要するに沙河戦というのは妙な会戦であった。終りというものがなかった。 が、どうやらこの十月十三日という日が沙河戦の峠であったことは、まちがいなさそ うである。十三日は、日本軍が総前進を開始して四日目であった。 この間、クロバトキンの頭脳は多忙をきわめた。かれの不幸は頭脳の回転速度が常人 より早すぎることであった。 どの方面がいま危機にあるか。 ということに、つねに判断上の心理がかたむいた。・ との方向で敵が圧迫されているか というよりも、味方の危険に対して過敏すぎる男であり、かれがもっているせつかくの 頭脳も局面への冷静な判断のためにはあまりはたらかず、かれのそういう心理的痛点の みをめぐってはたらいた。作戦とか統帥とかいうのは結局の問題ではなく、軍将の性格 や心理の問題なのであろう。 ロシア人は元来が鈍重な民族とされている。つねに西欧のひとびとからそういわれ、 ロシア人自身もそのことに劣等感をもっていた。 : 、 カクロバトキンはその明敏さと機敏 さという点においておよそロシア人離れがしていた。ロシア人離れした男ということが、 河開戦前までのロシア宮廷や軍部におけるかれの名声のもとになっていた。 「クロバトキンは、ロシアきっての名将である」 沙ということは、ロシア人のたれもがうたがわなかった。要するにかれの名声はロシア 人の劣等感の裏返しの作用として成立していたものであった。
シフは、これについて高橋にこう語ったといわれる。 「ロシアは、ユダヤ人を迫害している」 と、シフはいう。ロシア国内にユダヤ人が , ハ百万人居住し、シフにいわせればロシア 帝政の歴史はそのままユダヤ人虐殺史であり、いまもそれはつづいている、という。 「われわれユダヤ人は、ロシア帝政のなくなることをつねに祈っている。時たまたま、 極東の日本国が、ロシアに対して戦いをはじめた。もしこの戦争で日本がロシアに勝っ てくれれば、ロシアにきっと革命がおこるにちがいない。革命は帝政をほうむるであろ う。私はそれを願うがゆえに、あるいは利にあわぬかもしれぬ日本への援助を、いまこ のようにしておこなっているのである」 ユダヤ人ヤコプ・シフにその肩入れの理由を説明されたとき、高橋の秘書役の深井英 五にはよくわからなかった。 「人種問題というのは、それほど深刻なものでしようか」 と、深井はあとで高橋にいった。日本人の概念ではユダヤ人というのは拝金主義者だ 陽ということになっている。なによりも大切なはすである金を、勝っか負けるかわからな とういうことであろう。シフは人種問題であるとい い日本のために投ずるというのは、。 遼う。単一民族である日本人にとって、人種問題ほど実感のおこりにくい課題はない。 深井英五は、ロンドンの金融筋にあたってヤコプ・シフの経歴をしらべた。さらにロ
この時期、洋上にあってはあいかわらず日本の連合艦隊が一定の運動をくりかえして 旅順ロの出口をおさえ、旅順艦隊の封じこめ作戦をつづけている。 「なぜ、旅順艦隊は外洋へ出撃しないのか」 という批難の声は、旅順の陸軍のなかでごうごうとおこっており、要塞司令官のステ ばせい ッセルでさえ、港内の艦隊をみてはおなじ罵声をくりかえしていた。 「ロシアの旅順艦隊の心情を怪しむ」 と、のちにこの時期のロシア艦隊を論じた英国の海軍戦術家プリッジ ( 海軍大将 ) は、 こうのべている。 「東郷とウイトゲフト ( 旅順艦隊司令長官 ) はほばおなじ兵力をもっている。もしウイトゲ フトが洋上での決戦を覚悟して激烈な接戦をおこなうとすれば、たとえその結果におい て艦艇の大部分をうしなうとしても、これと同時に東郷の艦隊にも大損害を与えうるはず である。ロシアはまだ本国艦隊をもっている。日本は東郷の艦隊しかない。自然、ロシアの はけん 本国艦隊が回航されてきたとき、極東海上の覇権はロシアがにぎりえたはすである」 たしかにそのとおりであったであろう。ロシアはこの大戦略をやってのけるべきであ った。そのかわり、旅順のウイトゲフトの艦隊は全滅を覚悟に東郷艦隊とさしちがえて ともに海底に沈まなければならない。ウイトゲフトとその部下は完全に犠牲になること 黄によって祖国を救いうるはずであった。この英国人プリッジの作戦は、ウイトゲフトが 犠牲になることによって成功するであろう。が、この時期のロシア人には、ロシア社会
170 シアにおけるユダヤ人迫害問題をしらべた。 知るにつれて、身の毛もよだつほどに深刻な問題であることがわかった。 その歴史はふるく、十 , ハ世紀のイワン四世のころから顕著にあらわれている。イワン 四世は、ユダヤ人をキリスト教徒にしようとした。ユダヤ人はそれをきらった。拒絶し た者はことごとく川に投ぜよ、という勅命がくだり、役人たちはそれを実行した。 十九世紀の後半になるとこの迫害はひどくなり、残忍をきわめた。ヤコプ・シフは全 米ユダヤ人協会会長としてこの事態に対してできるかぎりの手をつくした。英国をはじ め各国政府に嘆願したが、内政干渉になるためどの国の政府も消極的であった。 ヤコプ・シフは、個人としてロシア政府に金も貸した。 「金を貸すから、どうかユダヤ人をユダヤ人であるからといって虐殺することはやめて くれ」 と、たのんだ。ロシア政府は借りた当座はその迫害の手をゆるめたが、一年も経っと もとにもどった。ヤコプ・シフは何度も金を貸したが、ついにかれは帝政ロシアという ものの体質に絶望した。 「革命がおこらねばだめだ」 という信念をもつようになった。帝政ロシアが、どの国よりも豊富にもっているもの は、反逆者であった。ロシアの帝政をくつがえそうとしている連中は、ロシアに征服され たポーランドやフィンランドの独立党をふくめて、その会派だけで百をこえるであろう。
議会の機能を停止させ、ロシア語をもって公用語とさせ、さらに日露戦争がはじまる前 年、フィンランド憲法をも停止させ、ロシア帝国の任命による総督の独裁下においた。 フィンランド人はこれらのロシア化の大波に抗してさまざまの抵抗をしめし、ついに日 露戦争がはじまった年、ロシアの任命による総督ポプリコフを暗殺してしまい、国民的 規模によるゼネストを盛りあげた。 ロシア帝政は、そういう課題をかかえている。これらロシアの衛星圏には不平党、独 立党が精力的な地下工作をつづけており、ロシア本土にも、帝政の矛盾と圧政のなかか ら革命運動家が年々続出している。 日本の大本営は、この戦争をはじめるにあたって、これらロシア内外の不平分子を煽 動して帝政を倒さしめるべく大諜報をおこなうことを決定し、その任務を公使館付武官 を歴任 ( フランスおよびロシア駐在 ) してヨーロッパにあかるい明石元二郎大佐にあた えた。 明石は福岡藩の出身で、士官学校は好古よりやや下の六期であった。服装に無頓着な いわば東洋的豪傑風の男だったが、かれのやったしごととその効果は驚嘆すべきもので 陽あった。しかも資金はふんだんにつかった。参謀本部がかれ個人にあたえたこの工作費 が、日本の歳入がわずか二億五千万円のころに百万円という巨額であったことをおもえ 遼ば、その活動量をほば想像できるであろう。 どう せん
をつかっているかもしれないとみていたが、 フランスはどうやらロシアには渡さなかっ たようであった。さらにロシアの砲弾は信管がやや粗末で、不発弾がすくなからず出た。 うる著、ん 下瀬火薬の威力をロシア側が本格的に調査しはじめたのは、黄海海戦のあとの蔚山沖 海戦で戦った巡洋艦「グロムボイ」と「ロシア」がウラジオストックにやっとたどりつ いたときであった。両艦は沈みこそしなかったが、完全な廃艦になっていた。 せいさん せんりつ 「両艦ともその被害は悽惨で、みる者をして戦慄せしめた」 と、新聞発表した : 、 ホートはこなごなに破壊され、砲身はまがるか砕けており、舷側 だんこん の弾痕はみな人が出入りできるほどの大きさで、ロシアのごときは全艦二十門の砲のう ち、使用できるものは三門しかなかった、という。 諸外国の新聞もこの火薬について報道したが、「日本はこの火薬を最大の国家秘密に しているからよくわからないが、とにかく火薬における革命的なものである。ロシア人 はその威力を、肉体的経験によって学びとるという不運な境遇におかれた」 ( 一九〇四 年七月三十一日・ニューヨーク・タイムズ ) 日本陸軍もこの艦砲用の下瀬火薬を土台にあたらしい黄色薬 ( ピクリン酸 ) を開発し、 月台三十年工業化に成功した。しかし敵の鋼鉄艦に対する下瀬火薬はどの威力はなかった。 塵日冫 黄ところで。 旅順にふたたび逃げこんだ艦隊の始末について、ロシアの現地陸海軍が協議した結果、
「出来るなら日本に勝たせたい、よし最後の勝利を得ることが出来なくとも、この戦い が続いているうちにはロシアの内部が納まらなくなって政変がおこる。すくなくともそ の時まで戦争が続いてくれた方がよい。かっ、日本の兵は非常に訓練がゆきとどいて強 いということであるから、軍費さえゆきづまらなければ結局は自分の考えどおり、ロシ アの政治があらたまって、ユダヤ人の同族はその虐政から救われるであろうと。これす なわちシフ氏が、日本公債を引きうけるにいたった真の動機であった」 さらに高橋のばあいだけでなく、他の場合においても、人種問題が日本をたすけた。 一つの人種もしくは民族あるいは国家が、他のものに対して圧迫をくわえたときにおこ る反撥ほどすさまじいものはない。 十九世紀のロシアは、ほうばうを侵略征服した。 ポーランドもそのひとつである。かってポーランド王国のあったこの地域はいまはロ 州にされ、その青年は徴兵されて満州の野で日本軍と戦っている。一 シア帝国の一 五年、ロシアがポーランドを合併して以来、志士たちの手でたえまなく独立運動がおこ され、そのつどロシアの警察と軍隊によって鎮圧された。 フィンランドもそうであった。一八〇八年、ロシアはナポレオンと取引きしてこの地 域をうばい、その後一時、フィンランド人による自治をゆるしたことがあったが、現ロ シア皇帝ニコライ二世の父の時代からフィンランドをロシア化する政策を実施しはじめ、 現皇帝になってそれがすさまじくなり軍隊を派遣してフィンランド人の自治権をうばい
あってロシアに金を貸していた。 高橋はイギリスへ行った。イギリスとのあいだには日英同盟があるとはいうものの、 英国が日本に戦費を貸与するというような性質の同盟ではない。 高橋は、ロンドンにおけるあらゆる主要銀行や大資本家を歴訪した。が、結果は絶望 的であった。かれらは日本の立場に同情をしたが、しかし金を貸す相手でないとみていた。 高橋是清がヨーロッパで実見したところ、ロシアの信用は開戦でいささかもゆるがな 、リやロンドンにおけるロシア公債の市価は、むしろあがり気味であった。 日本のそれは、よくない。 りつき 開戦前、日本の四分利付英貨公債は八十ポンド以上であったが、開戦後暴落して , ハ十 ポンドにまでさがっていた。 「この不人気のなかで、あらたに公債を発行しても、英国人大衆は応するかどうか」 とおもうと、高橋の気持は暗かった。 「ロシアなら、金は貸せる」 陽というのが、銀行筋の常識であった。ロシアに広大な土地があり、鉱山がある。それ を担保にとれば万一のことがあっても貸し主に損はない。が、日本には担保にできるよ 遼うな土地も鉱山もなかった。 こういう状況下で、高橋はとにもかくにも公債発行を成立させたのだが、その条件は
ヤコプ・シフは、おそらくその連中にも資金援助をしたことがあるにちがいない。そ ういうなかで、ロシアの内政のどういう革命党や独立党よりも強力な力で立ちあがった のが、日本の陸海軍である。どういう革命党よりも命しらずであり、組織的であり、強 力であった。 日本が、ロシアの帝政をたおすにちがいない。 と、ヤコプ・シフはおもった。たとえ日本が負けてもいし 衰弱する。それが、ヤコプ・シフの日本援助の理由であった。 「世界は複雑だ」 と、深井英五はおもった。この人は国民新聞の記者から官界に入り、のち日銀総裁に なった。日本が太平洋戦争でやぶれた昭和二十年まで生き、その十月二十一日に死んで 人種問題について深井英五は世界の複雑さを知ったが、楽天家をもって知られる高橋 是清のほうが、そういう感覚があった。 陽「それはそうだよ」 と、かれは深井にいった。かれはヤコプ・シフが「ロシアにおけるユダヤ人を救うた 遼めに日本を応援するのだ」といったとき、すぐその理由が、ごく現実的なものであるこ とを理解することができた。 。この戦争で帝政ロシアは
退却してのち、要塞司令官ステッセル中将はかれに退却の責任を問い、軍法会議にかけ たために、大尉は獄中で憤慨のあまり自殺した。 ロシア兵は強、。 という印象を乃木はうけたが、しかし旅順要塞に対する見方がいよいよ楽観的になっ たのは、この剣山があまりにも早く抜けたからであった。しかし乃木は知らなかったが、 剣山は旅順のような永久要塞ではなかった。ロバチン大尉以下の歩兵が単に野戦陣地を つくって守備していたいわばトリデ程度のものであった。 この時期、乃木希典がその司令部をおいていたのは、 きたほうしがい 「北泡子崖」 という村であった。ロシア人が敷設した鉄道の大連駅の一つ手前の駅が周水子であり、 その周水子駅の近くにこの村がある。そこに鉄道の保線場があり、赤煉瓦二階建てのた てものがあった。乃木はここを司令部とし、自分は二階に起居していた。 大山、児玉のふたりの大将を中心に、十一人の幕僚が騎馬でこの建物を訪れたときは、 ひ 陽がすでに高くなって烈日が赤土を焦がしはじめようとしている時刻だった。 建物をかこんでポプラの樹があり、入口のそばに小さな花壇がある。ポプラもロシア 人が植えたものであろうし、花壇を作ったのもロシア人であろう。 「ハハア、リンゴの樹もあるな」