金子は、そのとおりです、というと、伊藤は椅子を寄せてきて、 「それならばいうが、こんどの戦いについては金の工面をする大蔵省だけでなく、戦争 をする陸軍も海軍も、日本が勝っという確実な見込みをなんらもってはいない」 と、伊藤の本領で、かくしだてのない正直なところをぶちまけた。 「わし自身、この決意に踏みきる前に、陸海軍の当局の者にきいてみたが、たれひとり 確信をもった者がいなかった」 が、かといって事態を捨てておけば、ロシアの侵略は満州・朝鮮どころかついに。 本にまでおよぶようになる。 「事ここにいたれば、国家の存亡を賭して戦うほか道はない。もはや成功・不成功を論 じているような余裕などはない」 日露協調論を押しすすめてきた伊藤がそれをいうのである。 カ / 、い , っ伊 ~ 滕・も」 と、伊藤はいった。 へ「もし、満州の野で日本陸軍が潰滅し、対馬海峡で日本海軍がことごとく沈められ、ロ 戦シア軍が海陸からこの国にせまったばあい、往年、長州の力士隊をひきいて幕府と戦っ 開たことをおもい、銃をとり兵卒になって山陰道から九州海岸でロシア上陸軍をふせぎ、 砲火のなかで死ぬつもりだ」
ほどの多岐にわたる活躍をした。 この旧幕臣渋沢に対して、児玉は十七歳のとき、長州支藩 ( 徳山藩 ) の藩士として官 軍の下級指揮官になり、戊辰戦争に参加し、奥州まで行き、徳川体制をつぶすことに功 があったというあたりが、この新興国家のおもしろさであろう。 この一時間の会談の結果は、児玉にとって不本意なものになった。渋沢が持説どおり の非戦論をいうのみで、物別れになった。 れんべい 、児玉はあきらめなかった。渋沢に次ぐ財界の実力者である近藤廉平にも会い、ぜ ひ満州・朝鮮に旅行して、ロシアがそこにどれほど大規模な軍事進出をしているかとい うことを実地に見てきてくれ、といっこ。 「見てから、財界のいまの方向がそのままでいいかどうか、もう一度検討してくれ」 としつこくたのんだ。 近藤廉平も「日本の財政でいくさを考えるなどは妄想にすぎない」という渋沢論の支 持者であったから、はじめは気乗り薄だったが、児玉のすすめが執拗だったので、腰を あげた。 へそれが十月に帰国したとき、近藤廉平の意見は一変してしまっていた。 戦 開満州朝旅行から帰った近藤廉平は、たれよりもまず渋沢栄一に会い での見聞を報告した。 つぶさに現地
284 この方面の騎兵のおろし元は、有名なミシチェンコ少将を長とする騎兵旅団である。 さすがに世界一といわれるロシア騎兵だけにその行動は機敏で、日本軍は鳥をながめて いるようでとらえることもできない。 もっともミシチェンコは、満州軍司令官であるクロバトキン大将から、 「冒険をするな。深入りを禁ず」 といましめられている。さらにミシチェンコにとって直属上官であるリネウィッチ中 将からはべつな拘束をうけ、ついでクロバトキンと命令権をあらそうかたちになってい る旅順駐在のアレクセーエフ総督からは、 「貴官は逃げることだけを知っている。なぜ日本騎兵に打撃をあたえようとせぬ」 という叱責がとどいたりして、いたずらにミシチェンコを混乱させた。結局、ミシチ エンコは日本軍の状況をきわめてすばやくきわめて正確に偵察したというだけの功をた てて鴨緑江の満州側へひきあげた。 すいこう この鴨緑江の満州側の沿岸のロシア軍陣地は、九連城の砲台を中心に左翼を遠く水口 ちん 鎮に張り、右翼を河口の安東県にまでおよばせており、黒木軍の渡河をふせごうとして いた。渡河をめぐって日露戦争における最初の決戦がありうるであろう。 鴨緑江には、橋がない。工兵隊をもって架橋しなければならなかった。明治十九年、 メッケル少佐が教えた鉄舟というものが、このときはじめて使用された。工兵第十二大 隊が担当したのは五百メートルの橋を敵前において夜間五時間でかけるしごとであった
176 人にもあった。 日本はロシアの強硬な回答に対し、折れざるをえなかった。 ト村外相は、ローゼン公使に対し、これ以上は譲ることができないという、ぎりぎり の譲歩案を出した。 要するに満州朝鮮交換案というか、ロシアは満州を自由にせよ、そのかわり朝鮮に対 というものであった。 してはいっさい手を出さない、 ロシアは後世の史家がどう弁解しようと、極東に対し、濃厚すぎるほどの侵略意図を もっていた。 この時期、日本政府が、懇願するような態度で持ちつづけようとしている対露協商に 対し、ロシアは最初こそはまじめに応対していたが、たびかさなるにつれ、返答をわざ と遅らせはじめた。 その間、すさまじい勢いで極東の軍事力を増大させた。欧露から軍艦をどんどん送り つけてくるだけでなく、駆逐艦のような小さい艦は、その組立材をシベリア鉄道とその 延長鉄道をもって旅順まで送りつけ、旅順で組み立てるという放れわざをやった。その しゅんこう ようにして旅順港内に竣工したものだけですでに七隻にのばっており、このまま交渉 がながびけば、その艦数はさらにふえるであろう。 またこの協商中、 ふね
ところが、その旅順艦隊は東郷によって実力封鎖されており、その気さえあれば港外 で決戦することもできるのに、旅順要塞の海上用の砲台にまもられつばなしになってい る。 ともかく口シアの満州軍としては、日本軍にらくらくと上陸させるというのは、当を 得ていない。 これについてクロ。ハトキンは、むろん考えていた。水際撃滅とまではゆかぬにせよ、 上陸地付近に大規模な野戦軍を進出させ、砲火をもって日本人に上陸を断念させようと ところが、日本の黒木軍が、朝鮮に上陸して鴨緑江を突破しようとしている。その時 期、極東総督のアレクセーエフは、 「鴨緑江戦が、日露戦争の陸上における第一戦になる。満州から大兵力を送ってこれを 撃滅しなければロシア帝国の名誉にかかわる」 と、主張した。 ところが、クロバトキンの主張はこれとまったくちがっていた。 軍「総督閣下は失礼ながら海軍のご出身であるから、陸軍の作戦はご専門でない。黒木軍 の正面に大兵力を送ろうにも道路がせまく、しかも悪路で、とてもその御計画は実行で 陸きない。それよりも全力をあげて、遼東半島に上陸してくる奥軍 ( 第二軍 ) を撃つべき である」
172 才能があったためにかえって便利使いされ、陸軍大臣以外の大臣もしばしばっとめさせ られるというはめになった。 その男が、はるか後輩の田村怡与造のあとを襲って参謀本部次長になり、作戦畑にも どった。 児玉の作戦家としての名はすでに各国武官のあいだにきこえていたから、この人事が 公表されたとき、 「日本は対露戦を決意した」 という情報が、駐日各国公使館から、それそれの本国へ打電されたほどであった。 日本政府がロシアに対して、開戦の肚を秘めつつ最後的交渉をはじめたのは、明治三 十六年の夏である。 ロシアに対する協商案を六月二十三日の御前会議できめ、八月十二日、ペテルプルグ にいる栗野公使の手をへてロシア政府に提出した。 協商案の主眼は、 「清韓両帝国の独立および領土保全を尊重すること」 「ロシアは韓国における日本の優勢なる利益を承認すること。そのかわり日本はロシア の満州における鉄道経営の特殊利益を承認すること」 といったもので、要するに日本は朝鮮に権益をもつ、ロシアは満州に権益をもて、而
なく、明治の日本人の共通性であり、昭和期の日本軍人が、敵国と自国の軍隊の力をは はかめ・ かる上で、秤にもかけられぬ忠誠心や精神力を、最初から日本が絶大であるとして大き な計算要素にしたということと、まるでちがっている。 演習は、おわった。 当然、好古はシベリアを離れるべきであったが、このさい、満州もふくめロシアの軍 事施設を、騎兵の用語でいう「威力偵察」してやろうとおもった。 おそらく、ロシア側の接待委員は難色を示すであろう。しかし好古は、かまわずに申 し出た。 満州とその境界のシベリアは、、 しま帝政ロシアにとって最大の機密地帯になっている。 さかんに駐屯兵力が増強されており、要所々々の要塞化もすすんでいる。 当然ながら日本の参謀本部はその実体を知りたがっているが、いかに間諜を入れても、 ロシア側の防諜が厳重で、どうも核心をついた諜報報告をもっていない。 この地を踏む前、好古は参謀本部で、 「わしや、それを見てくる」 と、事もなげにいって、参謀将校たちをおどろかせた。ある参謀などは、 「秋山閣下、いままでよほど有能な間諜でも第一級の報告はもたらしておらないのです。 むりをなさらぬようにねがいます」
294 ある。 「金州・大連付近を占領せよ」 というのが、第二軍にあたえられた使命であった。要するに小指のサキの旅順要塞は すてておいて、中ほどの大連湾付近を占領し、そこに前進のための大根拠地をつくりあ げ、補給上の揚陸基地を確保し、以後、満州本部の敵軍との決戦のために北上する、と いうのが作戦計画である。 上陸は、簡単におこなわれた。 これについて、つまり、 「日本軍は遼東半島に上陸するであろう」 ちゅうすう ということについては、ロシア軍の作戦中枢ははやくから察していた。 当然、ロシア軍としては日本軍の上陸を阻止するための海岸陣地をきずくべきであっ こ。水際で上陸軍の半分でも殺してしまうというのが、戦術上の常識である。が、この 当時、世界的に水際撃滅作戦という思想がなく、ロシア軍もそれを考えなかった。こと えて にロシア陸軍の得手は、要塞に拠っての防衛と、大平原における大規模な会戦にあった。 さらにロシアの満州軍がこれを考えなかった一つの理由は、そういうことは旅順艦隊 にまかせるべきだというところにあった。日本の連合艦隊と同等の兵力をもっ艦隊を旅 順港に据えておいたのは、いざ開戦のとき日本近海に出没し、日本の敵前上陸部隊の輸 送を不可能にするためのものであった。
174 その日本側の案をロシア側に渡した。 ところが、ロシア側は、 「この問題は本国政府においてとりあっかわない。極東の外交はすべて、旅順にいる極 東総督アレクセーエフに権限をあたえてある。であるから談判は、露都においておこな わず、東京においておこなうことにしたい といってきた。日本は承知をし、十月 , ハ日から小村外相と駐日ロシア公使ローゼンと のあいだで談判がおこなわれたが、ロシア側は日本の案を黙殺し、「朝の北緯三十九 度以北を中立地帯にしたい」と、出た。むろん中立地帯とは名ばかりで、要するに平 壌ー元山から以北をロシアの勢力下におくというものであり、露骨にいえば朝鮮の北半 分は欲しいというのである。 朝鮮の北半分ははしい。 というロシア側の要求は ( むろん中立地帯という名目になっているにせよ ) 、日本側を ふるえあがらせた。 ロシアはすでに満州を奪ってしまっており、その武力を背景にした開発企業は満州国 境から北朝鮮をおさえている。もしロシア側のいうように朝鮮半島を北と南の二つに分 その南下の欲望のつよさ 割してしまうとなれば、どうであろう。ロシアの武力は強、。 は、ヨーロッパにおける帝国主義の歴史はじまっていらいのものである。早晩、軍隊を
テープルの上で懇願してかれ自身の自制心によって抑制してもらうというのは、不可能 であった。 例の三国干渉のあと、干渉した当のロシアが満州をつかみとってしまったとき、小村 寿太郎は、外務省の山座政務局長に 「アイヌが熊をいけどりする方法を君は知っているか」 っ ? ) 0 と、 アイヌはます、海岸に数ノ子を大量に干しておく。熊がやってくる。 熊は際限もなしに数ノ子を食い、ついにはのどがかわいてたまらなくなり、波うちぎ わに首をつき出して海水をのむ。塩水のためいよいよのどがひりつき、いよいよ飲む。 そのうち胃の中の数ノ子がふくれてきて熊は身うごきがとれなくなり、そこへアイヌが 近づいて何なく手捕りにする、と小村がいった。 小村がいうこのたとえばなしの熊とは、ロシアのことである。アイヌは、日本である。 数ノ子は満州であり、朝鮮半島は塩水というわけであった。 熊が朝鮮という水をのみはじめたとき、列国はついにだまっていなくなる。小 村にす ればそのとき日本は列国のたすけをかりて熊退治をすればいいのだ、ということであり、 この予言は的中し、英国といういわば千両役者が出てきてくれた。 伊藤博文の日露コースの失敗は、 かならずしも無意味ではなかった。