蹟を演じた 民族は、まず類がない。 日清戦争の段階での日本海軍は、海軍とは名のみの、ばろ汽船に大砲をつんだだけと いってもいいような軍艦が多く、むろん戦艦ももっていない。一等装甲巡洋艦もない。 和速力のはやい二等巡洋艦以下を持って艦隊と称しているだけであったが、戦後十年の日 権露戦争直前には巨大海軍ともいうべきものをつくりあげ、世界の五大海軍国の末端につ らなるようになった。
328 司令長官旗こそ、つねにもっともはげしい弾雨のなかにひるがえっているべきだ。 だき と、かれよ、つこ。、、 ししオカかれの着任までに旅順艦隊にみなぎっていた懦気をはらうには、 みすからの肉体をまっさきに敵にすすませていく以外に方法がなかった。この壮烈さが、 水兵たちの唄にある、 「マカロフじいさん」 になってあらわれてくるのである。 旅順港内の戦艦は、じつに不自由な存在であった。潮がひいているときは、港ロの水 道あたりで艦底が底について、うまく通過できないのである。そのうえ、日本の閉塞船 があちこちに沈んでいて、ときに港ロ通過に二時間もかかることがあった。 そこへゆくと、巡洋艦はい、。 とくにマカロフは巡洋艦のなかでも、ちつばけなノーウィック ( 三〇八〇トン ) を愛 した。その理由はノーウィックが快速であるうえに、その艦長フォン・エッセンという ドイツ系の中佐が、じつに勇敢で操艦もうまく、乗員がきびきびしていたからである。 三等巡洋艦ノーウィックのほかには、一等巡洋艦バヤーン ( 七七二六トン ) をも愛した。 この艦の艦長ウィーレン大佐の勇敢さも、マカロフは気に入っていた。 軍港というのは、陸のばあいの城郭であろう。その海上城郭である旅順の口外へ、東 郷の艦隊は定期便のようにしてやってくる。
やがて真之は、森山が戸口に立っているのに気づき、森山、と声をかけた。 「貴様のほうの戦隊は仁川へゆくことになった。浅間と水雷艇をつけてやる」 と言い、あとふたたび海図に目を伏せた。 海軍に課せられたこの緒戦での任務は、旅順艦隊を撃って制海権を確立することと、 朝鮮の仁川に陸軍部隊を揚陸することであった。 主力は旅順ロへゆく。 ちとせ この六日午前九時、連合艦隊主力は佐世保港から出撃した。まず千歳 ( 二等巡洋艦 ) たかさご一か」ぎ を旗艦とする第三戦隊が出港した。千歳、高砂、笠置、吉野の順で出てゆく。それを在 とうげんれいしき 泊艦が、登舷礼式、万歳の声で送った。ついで第一から第五までの駆逐隊、第九、第十 かみむらひこのじよう 四水雷艇隊が波を蹴ってこれにしたがい、さらに上村彦之丞中将のひきいる第二艦隊の いずも あづま ときわ いわて 第二戦隊が、旗艦出雲 ( 一等巡洋艦 ) を先頭に、吾妻、八雲、常磐、磐手とつづいて出 てゆく。最後にこれら「連合艦隊」の中核である第一戦隊が、三笠 ( 一等戦艦 ) を旗艦 やしましきしま とし、朝日、富士、八島、敷島、初瀬の順で出てゆき、それに水雷艇隊などがつづいた。 火これらを、東京の軍令部からきた大佐山下源太郎が、全海軍を代表して見送った。 昼ごろになると、きのうまで各種艦艇であれほど混雑していた港内が、ほとんどから 砲よっこ。 なにわ ただ数隻の中型艦がのこっている。二等巡洋艦の浪速に同高千穂それに三等巡洋艦の
ることであった。 たとえば、司令長官というものは旗艦を戦艦にするのが、世界の海軍の原則であった がかれにいわせれば、 「戦艦のように鈍重なものに乗っていて全軍の指揮がとれるか」 とい , つ。 「快速の巡洋艦こそ旗艦にふさわしい」 というのである。 これは、ある程度は暴論である。暴論であることはマカロフ自身がよく知っている。 戦艦は防御力の点で巡洋艦とはくらべものにならぬほどぶのあつい装甲によろわれてい る。よほどの破損をうけても沈む率は巡洋艦よりすくなく、司令長官戦死という危険度 もすくなくなるから、その死による指揮の混乱を避けることができる。それに指揮室が 大きく、指揮に必要なおおぜいの幕僚を収容することができる、という点で、旗艦はや はり戦艦がのぞましい 、旅順にあってはマカロフは巡洋艦をえらんだ。いや巡洋艦というより、快速軍艦 フならそのへんのもの何にでも飛びうつって出撃してゆくというかっこうだった。 ロ この巡洋艦旗艦説は、かれの旅順における条件のなかでの特殊な説だったのだろう。 カ マ かれは、かれ自身が出撃したがった。全艦隊を港内におきつばなしにして、かれだけ がとびだしてゆくことも多かった。
「貴方もご存じのとおり、すでに日露両国は交戦状態にある。ゆえに、予は貴官に対し、 麾下の兵力をひきいて九日正午までに仁川港外に退去されんことを要請する。もしこれ に応ぜられぬばあいは、港内において貴国の軍艦に対し戦闘行為をとるの余儀なきにい たるであろう」 軍使にこれをもたせて送る一方、各国軍艦に対しても、損害のおよばぬ碇泊場に移動 されることをのそむ、と申し伝えさせた。これが、九日午前七時である。 午前十一時五十五分、ワリャーグとコレーツはイカリをあげ、移動しはじめ、やがて 蒸気をいつばいにあげて全速力をもって港外をめざしはじめた。 日本側はこのことあるを期して、浅間を港外に待ち伏せさせていた。 二等巡洋艦ワリャーグ ( 六五〇〇トン ) は四本煙突の快速艦だが、ひきいている砲艦 コレーツ ( 一二 一三トン ) が足がおそいため、脱出ともなれば軽快さを欠くであろう。 日本の一等巡洋艦浅間 ( 九七五〇トン ) 以下が港外で待ちうけている。艦長は、勇猛で やしろ きこえた大佐八代六郎であった。 火「敵艦が出てきました」 と、マストの上から叫んだ信号兵の声とともに全艦戦闘配置についたのだが、そばに 砲 いた三等巡洋艦千代田などはイカリをあげるゆとりがなく、くさりを断ち切ってしまっ たほどに、ロシア艦の出現は不意であった。ときに正午前である。
360 駆逐隊・艇隊は略す 参謀などは一部略す 連合艦隊および第三艦隊編成表 ( 日露開戦時 ) ( 第三艦隊 ( 旗艦厳島 ) 連合艦隊司令長官東郷、平→八郎 ( 中将 ) 司令長官東郷平八郎 ( 中将 ) 司令長官上村彦之丞 ( 中将 ) 司令長官片岡七郎 ( 中将 ) 参謀長島村速雄 ( 大佐 ) 参謀長加藤友三郎 ( 大佐 ) 参謀長中村静嘉 ( 大佐 ) 参謀有馬良橘 ( 中佐 ) 参謀佐藤鉄太郎 ( 中佐 ) 参謀岩村団次郎 ( 中佐 ) 参謀秋山真之 ( 少佐 ) 参謀下村延太郎 ( 少佐 ) 参謀松本直吉 ( 少佐 ) 笠参謀松村勇 ( 大尉 ) 雲参謀山本英輔 ( 大尉 ) 隊巡洋艦厳島 ( 旗艦 ) 戦装甲海防艦鎮遠 艦副官永田泰次郎 ( 少佐 ) 艦副官舟越楫四郎 ( 少佐 ) 五巡洋艦橋立・松島 旗 司令官梨羽時起 ( 少将 ) 司令官三須宗太郎 ( 少将 ) 第通報艦宮古 隊隊参謀塚本善五郎 ( 少佐 ) 隊隊参謀松井健吉 ( 少佐 ) 隊司令官東郷正路 ( 少将 ) 戦参謀吉田清風 ( 少佐 ) 艦戦参謀飯田久恒 ( 大尉 ) 艦、一戦艦三笠・朝日・富士 六巡洋艦和泉 ( 旗艦 ) ・須磨 一一一装甲巡洋艦出雲・吾妻・浅間第 一第八島・敷島・初瀬 ( 旗艦 ) 秋津洲・千代田 通報艦竜田 八雲・常碆・碆手 ( 旗艦 ) 第 第 司令官細谷資氏 ( 少将 ) 通報艦千早 司令官出羽重遠 ( 少将 ) 隊参謀西禎蔵 ( 少佐 ) 参謀山路一善 ( 少佐 ) 司令官瓜生外吉 ( 少将 ) 戦装甲海防艦扶桑 ( 旗艦 ) 一 = 参謀竹内重利 ( 大尉 ) 戦参謀森山慶三郎 ( 少佐 ) 七砲艦平遠・海防艦海門 第砲艦磐城・鳥海・愛宕 第巡洋艦千歳 ( 旗艦 ) ・高砂 四巡洋艦浪速 ( 旗艦 ) ・明石 海防艦済遠 笠置・吉野 高千穂・新高 砲艦筑紫・摩耶・宇治 平壤 鎮浦
246 大きな体の島村が、感心したように声をあげたのは、一種の人徳だったかもしれない。 このため、幕僚の気分が、やわらいだ。 ロシア側ののんきさは、前夜に日本の水雷奇襲でやられたときの姿のまま港口にかた ざしよう まっていたことであった。大破三艦が座礁したままであるのは仕方がないとして、他の 諸艦もたいてい錨をおろしている。戦艦が七隻、巡洋艦が七隻、その他駆逐艦、砲艦が 雑然として一団をなしている。 東郷は、それを双眼鏡でとらえつづけていたが、やがて敵との距離が八千五百メート ルになったとき、針路を転じた。東より西にむかい、敵の正面を通過するかたちをとっ 。挑発のためであった。 敵は、やっと狼狽した。あわてて錨をあげる艦もあれば、黒煙を吐いて右転しようと する艦、左転して港内へのがれようとする艦など、まるで無統制であった。 これについて、ロシア側のプープノフ大佐は手記をのこしている。 これよりすこし前、日本の偵察部隊である四隻の巡洋艦が港ロの様子をさぐりにきた とき、ロシア側の三等巡洋艦ポャーリン ( 三〇二〇トン ) が突出してそれを追ったりひ っこんだりしたさわぎがあったのだが、 プープノフ大佐の手記によると、 「このときロシア側は、かんじんの司令長官が艦隊にはいなかった」 という。司令長官スタルク中将は旗艦に座乗していたのだが、このさわぎの最中に極 東総督アレクセーエフによばれるという奇妙な事態になった。
千代田の悲痛さは、オトリになったことであった。日露断交のしらせはむろん千代田 にも打電されているが、しかしそれを戦略上ことさらに仁川にとどめておいたのは、開 戦による連合艦隊の秘密行動をロシアおよび他国に知られたくないからであった。 当然、港内で日露間の最初の海戦がおこなわれるであろう。 漢城における仁川港の役割は、東京における横浜港に相当するであろう。横浜港が幕 府の開港までは一漁村にすぎなかったように、仁川港も、明治十六年の開港までは済物 浦という漁村にすぎなかった。また日本における最初の鉄道が東京・横浜間に敷かれた ように、朝鮮のばあいも明治三十三年に開通した漢城・仁川間の鉄道が最初であった。 港は干満の差がはげしいということのほかは、規模は雄大で、多数の船を収容するこ とができる。 この時期も、多数いた。 軍艦だけでも英国軍艦タルポット、イタリア軍艦エルバ、フランス軍艦パスカル、な どがそれそれイカリをおろしている。 火それにロシアの二等巡洋艦ワリャーグ ( 六五〇〇トン ) に砲艦コレーツ ( 一二一三ト ン ) がいた 砲日本は、三等巡洋艦千代田が、これらのなかにまじって孤艦でいる。 「千代田ほど苦しい目に遭った軍艦はない」 き ) いもっ