340 をみれば十分に回答の出ることであった。わずかこの当時の二、三百トンの駆逐艦をこ の遥かなるヨーロツ。ハの北洋にまわしてくるということがはたして可能か。それを可能 にしようと思えば、修理用の工作船もつれて来なければならないし、二等巡洋艦の一、 二隻も必要であろう。そのような力は、日本海軍にはなかった。 が、この艦隊はすでに戦わぬ前から、恐日心理に支配されていた。日本人ならそれく らいの放れ業はやるだろうとかれらは思った。たれよりも司令長官ロジェストウエンス キーがそう信じたのである。 「すくなくとも、スウェーデンの南端の海峡に機雷ぐらいは沈置しているにちがいな という見方は、ロジェストウエンスキーもその幕僚たちも信じていた。 艦隊の速度は、八ノットであった。 出港して三日目の夕刻、その疑惑の海峡にさしかかったとき、ロ長官は全艦隊に合戦 準備命令をくだし、夜も着衣のままで寝るよう指示した。むろん、全艦の備砲は即時に 発射できる準備がおこなわれた。 十七日ぶじデンマークのランゲランド島までたど さまざまな臆測がみだれとんだが、 とうびよう オカまだなお油断はできなかった。このせまい水域をすり りつき、そこに投錨しこ。。ゝ、 ぬけてバルチック海をぬけ出し外洋に出るまでは、日本の魚雷もしくは機雷からの危険 は去らぬとみてよい。すくなくともロジェストウエンスキーはそう判断した。
332 ところが、皇帝の寵愛は、ロジェストウエンスキーに集中していた。 「かれは利ロでスマートだ」 ということが、皇帝の寵愛の理由であった。この点、陸軍のクロバトキン大将が重用 され寵愛された事情とかわらない。 ロシアには、西欧に対して劣性コンプレックスがあり、自分たちが鈍重で粗雑で粗放 で、そのため多分に半東洋人であるとおもい、西欧人がそのようにおもっているという ことについてつねに意識しすぎていた。これはピヨートル大帝以来、ロシア宮廷にある 遺伝的な劣等感であった。 このためドイツ人の血の濃い官僚を重用したりした。スラヴ系の人材のなかでも、西 欧的な機敏な性格と頭脳をもった者が、実力以上に重用されるという痼癖があった。 ロジェストウエンスキーもそうであった。かれは宮廷で気に入られるために、ことさ らに西欧的な機敏な頭脳をもっていることを誇示したり、演出したりした。その結果が、 皇帝をして、 「ロジェストウエンスキーなら勝つにちがいない」 ということを信ぜしめるにいたったようであり、いわばロジェストウエンスキーみず からが蒔いたたねでもあった。 バルチック艦隊が、出港のための大集結をしたのは、バルト海 ( バルチック海 ) に面 こへき
330 という戦略である。その艦隊が勝てるか勝てないかの論議はしなかった。皇帝の海軍 が負けるなどということを一言うことは皇帝への不敬であり、宮廷の儀礼に反した。第一、 ロジェストウエンスキーは、その艦隊が、日本艦隊をのこらす海底へたたき沈めるであ ろうとおもっていた。 しかし何よ なぜ思っていたかといえば、かれの性格とかかわりがあるかもしれない。 りもかれが一度も実戦を経験したことのない軍令部長 ( 信じられないことだが ) である からであった。さらにいま一つ信じられないことは、かれの海軍歴は陸上勤務がほとん どで、艦隊勤務というものにはまるでといっていいほどに経験がない。かれはただ皇帝 ゅうえいじゅっ の官僚にふさわしいスマートさと、宮廷遊泳術によって海軍軍令部長にまでなったの である。 「ロジェストウエンスキー、卿はど , っ思 , つか」 と、皇帝は最後に質問した。ロ中将の返答はむろん、皇帝にはわかりきっている。 日本艦隊を必滅できる。 とは、さすがにロジェストウエンスキーはいわなかった。それを言いたカったが、極 端なことばづかいや断定的な物言いは、典雅を第一とするロシア宮廷での儀礼に反する ことであった。ロジェストウエンスキーは、この点で、たれよりも皇帝に対してつつし みぶかい官僚であった。
辺能力をあげて物事の整頓につとめ、規律をよろこび、部下の不規律を発見したがる衝動 のつよさは異常で、双方とも一軍の将というより天性の憲兵であった。さらに双方とも、 その身分と位置は他のたれよりも安泰であった。なぜなら、ロジェストウエンスキーは 皇帝ニコライ二世の寵臣であり、寺内正毅は山県有朋を頂点とする長州閥の事務局長的 な存在であった。日本にとって幸いだったのは、寺内が陸相という行政者の位置につき、 作戦面に出なかったことであった。ロジェストウエンスキーは、対日戦の運命を決すべ き大艦隊の司令長官として海上を駛っているのである。 ロジェストウエンスキーは元来が侍従武官であり、荘重さとチリ一つない環境につい て異常な執着をもっこの人物はこの種の儀典職にはうってつけであった。かれはポーイ 長のような職業性格をもっていた。皇帝ニコライ二世は、 「かれはロシアがもったもっとも有能な提督である」 とおもいこんでいたが、かれの部下たちはひそかながらそうは思っていなかった。 「あれは愚物だ」 と見ぬいたのは、ロシアの開明的政治家ウィッテ伯爵であったらしい ロジェストウエンスキーは開戦のはじめ、海軍軍令部長 ( 心得 ) という重職について 、つ ) 0 「重職」 というのは、日本的にいえばそうである。日本の海軍はできあがったばかりの組織で
344 搭載作業をはじめた。水兵にとってこれはどっらいしごとはなかった。 この日、晴天であった。その午後三時、スウェーデンの汽船一隻が接近してきて、 「重要な通信あり」 と信号をかかげつつ寄ってきた。ロシアの諜報員がやとった汽船で、重要諜報を運ん できたのである。ロジェストウエンスキーがうけとってみると、 「三本マストの一帆船が、ある小湾から出帆して行った。きわめて疑わしいことであ る」 というばく然とした情報である。 日本の諜報船に相違ない : とこかで待ち伏せしている水雷艇に報らせに行ったに ちがいない。 と、ロジェストウエンスキーは、空想小説の作者でもおよばないほどの想像力をはた らかせた。日本の水雷艇が北海あたりにいるというのも非現実的だが、たとえそうであ るとしても、もっともスピードを必要とするその通報に帆船を使うはずがない。ロジェ ストウエンスキーの想像力は、このように多分に現実把握の基礎の上にはなかった。か れは強烈な自尊心のもちぬしであったが、度をすぎた自尊心というのは、ひょっとする と病的な恐怖心の裏返しなのかもしれない。 しかしかれが軍人であるなら、その恐怖心はかれ個人の胸の中に閉じこめておく作業 をすべきであった。恐怖心のつよい性格であることは、軍人としてかならずしも不名誉
350 というのである。 恐布劇は、進行している。 繰りかえして時刻をいうが、工作艦カムチャッカが日本の水雷艇八隻に襲撃されよう としているとの悲鳴のような無電を打ってきたのは、夜の八時四十五分であった。 ロジェストウエンスキーはカムチャッカとのあいだの交信の最後に、 「とにかく貴艦はます針路を変じて、襲撃からの危険を避けよ。避けてから、貴艦の緯 度および経度をしらせよ。さらに針路もしらせよ」 と、 いった。ところが、これに対するカムチャッカの返答は、 「示スコトヲオソル」 というものであった。カムチャッカにすれば自分の位置を無電で報らせることによっ て「日本水雷艇」に傍受されればどうにもならないという恐怖があった。 時間が経った。 夜十一時になった。旗艦スワロフの無電機がふたたび発信を開始した。 その後どうなっているのか。なおも日本の水雷艇の姿が見えるか。 という問いを発した。電波は風雨のなかを飛んだが、このロジェストウエンスキーの しに対しカムチャッカはしばらく沈黙した。ロ提督は、腹を立てた。 「臆病犬め ! 」
「この大遠征は」 と、かれは、つこ。 「大きな困難をともなうとおもいます。しかし陛下がそれをやれと命ぜられるならば、 おもむ 私はよろこんでこの艦隊をひきい、 日本との戦闘に赴くでありましよう」 ほんね ロジェストウエンスキーの本音はどうだったのであろう。 かれは、たしかに「第二太平洋艦隊を編成して日本艦隊を撃滅させる」という意見を 皇帝に献じた。その皇帝がそれを採択したまではよかったが、かれにその司令長官を命 するということまでは、ロジェストウエンスキーはおもっていなかったかもしれない。 というのは、かれがこれを提案して皇帝を焚きつけたのはこの年の春ごろであり、その ときかれは少将でしかなかった。少将がこれだけの大艦隊の司令長官になるはすがなか つ 0 たれか、ひとがやるだろう。 と、かれはたかをくくって、軍令部長としていかにも彼らしくいかにも利ロげにこの 案を皇帝に売りこんだのかもしれない。。 とうも、その形跡がある。 撃ロシアは人口が多く、広大な国であり、しかもこれだけの大海軍をもっていながら、 総ふしぎなことに使いものになる将官というのは日本よりもはるかにすくなかった。 旅それでも、少将を司令長官にせねばならぬほど人材が貧困ではない。大将もいたし、 大将に昇格させてもいい古参中将もいた。
夜一時すぎ、旗艦スワロフの前面にあたって三色の狼煙があがった。これは操業中の 英国漁船のうちのどの船かがあげたものだというが、戦後のしらべでは、 そういうノロシはあがらなかった。 という説もあり、なにしろ全艦隊が異常な神経昂奮のなかにあったため、その点はさ だかでない。 はっきりしていることは、ロジェストウエンスキーが座乗している旗艦スワロフが、 サーチライト このとき闇をつらぬいて探照燈をつけたことである。これはこの集団心理のなかにあっ ては戦闘開始を命じたにもひとしかった。 各艦の艦長とも、 「あっ」 と、おどろいたであろう。げんに旗艦スワロフにおいて、 「合戦準備。ーーー」 とのラッパが鳴った。ロジェストウエンスキーは全艦隊に戦闘を命じたのである。 相手は、漁船であった。探照燈は、一本煙突の漁船をとらえていた。そのかがやきの 撃あかるさは、 総「小蒸気船の船腹の黒と赤の彩色があざやかにみえるほどであった」 旅と、旗艦乗組の造船技師ポリトウスキーは書いている。相手は英国漁船であった。し かし全艦隊はこれを日本水雷艇とみて、あらゆる砲が咆哮しはじめた。 は一つ、つ のろし
かん 患するにまで至らなかったのは、多くは乃木希典の統帥力に負っているといっていい。 この点、ロジェストウエンスキーは、かれ自身がその患者であった。 予は臆病ではない。 ようげん 彼自身がどういう性格にせよ、全軍に と、あるいは彼自身揚一言するかもしれないが、 , 臆病風をまきちらす作業の指揮者であった。リバウ軍港を出てわずか三日目に、 とっさ 「全員着衣のままで寝よ。全艦隊は咄嗟砲戦にそなえよ」 などとかれが出した命令ほど不可解なものはなく、まるで臆病風をまきちらすだけの かん 効能しかない。すくなくともこの間にかぎってのかれの行動は、統帥しているどころか、 その積極的破壊者のそれであった。 軍隊は、最高司令部にもっとも多くの情報が集まっている。下級士官以下は部署々々 の労働者であるにすぎず、なんの情報も持たされていないし、むしろ持っことは好まし くないとされる組織である。このため下級士官以下は上層部を信頼する以外になく、自 然、上層部が一ミリの振幅で動揺すればそれが下層部にったわるころには一メートルの せんりつ 振幅になるという神経機能になっている。ロジェストウエンスキーの戦慄は、この大艦 撃隊に大恐慌としかいいようのない心理をもたらしたのは当然であった。 攻 総 順 旅この史上最大規模の遠征艦隊が、デンマークの北端のスカーゲン岬を見たのは、リバ ウ軍港を出てから六日目の二十日のことである。全艦隊がその岬の沖に投錨し、石炭の
戦艦スワロフには、すでに司令長官ロジェストウエンスキーが座乗していた。かれは クロンシュタットからその座乗艦たるべきこの巨艦に乗った。クロンシュタットを出港 ていはく して翌日、ロシアがかって掠奪した港であるレウエリー港に入り、しばらく碇泊した。 ほどなく ( はば一カ月後 ) 皇帝が艦隊にやってきて、艦隊を検閲し、一艦々々まわった。 やがてアリヨールの艦上にのばり、士卒にむかったときは、やや疲れているらしく声の 調子は平板であった。 「わがロシアの平和を破壊した卑怯な敵を撃破せよ」 という旨の演説であった。皇帝は小柄な人物であった。それだけに皇帝の背後に金ピ 力の礼装で立っているロジェストウエンスキーの体が、よりいっそう堂々としてみえた。 バルチック艦隊がリバウ港を出港して万里の征旅についたのは、十月十五日である。 同日午前九時、巡洋艦アルマーズがおびただしい黒煙を吐いてまず発航した。 ふとう 埠頭し。 こよ軍楽隊が整列して吹奏し、群衆がウラーの声をあげた。 旗艦スワロフがうごきはじめたのは、正午であった。 撃万事が、ロシア風に荘重であった。前夜は旗艦スワロフの艦上で、航海の無事を祈る ・攻きとうしき 総祈疇式があった。その儀式は、各艦の上でもおこなわれた。 旅ロシアの軍艦旗である聖アンドレーエフの旗が、どの艦にもひるがえっている。 天気は、無類によかった。バルト海は濃緑色を呈し、波もほとんどない。