「日本はいま国民的熱気のなかで海軍建設をやっているが、ロシアも海軍建設について は日本以上の勢いでやっているくせに、庶民はその事実すら知らないし、関心をもとう ともしない。国家というのは貴族の所有だから、海軍建設についても庶民からみればそ の貴族たちが勝手にやっていることだとおもっている。その無関心な庶民の階級から、 戦時にあっては下士官と水兵が提供される。かれらにどれほどの戦意が期待できるか、 疑問だ」 海軍建設のはなしになった。 この二十世紀初頭は、海軍に関するかぎり、ドイツとロシアの熱狂的な海軍建設では カイゼル じまったといっていい ) その先鞭は、ドイツの皇帝がつけた。かれはヨーロッパ政界に おいて大きな発一言権を得るには、イギリスに対抗しうるほどの海軍力をもっ必要がある と判断し、大海軍の建設にのりだした。ロシアはそれに刺戟され、ドイツをしのぐ 二十カ年継続というーーー大計画のもとに建設を開始した。日本の明治三十四年からであ り、広瀬は滞露中の最初のころにその進みぐあいを、現地においてみたのである。 日本は、すでにそれ以前からやっているが国力のちがいで、ロシアの大計画からみれ 雲ばくらべものにならない。 明治三十四年のロシアの大計画案の情報を日本海軍が手に入れたとき、すでに両者の 風計画の段階において日本の敗北は必至だとおもった。しかしすでに国力はどん底に近づ きつつあった。それでもなお、従来の計画に幾隻かの軍艦を加えねばならず、広瀬と真 せんべん
116 之とが語っているこの年の翌年、つまり明治三十六年、この案は第三期拡張計画として、 第十八回帝国議会に提出され、通過した。この計画では、一万五千トンの戦艦三隻、一 万トンの一等巡洋艦三隻、それに五千トンの二等巡洋艦二隻が加えられ、総経費一億千 五百万円、実施は明治三十六年以後同四十六年までの十一カ年間に、ということになっ こ。ただし、この計画による軍艦は、計画の進行途上におこった日露戦には、むろん参 加していない。 帰国後の広瀬武夫は、戦艦朝日の乗組になった。 朝日はその英国での建造中、真之も広瀬もそれを見学したのだが、広瀬は、このあと 実際に乗ってみていよいよその装備や性能に感心し、 「あの艦は世界一だろう」 と、真之に語った。 ならしの 明治三十六年の初夏には、秋山好古は、清国からかえって、千葉県習志野にある騎兵 第一旅団長に補されていた。 好古、四十五歳である。 少将といえば老人のにおいがするが、好古の体力は青年のころとすこしもかわりがな 、酒量も減らず、読書力はむしろふえた。読書のおもなものは、フランス語で書かれ た軍書のたぐいであり、とくに騎兵書と、ロシア関係のものを多く読んだ。
194 朝鮮沿岸において撃破されるようなことは信じられない」 要するに極東におけるロシア艦隊は不滅であり、日本陸軍は朝鮮にも満州にも上陸で きないか、 はなはだしく遅れる、というものであった。 陸軍部はこれによって陸上作戦の計画をたてた。計画の基礎からまちがっていた。 ロシア陸海軍の計画の粗雑さは、日本の軍事力の実勢を、数字だけで判断し、その能 力についてはなんの顧慮もはらわなかったところにあるらしい ロシアの将軍たちは最 初から日本の陸海軍を物の数にも入れす、自然、まじめにその実勢と実態をしらべよう とはしなかった。 たとえばロシア皇帝が日本に対し宣戦布告をした日、ロシア陸軍における二人の重要 な人物が、この戦争をどう指導するかについて会合した。前陸軍大臣であるワンノフス キーと、現陸軍大臣であるクロバトキンのふたりである。 結果からみれば、この会合の内容ほど愚劣なものはなかった。 両国の戦力の比をどうみるか。 というのが議題で、これについてクロバトキンは、 「日本兵一人半に対しロシア兵一人を配してゆけばよい」 というと、ワンノフスキーは、 「それは日本兵を過大に見すぎている。日本兵二人にロシア兵一人を配すれば十分であ
だから必ずしもロシアは計画を練る時間がすくなかったというわけではない。むしろ 計画以前の、満州における軍事力増強という実質面からいえば、ロシアはつねに先取り をしていた。 それにしてもその作戦計画の粗雑さはどうであろう。 ロシアの極東における政略・戦略の策源地は、旅順に新設された極東総督府である。 去年の十月、対日作戦案をたてるについてその陸軍部が、海軍部長に対し、重要な質 問を発した。 「われわれ ( 陸軍 ) としては、開戦後一カ月をへても日本陸軍はロシア艦隊にはばまれ えいこう て営ロ ( 遼東湾の港 ) に上陸できないものとみている。そのように考え、そのように安 、いしてよろしいか」 もう一問ある。北朝鮮の防衛である。 「日本陸軍は、朝鮮海岸に上陸してくるであろう。このときロシア艦隊はそれをはばむ べく行動し、日本艦隊と何度かの交戦をせざるをえない。ところでロシア艦隊としては、 日本陸軍の朝鮮上陸を、完封できぬまでもどの程度それを延ばさせることができるか」 火というものであった。 これに対し海軍部長の回答は明快であった。 砲「わがロシア艦隊が全滅せざるかぎり、日本陸軍は遼東湾営ロおよび北朝鮮沿岸に上陸 ′ : つかし することは不可能である。日露両国の艦隊を比較しても、わがロシア艦隊が黄海および
192 この当初、旅順要塞についてはただちにこれを攻撃するという計画は保留していたか ら、作戦はこの二本だてであった。 しよせん 「なにはともあれ、緒戦において勝って世界を驚倒させねば、外債募集がどうにもなら ぬ」 と児玉源太郎がたえずいっていたように、緒戦勝利というものに戦時経済の重大問題 までがかかっていた。 日本側の戦略が計算しぬかれているところからみれば、ロシア側の戦略はおおようで 不幸なほどに粗雑であった。 といって、ロシアの対日戦の作戦計画が日本よりも遅く出発したということはない。 まだ日露間が外交交渉中であった去る三十 , ハ年十月二十四日、極東における皇帝の代 行者アレクセーエフは対日作戦計画を本国に提出し、同月三十一日、皇帝の裁可をえて いたし、さらに翌十一月十八日にはその詳細案ができ、年を越えて一月一日、陸軍大臣 クロバトキンのもとでそれが成案になり、それを皇帝は裁可した。 ついでながらこのロシア陸軍の対日作戦案が裁可されたという情報はこの時期、英国 外務省がいちはやくつかんだ。すぐ日英同盟の義務によって日本政府にったえた。日本 もまた別途にこれをつかんでいたため、この情報は確実度の高いものになり、このこと が日本政府をして対露戦にふみきらせる契機の一つになった。
95 外交 事業を支持することが同時に宮廷に金銀が流入することになるというそういう仕組まで つくりあげていた。 皇帝は、べゾプラゾフの計画を許容したばかりか、この愛国者に対してもっとも熱烈 なファンになってしまっていた。 それが、ロシアのすすむべき方向になっている。 その方向に、軍部も従っていた。どの時代のどの国の軍人でもその単純な頭脳がひと たび侵略事業に熱中したとき、侵略以外の態度をとる国民や政治家を非愛国者のあっか いをする性向があり、この時期、比較的穏健な政治姿勢をもっ陸軍大臣クロバトキンで すら、その仲間であった。 当然、この計画の途上において日露戦争がおこることは、どのロシア軍人の目にもは つきりしている。むろん、日本を粉砕する。粉砕するしごとは軍人がうけもつのだが、 ふしぎなことに、ロシア軍人のひとりとして、日本の実力を正当に評価した者がいなか ったばかりか、それを冷静に分析した者さえいなかった。 一国の軍部が侵略に熱狂したとき、自分の専門であるはずの敵国の軍事的分析という 取り憑かれている政治 ものすら怠るのかもしれず、そういう作業をすることじたいが、 的熱気からみれば、ばかばかしくおもえてくるのかもしれない。 この時期、ロシア軍人が観察し、分析した日本陸海軍の実力評価は、つぎのようであ っ
この当時の日本人が、どれほどロシア帝国を憎んだかは、この当時にもどって生きね ばわからないところがある。臥薪嘗胆は流行語ではなく、すでに時代のエネルギーにま でなっていた。 エネルギーは、民衆のなかからおこった。為政者はむしろそのすさまじい突きあげを おさえにかからねばならない側であり、伊藤博文などは、 「おおかたの名論卓説をきいてもしようがない。私は大砲と軍艦に相談しているのだ」 といったりした。軍事力においてくらべものにならぬ大国に対し、国内世論がいかに 政府を突きあげたところで政府としてはどう仕様もないのである。 大建艦計画は、この国のこの時代のこのような国民的気分のなかでうまれ、遂行され 明治二十九年にスタートする建艦十カ年計画が実施された。国家予算の総歳費が、い よいよふくらんだ。明治三十年度の総歳出のごときは軍事費が五五バーセントであり、 同三十二年度のそれは明治二十八年度のほば三倍というぐあいにふくれあがった。国民 生活からいえば、ほとんど飢餓予算といってよかったが、この時期の日本の奇妙さは、 これについての不満がどういうかたちでもはとんど出なかったことである。 「考えられぬことだ」 といったのは、三国干渉直後、フランスの海軍筋が日本の建艦熱について語ったこと ばである。 っ ) 0
260 二月十九日の午後六時、東郷は旗艦三笠の艦上にこの閉塞隊の士官をまねき、送別の しゅひん 宴を張った。広瀬はむろん、主賓のひとりである。送る側として真之も出ている。 一同席につくと、東郷はゆっくり立ちあがり、卓上のシャンペン・グラスをあげ、ひ くい声で、 「このたびはごくろうである。十分成功をのぞむ」 とだけ、述べた。無ロな東郷としては長すぎるほどのあいさつであった。 ーー十分成功をのぞむ。 と東郷はいったが、はたして成功についてどの程度の公算が胸にあったか疑問である。 第一、立案者で実施上の総指揮官でもある有馬良橘も胸中、その疑問がつよかった。 この閉塞作戦は夜間おこなわれるのだが、闇のなかで勘にたよる作業だけに、うまく ゆくかどうか、おばっかなかった。有馬の計画は夜明け前に突入してほのばの明けとと もに開始するつもりであった。むろん、太陽の下のしごとだから、全員戦死するだろう。 ところが東郷は、その計画の時間を変更させて夜間にさせた。夜間ならば作業後全員 を収容することができる。これによって生還の公算が大きくなるが、しかしそれに比し て成功率もすくなくなる。 この時期の広瀬武夫についてふれておきたい。 かれの指揮する船は、報国丸 ( 二四〇〇トン ) ときまった。機関長は栗田富太郎で、
といったのは、軍令部作戦班長山下源太郎で、かれは開戦の前年九月、芝罘に出張し、 もどってきて大さわぎしていった。山下の芝罘出張は旅順のようすをうかがうためのも ので、この時期の状況下では、山東半島の芝罘から渤海海峡をへだててはるかに観察す るのがせいいばいのところであった。それでも海洋状況ぐらいはわかる。 「旅順ロのあのせまい口に駆逐艦をとびこませるなど、それは冬期の海の状況を知らん からいえるのだ。例の三寒四温で、三寒の朔風のひどいときは浪があらくて、小さな駆 逐艦は速力が出ず、よたよたする。そこをやられてはどうにもならぬ。旅順の警戒は厳 重で、ノーウィック ( 三等巡洋艦 ) などは毎日山東高角 ( 山東半島の先端 ) あたりまで えじき 顔を出してくる。これの餌食になってはどうにもならぬ」 山下は、こういった。開戦前、東郷や島村、秋山にもそのことはいってある。旅順の 状況は、この山下視察の程度しかわからなかった。 それならば相当な護衛兵力を旅順砲台の射程すれすれのところまで進出させればいし だろうということになり、その護衛には連合艦隊主力そのものがあたればよい、という のが、計画の核心になった。 ロ 秋山真之は、この駆逐艦の飛びこみ作戦をやると同時に、のちに登場する港口にポロ 順汽船をしずめて閉塞してしまうという非常作戦の二つを併用するつもりであったが、す 旅べて真之の計画することはゆるした東郷も、閉塞については、 「実施部隊は生還を期しがたい。そういうことはやるべきではない」 さくふう ばっかい
鮖「日本人は、信じがたい事をなした」 と、当時、英国の海軍評論家アーキバルト・・ トは、いっている。日本は日露 戦争直前において、いままで持ったこともない第一級の戦艦六隻と、第一級の装甲巡洋 艦六隻をそろえ、いわゆる六六制による新海軍をつくった。これだけでも驚嘆すべきで あるのに、その軍艦はことごとく思いきった最新の計画がもちいられており、たとえば 非装甲の防護巡洋艦などはほとんどっくられていない。英国海軍がなおこの種の巡洋艦 をつくりつつあったのに、である。 日本人は、大げさにいえば飲ます食わずでつくった。 その日本海軍の設計者が、この建艦計画当時やっと海軍少将になったばかりの山本権 兵衛である。エネルギーは国民そのものに帰せらるべきだが、日本海軍の設計と推進者 はただひとりのこの薩摩うまれの男に帰せられねばならない。 山本権兵衛について、かって幾度かふれてきたが、かれは戊辰戦争のころは薩摩の陸 兵として従軍し、北越から東北へ転戦した。 戦乱がおわったあと、東京へ出てきたが、やることがないため相撲とりになろうとし、 じんまく 当時の横綱陣幕久五郎のもとに入門をたのみに行った。もっとも、これはことわられた。 はなぐるま 権兵衛は鹿児島城下でくらしていた少年のころから相撲が得意で、「花車」というシコ 名までもっていたのである。 そうすい そのあと、郷党の総帥である西郷隆盛に説諭され、西郷の紹介で勝海舟のもとに行っ