258 当時、ソ連はソ満国境において紛争をおこそうという意図があり、計画的にこの事件 をおこした。関東軍はすでに察知していたが、事変がおこってからもなおソ連軍の実力 を軽視し、その補給能力を過小視した。 補給能力を過小視した理由はこの戦場は鉄道から二百キロ以上も離れているというこ とで、小さな兵力しかソ連軍は集結できまいと関東軍は考えた。うそのようなはなしで あるが、関東軍参謀の想像力の貧困さは、ソ連軍がトラックというもので輸送するとい うことを想像できなかったのである。当時日本陸軍は鉄道以外の輸送は人馬によってお こなうということがたてまえで、自動車というものを軍用につかうという智恵があまり へいたん ゆきわたっていなかった。自分の兵站のやりかたで、敵の兵站のぐあいを想像して敵の 兵力を計算したのである。ところがソ連は自動車をふんだんにつかって輸送し、補給した。 日本軍はこの戦争で、敵に倍するほどの兵力を投入した。ところがその歩兵装備は、 日露戦争のころにくらべてさほど進歩しておらず、一方ソ連軍は日露戦争のころにくら べると軍隊そのもののたてかたまで一変させていた。歩兵を軍の主力にするというのが 一般の常識だったのに、戦車を主とする軍隊をつくりあげており、歩兵はそれに協同す るだけであった。その上、砲兵力を飛躍的に向上させ、強力な火力構成によって戦闘を すすめるやりかたに変えてしまっていた。これにひきかえ日本陸軍の秀才たちは政治が 好きで、精神力を讃美することで軍隊が成立すると信じていたため、日本陸軍の装備は 日露戦争の延長線上にあったにすぎず、その結果は明瞭であった。死傷率七三バーセン
むろん旅順市街への銃剣突入などは、乃木の狂気と無智がうんだ夢想であった。旅順 市街をかこんで層々と魚鱗をかさねたように砲塁群がある。そのもっとも前面の、しか も補助砲塁の前で三千人の半数までが死傷したのである。 が、日本兵は、おそらくこの時代の世界に類がないほどに勇敢であった。生き残った 人数が、鉄条網を切って敵の陣内に滲透し、敵の塹壕のなかにとびこんだ。戦略的には 無意味な敢闘であった。とびこんだ者は、敵のエ兵用爆弾を上から投下されて爆死した。 ロシア兵のために大量に殺されながらも、日本兵はこの塹壕突入で何人かのロシア兵 を殺した。しかし何人のロシア人をこの塹壕で殺したところで、作戦の主目的である旅 順市街への突入などは物理的に不可能であった。それでもなお、日本兵は自分の死が勝 利への道につながったものであると信じ、勇敢に前進し、犬のように撃ち殺された。かれ ら死者たちのせめてもの幸福は、自分たちが生死をあずけている乃木軍司令部が、世界戦 史にもまれにみる無能司令部であることを知らなかったことであろう。かれらのほとん どが、将軍たちの考えることにまちがいはないと信じていた。ただ、信じない者もあった。 師団長や旅団長クラスのなかには、 撃 軍司令部は、おかしいのではないか。 総と、疑問をもつ者がいた。たとえば旅順攻防戦のなかでもっとも有能でもっとも勇敢 いちのヘひょうえ な将軍は、ロシア側ではコンドラチェンコ少将であり、日本側では一戸兵衛少将 ( 津軽 出身 ) といわれたが、 その一戸兵衛でさえ、
142 ある。 こういう戦況下で、これだけの大軍が、敵に気づかれずに渡ってしまうというのは、 稀有の成功というべきであった。日露戦争の陸戦における勝利の基礎は、このきわどさ のあいだに成立したというべきであろう。 クロバトキンは、あとで知った。かれは自軍に対して、激怒した。 「クロキは、手ごわい」 たいじ と、かねてかれは言い、黒木軍に対しては過大なほどの大軍を対峙させてあったので ある。その兵力は三個軍団七万八千人、野砲と山砲とをふくめて二百八十四門という火 砲を黒木のために配置していた。黒木はその敵の目をぬすみ、夜陰こっそりと大軍を陣 地からぬけださせて、ロシア軍の警戒薄弱の地点から河をわたってしまったのである。 そとぼり 日本の城郭構造からいえば、黒木軍は敵城の外濠をわたったといっていい。 かん この間、全戦線の戦闘についてのクロバトキンの報告書をみると、まず、 「日本軍の強襲的な進軍は二十四日からはじまった」 と、ある。 「本軍は、二十七日午後、攻勢をとった」 と、クロ。ハトキンはいう。これに対する日本軍の攻撃ぶりについては、 「その攻撃は、狂暴を極めた」
ても戦艦五隻、その他巡洋艦多数という敵の艦艇が、日本列島の周囲にばらまかれてし まったのである。まだ旅順で固まっていてくれたほうが始末にい、。 こ , つも散らしてし まえば、黄海や日本海であすから日本の汽船は航海できないのである。 「ど , つかね」 参謀長島村速雄の声がきこえた。向かいの席から真之にはなしかけているのだが、考 えごとをしていたため耳にはいらなかったのである。 というふうに、真之は顔をあげた。 「三隻は沈めるだろうか」 駆逐艦、水雷艇が、敵の戦艦をである。 「むりでしような」 「ほう、なぜかね」 「司令も艦長も、ながい封鎖作戦で疲れきっているようです。艦のうごきが躍動してい ませんよ、昼間のあの様子をみても」 主力同士の戦闘中、無数の大小砲弾が海面に落下しつづけて、とても小艦艇が入って ゆけるような状況ではなかった。げんに日本のどの駆逐艦も水雷艇も、戦闘海域ではう ろうろするばかりで、ついになにもしていない。入ってゆける状況でないところを、万 死をかえりみずにとびこんでゆくのが戦争というものではないか、と真之はおもうので
ていた。さらにはその長征の期間中、兵員の士気が持続できるかという点で、もっとも 懐疑的であった。すでにロシアの職工や水兵のあいだには、反帝政的な思想がひろがっ てきている。そのことを、技術者であるポリトウスキーはたれよりもよく知っていた。 戦場に到着するまでに反乱がおこらねば、めつけものというべき状態であった。 「ただ運命はまぬかれがたいとおもって、みずからを慰めている。もし幸いに命があっ て帰国することがあれば、このことを十分に語るであろう」 と、ポリトウスキーは書く。ついでながらかれは航海中、故障艦の修理のためにじっ に多にで、その義務を十分につくした。しかしかれは再びその妻のもとには帰らなかっ た。日本海で日本の砲弾のために死んだ。 これはよほど臆病な人かもしれない。 と、ウィッテがロジェストウエンスキーの性格をみてそう思ったようこ、 れはこの大艦隊の司令長官であるには、その点でもっともふさわしくなかったかもしれ 撃彼もそうであったが、 かれの水兵までが、 リバウ港を出るときから一個の妄想にとり 総つかれていた。 「日本の駆逐艦が、デンマーク海峡で待ち伏せているらしい」 といううわさである。そういう馬鹿なことがありえないということは、日本の海軍カ
「この大遠征は」 と、かれは、つこ。 「大きな困難をともなうとおもいます。しかし陛下がそれをやれと命ぜられるならば、 おもむ 私はよろこんでこの艦隊をひきい、 日本との戦闘に赴くでありましよう」 ほんね ロジェストウエンスキーの本音はどうだったのであろう。 かれは、たしかに「第二太平洋艦隊を編成して日本艦隊を撃滅させる」という意見を 皇帝に献じた。その皇帝がそれを採択したまではよかったが、かれにその司令長官を命 するということまでは、ロジェストウエンスキーはおもっていなかったかもしれない。 というのは、かれがこれを提案して皇帝を焚きつけたのはこの年の春ごろであり、その ときかれは少将でしかなかった。少将がこれだけの大艦隊の司令長官になるはすがなか つ 0 たれか、ひとがやるだろう。 と、かれはたかをくくって、軍令部長としていかにも彼らしくいかにも利ロげにこの 案を皇帝に売りこんだのかもしれない。。 とうも、その形跡がある。 撃ロシアは人口が多く、広大な国であり、しかもこれだけの大海軍をもっていながら、 総ふしぎなことに使いものになる将官というのは日本よりもはるかにすくなかった。 旅それでも、少将を司令長官にせねばならぬほど人材が貧困ではない。大将もいたし、 大将に昇格させてもいい古参中将もいた。
玉は疑いはじめた。 敵も、奇怪である。 敵の南下がとまっている。 ということは、奥軍の左翼にあって防御と偵察活動をつづけている秋山騎兵旅団長か らも情報が入った。 こうたいじんさんばうかこ はんきようほ 「敵の第一線は康大人山、蟒家故、板橋堡の線にまで進出し、その後停止しあり」 というのが総司令部において総合した敵状であった。しかも敵はその停止線において 陣地工事をはじめているという。 「ど一 , つい , っ音味か」 と、児玉は敵の意図をはかりかねた。敵があのままの勢いで津波のように押しよせて くるならば、このとき攻守いずれをとるかで迷っていた日本軍は、おそらくその防御線 を寸断されてしまったかもわからない。 日本軍の敗けいくさになることは、まぎれもなかった。思いあわせると、大山巌は幕 河僚をひきいて日本を発っとき、 いくさのさしすはすべて児玉サンにまかせます。ただ敗けいくさになったときは 沙私が出て指揮をとるでしよう。 といった有名なことばが、おそらく実現されたかもしれない。勝ちいくさはすべて児
296 であった。連隊は広島の歩兵第四十一連隊と福知山の後備歩兵第二十連隊である。両連 隊とも遼陽正面攻撃に参加して勇名をとどろかした連隊で、要するに将も士卒も悪くは 、 ) なかっ」。 戦場につきものの運のわるさというものであった。山田少将は自分の支隊が全 日本軍の展開線から突出しすぎてしまったことに危険を感じ、十六日の夜、陣地を後方 にさげようとした。その退却中にロシア軍の大軍がたくみに追尾し、しかも日本軍の混 乱中、別なロシア軍が出現して横撃したのである。ロシア軍は三倍以上の兵力を用いて いるが、戦術上の理想的戦勝であることはまちがいない。 日本軍は退却中の腰を押されたということで、のつけから弱かった。その退却の仕方 は戦術教科書どおりであった。まず退却は後方の山砲隊からはじめ、野砲がこれに次ぎ、 竹下平作中佐の後備歩兵第二十連隊がさらにそれにつづき、最後の殿軍をひきうけたの うざわ が現役兵で成立している鵜沢総司中佐の歩兵第四十一連隊という点では、すこしの誤り もない。ただロシア軍の追撃がみごとすぎた。四個連隊がまず鵜沢をたたき、一個連隊 が鵜沢の背後をまわって山田支隊の主力を遮断し、さらにもう一個連隊が日本砲兵と輜 ちょう 重部隊を襲撃した。まるでふくろだたきであった。 山田支隊は寸断され、暗闇、悽惨な戦いになった。ロシア兵の襲撃は残忍をきわめ、 しちょうゆそっ 武器をもたない輜重輸卒や負傷兵をことごとく刺殺、撲殺した。虐殺といってよかった。
勢いで降りはじめた豪雨である。このためロシア軍は目標をうしない、砲火を衰えさせ た。不眠の日本軍はこの豪雨を幸い、壕内で多少の休養をとることができた。 自然現象のなかで雨というものほど、人生に食い入っているものはない。戦場におい てもそうであった。十四日夕刻から降りはじめた豪雨は兵を濡らし、砲を濡らし、夜に 入るとまるで火を消すようにして戦火を衰えさせたのである。 疲労しきっている日本軍の場合、 「この豪雨のなかを、まさかロシア軍は攻めてくるまい」 ということで、前夜来の不眠の疲れを、壕内で回復させようとした。 疲労は、ロシア軍にとってもおなじである。そのうえ、ロシア軍はこの会戦の後半、 シグザグになってみだれてしまっている。その整頓が必要 受け身になったために陣形が。 であった。この夜、クロバトキンはその作業にとりかかった 「整頓」 という作業は、日本軍にとっても必要であった。大山・児玉の満州軍総司令部はこの 河豪雨のタ、諸軍に命令をくだし、 「会戦直後の整頓をおこない、以後の前進にそなえよ」 沙という旨の命令をくだした。 前線の各軍参謀たちのなかには、
, つごきがとれなかった。 黒木はさらに、別方面の関連山というところにいる兵站の守備兵をまで、 「本渓湖へゆけ」 という、軍隊の常識を越えた命令まで出した。このため守備兵のいなくなった兵站部 は非戦闘員だけになり、平素、銃をもたない補助輸卒までが馴れぬ手で銃をとって万一 の警戒をした。 ともあれ、十月九日においては日本軍右翼である黒木軍は、梅沢旅団を中心としてま ったく潰滅の危機にひんした。 満州軍総司令部にいる児玉源太郎は、 ( 黒木軍を泣かせねばしかたがない ) とみた。 かれは大作戦案をたてた。というのは敵の主力が右翼の黒木軍にのしかかってきてい る。このすきに、日本軍の中央にいる野津軍と左翼の奥軍に命じいっせいに前進運動を おこさせてロシア軍を包囲させようというものであった。クロバトキンにとって想像も 河できなかった作戦である。 世界の戦術史にも例のすくないことであろう。日本軍はロシア軍よりいちじるしく兵 沙 力がすくなかった。小兵力の軍が、大軍を包囲しようというのは、机上の戦術学では無 謀というほかない。