格的要塞からみれば野戦築城式の仮設要塞であるにせよ、その堅固な堡塁と防衛陣地と それに優勢な火砲群は、ひと月ぐらいは日本軍をよせつけず、その貧弱な ( とおもって いた ) 攻撃にたえうるものとかれは信じきっていた。 「それほどのものじゃないよ、アナートリイ・ミ ハーイロウィッチ・ステッセル」 と、むしろステッセルの期待過剰の計算をわらったのは、海軍あがりの極東総督であ るアレクセーエフであった。 「保ってせいぜい半月ぐらいのものさ」 ロシア軍の最高指揮権はこの総督にある。この総督のもとにも参謀部があり、作戦を 練っている。その作戦計画によれば金州・南山要塞の役割は日本の奥軍に多大の損害を あたえたあと、半月ぐらいで予定のごとく陥落し、守備隊は堅固な旅順要塞にむかって しりぞく、というものであった。それでも「半月」である。半月ももちこたえれば、北 方から野戦軍であるリネウィッチ兵団がうしおのように日本軍におしよせてきて、これ を粉砕してしまう。そのアレクセーエフの予定が一日の総攻撃で陥落することによって くずれた。 車中将ステッセルにいたっては、金州・南山の不陥落論者である。 たとえば奥軍が上陸して金州・南山にむかいはじめたころ、大連の市民は動揺した。 陸「金州・南山がおちれば、大連市はもはや防衛力が皆無になる。市民 ( といってもロシ ア人だが ) を旅順にひきあげさせたほうがよいのではないでしようか」
である。 「しかし金州・南山を占領されれば、この小さな半島は分断され、遼陽からの鉄道もぶ ちきられて、旅順要塞は孤立します」 と、コンドラチェンコは主張したが、ステッセルは経費の点を理由に保留した。 ところが、開戦になった。 日本海軍が旅順港口にやってきて、巨大な圧迫をくわえた。その砲火をみてステッセ ルはある種の実感をもった。もし万一旅順要塞がおちるようなことがあれば、逃げ道は 北方しかない。その北方の金州・南山を日本軍に扼されてしまえばどうにもならない。 要塞という環境内にいる者がえてしてもっ恐怖心理である。戦争にあっては、理性が戦 術をきめるよりも、多分に心理がそれを左右する。 かれはコンドラチェンコ少将をよび、 「君がいっていた金州・南山の件、あれをすぐやりたまえ」 と、ム叩じこ。 すでに開戦から十数日をへている。コンドラチェンコは旅順要塞の兵士からもっとも 軍大きな尊敬と信頼をうけていた軍人だが、勇敢なだけでなく、砲兵出身であっただけに 要塞作りが上手であった。 陸かれはすぐ計画し、設計図をつくり、二月二十一日から突貫工事を開始した。急場の ことであるため、大事な部分から作ってゆき、四月三日、ほば完全なかたちでこの付近
↓っト一う力い こえてこの小艦隊に砲弾を送りこみ、その一弾が砲艦鳥海 ( 六一三トン ) に命中し、艦 長以下多数が戦死したりした。 ひが ともかく、彼我の砲戦はこの朝十一時すぎまでがもっともはげしかった。その時刻に は敵の露天砲はことごとく沈黙した。露天砲というのはコンクリートの屋根をもって掩 蔽されていない砲台のことで、この弱さは意外なほどであった。 ついでながら、ロシア軍はのちの旅順要塞の攻防戦にこの南山での経験を生かした。 当時、旅順要塞にすら露天式の砲台があり、まえまえから、 これは掩蔽すべきではないか。 という意見があったのに対し、要塞司令部の保守意見がそれをはばんでいた。砲台に 掩蔽をつくりたがるというのは卑怯者の考えである、というのである。信じられないこ とだが、 中世の騎士道精神というものが、まだ多分にロシア軍のなかに生きていた。そ れが南山の戦訓に接して、いそぎ掩蔽づくりの工事にとりかかったのである。 南山の戦訓を生かさなかったのは、むしろのちに旅順攻略に専従した日本側の第三軍 ( 乃木軍 ) であったであろう。 軍いずれにせよ、正午ごろには敵の砲火はだいぶおとろえたが、しかし掩蔽砲台と無数 の機関銃陣地は生きている。それらが数百メートルに接近した日本兵を血なますにして 陸鉄条網の前に死骸の山をきすいた。 もはや、どうにもならない。
296 せっちゅうあん と言い、両者たがいにゆずらず、数日間基本作戦が決定しなかった。最後に折衷案 として、 「兵力を分割して黒木軍への手当をする一方、他をもって奥軍を阻止する」 ということになった。両者へ「弱小」な兵力をむけることになる。 要するに奥軍は、金州・大連の線を占領することによって、遼東半島という小指を分 断しようとしている。これによって小指のサキの旅順要塞は孤立する。孤立させておい て、奥軍は小指のツケ根にむかってすすみ、満州平野に入り、一方朝鮮の国境を突破し た黒木軍と落ちあい、ともに平野決戦にむかう。 「おそらく、そう出るだろう」 と気づいたのは、旅順要塞にいるステッセル麾下のコンドラチェンコ少将であった。 なんざん 「金州と南山付近をいそぎ要塞化しなければいけません」 と、要塞司令官のステッセルに献策したのは、開戦の二日前である。 金州・南山といえば旅順要塞の北方の外縁ではないか。そんな所を要塞化する必 要があるのか。 とステッセルはおもい、あまり乗り気ではなかった。この時代のロシアは高級軍人の 世界に官僚主義が頑固な根を張っており、ステッセルなどもつねに官僚的発想をした。 金州・南山は自分の守備範囲というよりも、多分に北方の野戦軍の配慮すべき地帯なの きか
アの歳入は二十億円であり、日本のそれはただの二億五千万円でしかない。ゆらい陸軍 というのは機械力を中心とした海軍とはちがい、その国の経済力や文明度などをふくめ た風土性を露骨にその体質にあらわしている。南山の戦いは貧乏で世界常識に欠けた国 の陸軍が、銃剣突撃の思想で攻めようとし、日本より十倍富強なロシアは、それを機械 力でふせごうとした関係において展開する。 もっとも、奥保鞏は、上陸後、偵察によってはじめて金州・南山要塞の容易ならなさ におどろき、大本営に、電報をうち、 「重砲を送れ」 と要請したが、大本営からおりかえし、 「その必要なし。即攻せよ」 と、命じてきた。必要があるもないも、大本営は予備の重砲などをもっていなかった。 奥軍 ( 第二軍 ) が展開をおわって本格的な攻撃を開始したのは、五月二十 , ハ日である。 ちょうかとん もっとも遅く戦場についた秋山好古とその騎兵旅団も、これより三日前に張家屯という 漁村に上陸している。が、騎兵にただちには重要な用事がない。 軍まず、砲兵のしごとであった。 この二十六日早朝は、濃霧である。霧がようやくうすれた五時三十分、奥軍の全砲兵 陸 が一つ意志 ( 内山少将 ) のもとに砲門をひらき、南山の敵塁にむかって砲弾を連続的に うちこんだ。彼我の砲声はいんいんとして遼東半島の天地にとどろき、もともと体質的
302 本軍の将校のほとんどが知らなかった。 秋山騎兵旅団がもっていた。好古は日清戦争のころから騎兵が火砲もしくは機関銃を じようしん もっことをしばしば上申していたが、それがようやくとりあげられ、この日露戦争勃 発直前にこの兵器が輸入された。さっそく騎兵第一旅団に機関砲隊が設けられた。騎兵 しし力しき ではこの機関銃を、繋駕式速射機関砲と名づけた。 日本陸軍は日露戦争を通じてロシア軍の機関銃になやまされ、このために死んだ者は 一万人をこえたかもしれなかった。それが国産化されて三八式機関銃として制式のもの になったのは、戦争がおわって二年後のことである。 ともあれ、金州・南山における日本軍の死傷ははなはだしい。乃木希典が金州城外を なまぐさ 通りすぎて、「十里風腥し新戦場」という詩をつくったのは、この攻略戦がおわったあ とであった。 この南山攻撃に、大いに偉効を発揮したのは、東郷艦隊が、艦艇の一部をさいて金州 ぎようかく 湾に侵入せしめ、艦砲に仰角をかけて敵の陸上陣地に砲弾をうちこんだことであった。 つくし 東郷は旧式砲艦の筑紫 ( 一三七二トン ) 以下砲艦と水雷艇をもって一支隊をつくり、 この任務にあてた。砲艦でなく、大艦をもってこれにあてればその威力ははるかに大き かったのだが、しかし艦隊主力は旅順口外の封鎖の手をぬくわけにゆかす、結局、小艦 艇をもってした。ロシア陸軍の砲兵は射撃がうまく、南山の砲塁から日本軍陣地をとび
とした。 偵察とは、軍に作戦上の判断材料をあたえるために、情勢を先取りしてゆくことであ る。それには、その早い脚を利用して敵中に入っては脱し、入っては脱しする曲芸のよ うなことをやってゆかねばならない。い。 わま戦場における曲芸師であった。 奥軍の主力が南山を攻めあぐんでいるとき、 「あしア、北へゆく」 と、軍司令部まで意思を表明した。奥軍主力は南山をおとしたあと、それより南方の 旅順はすてておき、北方の遼陽に予定している主決戦場をめざさねばならなかった。そ の北進にそなえて、秋山騎兵旅団はさきに北進の道をひらいておくのである。北進し、 敵情をさぐり、できればそれを破る作戦構想までそえて軍司令部に報告する。 とくりじ そこで、歩兵二個中隊を借り、得利寺付近の捜索をすることになった。 「秋山がああいってくれてたすかった」 欧州式でいえば騎兵旅団の機 というのは、のちに軍の幕僚たちがいったところだが、 能としてそれが当然な着想なのである。ちなみに日本陸軍の首脳は、この時代における 軍騎兵、のちの時代における捜索用戦車や飛行機といったふうな飛躍的機能をもっ要素を つねにつかいこなせないままに陸軍史を終幕させた。日本人の民族的な欠陥につながる 陸ものかもしれない。 好古とその騎兵旅団が北方の敵地へ出発したのは、五月三十日の朝である。
308 と、ステッセルにそれについての命令をもとめてきたのは、大連市長のワシーリイ・ ワシーリエウィッチ・サーハロフであった。この市長は市民代表というような市長でな 、軍政官のようなもので、大連の警務長官を兼ねている。 「その必要はない」 と、ステッセルはきつばり答えた。かれによれば、金州・南山は不落だったのである。 ところがこれが陥ちたばかりか、旅順へゆく鉄道の一部さえ日本軍に占領されたとい うことをステッセルは聞き、大連市長に対しすぐ撤退を命じた。が、そのときはすでに おそく大連に集積されていたおびただしい軍需物資をすてて逃げねばならなかった。 旅順への退却のとき、鉄道はほとんど役に立たなかったというのは、この方面の司令 官であるフォーク少将でさえ、南関嶺駅に駈けこんで、 すぐ自分と幕僚のために特別列車を仕立てよ。 と命じたところ、駅にたった一台のこっていた機関車すら敵味方の砲撃で役に立たな くなっていた。フォークは馬で逃げざるをえなかったという事実でもわかる。旅順への 街道は、敗走するロシア軍で混乱しきっていた。 金州・南山のロシア軍は、いかに奥軍の攻撃が苛烈であったにせよ、こうも簡単に退 もし攻防がもう一日長びいていればすでに弾薬っ 却すべきではなかったかもしれない。 き、死傷が全兵力の一割をうわまわっている奥軍としては、攻撃再開まであと何日を要 なんかんれい
引 2 五時間ばかり行軍して正午がすぎたころ、将校斥候がもどってきて、 でんかとん 「前方の曲家店のさらに北方の田家屯あたりに敵の騎兵百ほどがおり、こちらの北進を 知って徒歩戦を準備中である」 という報告をした。将校斥候が見たのは敵の百騎であっても、おそらくその背後に相 当大きな規模のロシア騎兵の集団がひかえているとみなければならない。 「これが、第一戦になるじやろ」 と、好古はとりあえずその百騎を撃退させるための部隊を出発させた。兵力は、騎兵 けいが 第十四連隊から一一個中隊を抜き、これに繋駕機関砲隊と支援歩兵をつけた。 ところで、ロシア側ではこれよりさき、南山の戦況を重視し、極東総督アレクセーエ フはクロバトキンを通じてシベリア第一軍団をうごかし、得利寺に大集結をとげさせつ つあった。それがいよいよ南山にむかってうごいた。その南下軍の先進部隊が、秋山旅 団が知った「敵百騎」であった。うかうかすれば、好古は敵のシベリア第一軍団そのも のをひきうけねばならないであろう。 秋山騎兵旅団が、孤軍北進を開始したことについては、搜索能力に富んだロシア軍は いちはやく知った。この報告は、後方にいる総司令官クロバトキンにまで達した。 かれは兵団長である男爵シタケリベルグ中将をよび、 「日本人の鼻柱をくだいてもらわねばならない」
304 この惨烈きわまりない状況をやぶった人物がいる。 第四師団の師団長中将小川又次であった。 、川又次は奥保鞏と同様もと小倉藩士で、明治五年に少尉になっているから、陸軍士 官学校開設以前の軍人である。さしたる教育機関をへていない点でも奥とかわらない。 という気が、奥保鞏の幕僚 ( 参謀 ) のあたまを支配しはじめたのは、この日、正午す ぎである。奥はその司令部のある中国民家に幕僚をあつめ、会議をひらいたのは、午後 一時である。 「残念だが、退却して攻撃の再興をはかるしかありません」 と、幕僚のほとんどがいった。 奥は、不満であった。かれにすれば日露戦争におけるこの最初の上陸戦闘にやぶれる ということは、たださえ薄弱な日本の国際信用をいよいよ薄くすることであり、さらに もっと重大な理由は、北方においてリネウィッチ兵団がこの金州・南山の戦場をすくう べくうごきはじめているという事実であった。リネウィッチ兵団が、ここに到着すれば、 かいめつ 第二軍はおそらく潰滅するにちがいない。 幸い、ただ一人、若い参謀が攻撃の続行を主張した。奥は、それを採用した。 攻撃を続けた。が、結局は累計二千人という一個連隊ぶんの死傷者を出しただけであ つつ 0