千代田の悲痛さは、オトリになったことであった。日露断交のしらせはむろん千代田 にも打電されているが、しかしそれを戦略上ことさらに仁川にとどめておいたのは、開 戦による連合艦隊の秘密行動をロシアおよび他国に知られたくないからであった。 当然、港内で日露間の最初の海戦がおこなわれるであろう。 漢城における仁川港の役割は、東京における横浜港に相当するであろう。横浜港が幕 府の開港までは一漁村にすぎなかったように、仁川港も、明治十六年の開港までは済物 浦という漁村にすぎなかった。また日本における最初の鉄道が東京・横浜間に敷かれた ように、朝鮮のばあいも明治三十三年に開通した漢城・仁川間の鉄道が最初であった。 港は干満の差がはげしいということのほかは、規模は雄大で、多数の船を収容するこ とができる。 この時期も、多数いた。 軍艦だけでも英国軍艦タルポット、イタリア軍艦エルバ、フランス軍艦パスカル、な どがそれそれイカリをおろしている。 火それにロシアの二等巡洋艦ワリャーグ ( 六五〇〇トン ) に砲艦コレーツ ( 一二一三ト ン ) がいた 砲日本は、三等巡洋艦千代田が、これらのなかにまじって孤艦でいる。 「千代田ほど苦しい目に遭った軍艦はない」 き ) いもっ
村上はこれは開戦だと察したが、さいわいワリャーグはまだ事態を知っていない様子だ この夜十一時、千代田はついに脱出を決心し、ひそかに低速で港口にむかいはじめた が、途中、港ロの狭いところで千代田を監視していたワリャーグの艦首が眼前にせまり、 このままでは接触するほかなさそうな状況になったとき、そばの英国軍艦が身をさけて くれたためやっと道がひらき、港外に出た。 仁川港外に脱出した千代田は、味方の艦影をもとめつつ南下していると、やがて夜が あけ、さらに南下するうち、八日午前八時三十分、水平線上におびただしい煙を見、ち かづくと瓜生戦隊であった。 艦長村上格一はすぐ汽艇で旗艦浪速へゆき、瓜生司令官に会った。 瓜生がもっともききたかったのは、 「まさか、ワリャーグとコレーツは仁川港外へ去っていまいな ? 」 ということであった。この二艦を旅順へ逃げさせることは敵の旅順艦隊の増強になっ 火てしまう。ぜひ撃ちとってしまいたいが、しかし仁川港は中立国の港であり、列強の軍 艦も多く碇泊し、港内で戦闘をまじえることはできない。国際問題をひきおこすおそれ 砲のある行動については神経質なほどの大本営は、 「仁川港内にあっては、ロシア艦から火ぶたを切るならともかく、こちらから仕かけて
にいたか 明石、新高さらにただ一隻だけ大きいのが、一等巡洋艦の浅間 ( 九七五〇トン ) である。 これらを瓜生戦隊と総称されており、陸兵を護衛して仁川に上陸させるべき役目をにな っていた。 午後二時、瓜生戦隊は出港した。そのときはすでに二千二百人の陸軍の上陸部隊 ( 小 倉、福岡、大村からあつめた四個大隊 ) が、三隻の輸送船に収容されて艦隊とおなじ方向 をはしっていた。 「いつのまに陸軍があらわれたか」 と、水兵たちはおどろいた。この瓜生戦隊の森山慶三郎参謀は、 「この三隻は佐世保の外港のどこかの入江にかくれていたらしく、参謀である私ですら 命令をうけとるまで、その存在を知らなかった。陸海の連絡のよさはじつにみごとだっ と、っている。 すべての艦隊が攻撃目標にむかってうごいたが、日本海軍のなかでただ一隻だけ悲痛 な運命におかれている軍艦があった。 三等巡洋艦千代田 ( 二四五〇トン ) である。 この千代田のみはこういうむれのなかにおらす、この時期、外国にいた。 。仁川とは漢城 ( のちの京城、現ソウル ) の外港であり、各国の 朝鮮の仁川港にしオ 艦船が多数碇泊しており、むろんロシアの軍艦も二隻いる。
270 幾条もの探照燈が天津丸をとらえつづけ、そのいけにえに対して、あらゆる砲台から 砲弾がおくられた。 天津丸の船上は砲弾のはじける音や、命中弾の爆発で地獄のようになった。さらに探 そうだいん 照燈が操舵員の目をくらませ、どこへ船をやってよいかわからない。 このため港口に達することができず、それよりはるか手前の老鉄山の下の岩礁へ船首 をのりあげてしまい、擱座した。有馬としてはやむをえない。無意味ではあったが、こ こで船を爆破することにした。 そこへ後続の閉塞船がやってくる。 「右へ、右へ」 おもかじ と、有馬は船上から後続船によびかけた。広瀬の報国丸は面舵をとり、つづく仁川丸 も面舵をとった。 要塞砲はうなり、この報国、仁川の両船に砲弾を集中した。広瀬の報国丸が、唯一の 成功例として港ロの燈台下まですすみ、そこで擱座した。しかしとても塞ぐにいたらな 広瀬につづいていた仁川丸は、右へまわりすぎ、しばらく方向をうしなった。やがて 港ロよりやや離れたところで自沈した。 これらにつづいていた武陽丸は、大尉正木義太が指揮をしている。弾雨のなかをあえ ぎつつすすんでいたが、眼前に船を見た。擱座していた。先頭船の天津丸であった。 ふき )
222 はならぬ」 と、瓜生に電報を打ってその行動を真重にするように命じている。 ともかく戦隊は仁川に急行することになった。千代田が先頭になった。 仁川港内の各国軍艦は、昨夜こっそり脱けて行った千代田が、こんどは日本艦隊の先 頭をきってもどってきたことにおどろいた。 瓜生戦隊は、港内にイカリをおろしたが、二隻のロシア軍艦もいる。敵味方が入りま じって、いっ港内戦がはじまるかもしれず、列国軍艦もこの危険をだまって見すごすわ けにゆかず、この八日夜九時、英国艦長が高千穂へやってきて、 「この港は中立国の港である以上、外国軍艦に危害をおよばすような砲撃その他の行動 をとってもらってはこまる」 - も、つ・め・ というと、艦長毛利一兵衛は、 「われわれは陸軍部隊を上陸させる命令だけをうけているが、戦争という命令はうけて と、答弁した。 夜がふけ、九日になった。陸軍部隊の揚陸作業は午前四時でおわるという見通しがっ いたとき、瓜生はみずから英文をもってロシア軍艦ワリャーグの艦長ルードネフ大佐に 対し挑戦状を書いた。 その挑戦状というのは、
220 と、この孤艦を救出にゆく瓜生戦隊の参謀森山慶三郎はあとあとまで同情している。 千代田は去年十二月から居留民保護のために仁川にきていた。 二隻の露艦も同様の任務で碇泊している。そのワリャーグは仁川にいる各国軍艦のう ち最大のもので、もし戦端をひらけば小艦の千代田などは瞬時に粉砕されてしまうであ ろう。 しかもわるいことに、千代田はワリャーグとはもっとも近い場所におり、またコレー ッとの関係位置も、あいだに他の艦船がいない。 千代田の艦長は大佐村上格一であった。村上は沈着な男で、全員に緊張を命じ、もし やむをえぬときにはワリャーグと刺しちがいで全員死ぬ覚悟をもたせた。夜になると、 ひそかに魚雷発射管の覆いをとってワリャーグにねらいをつけ、夜があけると覆いをか ぶせて知らぬ顔でいた。この様子をワリャーグのほうでも気づき、 「千代田はけしからぬ」 と、英国軍艦の艦長 ( 各国艦長のなかでの先任者 ) を通じて抗議を申し入れてきたり やがて断交決定前夜の三日、かんのいい村上艦長はひょっとすると非常事態の到来が ちかいかもしれぬとおもい、夜陰にまぎれてこっそり艦を移動し、英国軍艦のあたりま で行ってイカリをおろした。 ふざん 七日になった。釜山付近で日本艦隊がロシア汽船を一隻つかまえたという電報に接し、
やがて真之は、森山が戸口に立っているのに気づき、森山、と声をかけた。 「貴様のほうの戦隊は仁川へゆくことになった。浅間と水雷艇をつけてやる」 と言い、あとふたたび海図に目を伏せた。 海軍に課せられたこの緒戦での任務は、旅順艦隊を撃って制海権を確立することと、 朝鮮の仁川に陸軍部隊を揚陸することであった。 主力は旅順ロへゆく。 ちとせ この六日午前九時、連合艦隊主力は佐世保港から出撃した。まず千歳 ( 二等巡洋艦 ) たかさご一か」ぎ を旗艦とする第三戦隊が出港した。千歳、高砂、笠置、吉野の順で出てゆく。それを在 とうげんれいしき 泊艦が、登舷礼式、万歳の声で送った。ついで第一から第五までの駆逐隊、第九、第十 かみむらひこのじよう 四水雷艇隊が波を蹴ってこれにしたがい、さらに上村彦之丞中将のひきいる第二艦隊の いずも あづま ときわ いわて 第二戦隊が、旗艦出雲 ( 一等巡洋艦 ) を先頭に、吾妻、八雲、常磐、磐手とつづいて出 てゆく。最後にこれら「連合艦隊」の中核である第一戦隊が、三笠 ( 一等戦艦 ) を旗艦 やしましきしま とし、朝日、富士、八島、敷島、初瀬の順で出てゆき、それに水雷艇隊などがつづいた。 火これらを、東京の軍令部からきた大佐山下源太郎が、全海軍を代表して見送った。 昼ごろになると、きのうまで各種艦艇であれほど混雑していた港内が、ほとんどから 砲よっこ。 なにわ ただ数隻の中型艦がのこっている。二等巡洋艦の浪速に同高千穂それに三等巡洋艦の
228 仁川襲撃は、連合艦隊にとっては別働隊のしごとであったが、旅順を襲うことは、主 力のしごとであった。 浦塩がすでに結氷期にあるため、ロシアの極東艦隊十九万トンという大海上兵力はは とんどが旅順港に入っていた。 それを撃滅せねばならないのだが、敵艦隊が洋上に出てこないかぎり、要塞砲でまも られているこの港に日本艦隊はちかづくことができない。 そこで、水雷戦術が重視された。 「駆逐艦に水雷をだかせて飛びこませる」というのが、軍令部あたりで早くから予定さ っこ , っ れていた海軍戦術であった。しかし旅順の砲台の様子なり艦隊の様子なりが、い に日本側にわからない。 「とても旅順はそういうあまいものではない」 旅 ロ
かん この間、日本陸軍はうごいていない。 わずかに開戦とともに佐世保を出港した木越旅団が、連合艦隊の一部にまもられて朝 鮮の仁川に上陸し、漢城に進駐した。これは「韓国駐屯部隊」というべきもので、戦闘 用の兵力というよりも、外交用のものであった。外交の相手は、韓国である。 韓国政府は、満韓国境に駐在しているロシア軍の巨大な軍容をみてしまっており、ロ そで シアに対してできるだけの好意を示さねばならない。かといって日本を袖にすることも できず、このためこの戦争については、 軍「局外中立」 という態度を表明していた。ところが日本の戦略としてはこのばあい、ねじふせてで 陸も日韓同盟をむすんで対露戦を有利に展開しなければならず、このため兵力をもって韓 国政府をおさえつけようとし、開戦早々、海上の危険をおかして木越安綱少将を長とす 陸軍 きごし やすつな
が、ロシア海軍側からいわせると、この戦闘は艦隊の士気をいちじるしくおとろえさ せた。 かれはアレクセーエフ極東総督から、 「艦隊は要塞砲の射程以外には出てはならない」 という命令をうけている。このためあれだけの砲戦をかわしながら、兵員の実感とし ては日本軍にたたかれつばなしでおわったという感じがぬけきれなかった。日本艦隊が 艦尾をみせて去ろうとしているとき、ロシア軍はそれを追跡することができなかった。 これは戦闘員の心理のうえからみて大いに不利であったろう。 ロシア海軍史上の名将といわれているナヒーモフは、一八五三年、クリミア戦争のと き、黒海艦隊をひきいてトルコ艦隊と決戦し、これに勝った。のちかれは重傷を負って 死ぬが、かれののこしたことばに、 ひが 「敵に対してはみつけしだい、攻撃すべきである。この場合、彼我の兵力を考慮すべき でない」 ということがあるが、旅順におけるロシア海軍の首脳はこれをわすれ、艦隊保全主義 口を厳守するのあまり、軍艦の二隻や三隻がしずむことよりはるかに大きい損失である兵 そそう 順員の士気沮喪という重大な問題をわすれた。 旅東郷は、朝鮮の仁川港外を基地にした。 ここへ艦隊を入れた。