160 井茂太少将などは、つねに天幕内での出入りを自由にし、かれらの質問にはかくすこと なく答え、いまからやろうとする作戦計画まで教えてひどく好感をもたれた。 が、奥軍の幕僚たちは、秘密主義をとった。前線にかれらが出ることも禁じたし、戦 況についてのかれらの質問に対しても、ろくに答えたことがない。記者たちだけでなく、 外国観戦武官に対してもそうであった。 われわれは豚のようにあっかわれた。 と、ふんがいした観戦武官もいたらしい しかも、奥軍の正面の敵は強大で、奥軍は遼陽攻撃の末期にはおおいがたい敗色を示 しつつあったため、なんの説明もうけないかれらにとっては、 日本軍は敗けている。 としかおもえない。 かれらはこの奥軍の敗勢をもって日本軍の全戦線を想像し、遼陽会戦が終了するとと もにかれらの多くは日本軍の作戦地域から脱出し、営ロや芝罘へ走り、そこから本国へ 記事を送った。 「日本軍は遼陽において勝ったのではない。ロシア軍の作戦に乗っかってしまっただけ だ。ロシア軍は堂々と撤退した」 という内容の記事が、電信のキーから世界じゅうにばらまかれたのである。 ひとつには人種的偏見も濃厚にあった。黄色人種が、白色人種に対して多少でも砲火
木が迂回運動をはじめるや、戦いの進行中にわかに作戦をかえて黒木にむかった。この 黒木との戦いは、ほば五分々々である。 饅頭山をとりたい。 という執着がかれにあった。黒木にとってもこれは天王山で、ここを軸にしてクロバ トキンを包囲する旋回運動を行ないたかったが ( といっても実際は兵力不足で、それは実 施できにくかったろう ) 、クロバトキンも同様のことを考え、この饅頭山を軸にして黒木 軍へつばさをひろげ、大包囲をおこなおうとした。双方、コンバスを持ち、饅頭山にコ ンバスのシンを突きさすべくうばいあったといえる。ところが、双方奪ったり奪われた りした結果、かろうじて黒木がとった。 すると、クロバトキンはもういやけがさしてしまったらしい。遼陽をまもるとい , っこ の作業そのものをすててしまったのである。 「あと、奉天がある」 というのが、クロバトキンの第二主力決戦構想であった。 陽「遼陽では、作戦は計算どおりにゆかなかった。しりそいて奉天の線で展開し、そこで 完全作戦をおこなってみよう」 遼というのが、クロバトキンの肚だったのであろう。このあたりが、かれは明晰すぎる 頭脳と繊細すぎる神経をもった秀才で、決して大野戦軍を統帥する将領ではなかった。 はら
104 ただひとつ、かれは妙なことをした。 遼陽城の城壁に大穴をあけたことである。それもいくつもあけた。用途は、退路であ かれはこれほど重厚で堅牢な野戦陣地をつくりながら、敗けて逃げるときの用意まで した。このことが、かれほどの大作戦家が、遼陽会戦で失敗する主要な原因のひとつに よっこ。 じつをいえば、この遼陽に展開しつつあるロシア軍に対し、日本軍は機敏な攻勢に出 カ出ることができなかった。 るべきであった。。 : 砲弾が足りなかったのである。 海軍は、あまるぐらいの砲弾を準備してこの戦争に入った。 が、陸軍はそうではなかった。 「そんなには要るまい」 と、戦いの準備期間中からたかをくくっていた。かれらは近代戦における物量の消耗 ということについての想像力がまったく欠けていた。 この想像力の欠如は、この時代だけでなくかれらが太平洋戦争の終了によって消滅す るまでのあいだ、日本陸軍の体質的欠陥というべきものであった。 日本陸軍の伝統的迷信は、戦いは作戦と将士の勇敢さによって勝っということであっ
198 は旅順大要塞のうちの東正面の堡塁やら砲台やらを目の下に見おろすことができたが、 乃木軍の参謀は占領日はじめにやってきただけで、そのあとたれひとりこの頂上へのば って敵情を見ようとはしなかった。 さらにはまたロシア側は、堡塁ごとに多くの機関銃をそなえている。この当時、銃剣 突撃を命ぜられる第一線部隊にとってこれほどおそるべき新兵器はなかった。会戦のば あいならともかく、攻城のばあい、攻撃側の日本軍は一定のコースをたどって突撃して くる。要塞側は、それをなぎたおすだけでよかった。なぎたおされるために日本軍はや ってくるようなものであった。 ところが、 機関銃というものをロシアはもっている。 ということを乃木軍の高等司令部は後方にあって知識として知りつつも、幕僚がみず から最前線へ出てその威力をその目で見ることを怠った。作戦者というものは敵に新兵 器が出現したばあい、みずから身を挺して前線へゆき、その猛威下でその実態を体験し なければ、作戦は机上のプランになるおそれがある。 旅順口外にうかんでる東郷艦隊の幕僚室では、 なぜ乃木軍は二〇三高地に攻撃の主力をむけてくれないのか。 という、もはや宿願といっていいほどの希望 ( 乃木軍は頑固にそれをこばんだことはす
この時代の高級軍人で、乃木ほどその官歴で「休職」という項の多い人物もまれであ った。かれの軍事思想はすでに古く、参謀本部などの作戦面でかれを使うことができな いうえに、軍政面でもかれに行政能力があるわけではなかったためそのポストを作るこ とができなかった。かれは明治三十四年五月に休職になり、開戦とともに近衛の留守師 団長になった。 やがて大本営が第三軍をつくることになったとき、軍司令官に補せられたのは、ひと そうすい つには長州閥の総帥山県有朋が推薦したからでもあった。ついでながら、第一軍から第 おうりよっこう 四軍、および鵯緑江軍にいたるまでの軍司令官が、第二軍の奥 ( 福岡県出身 ) をのそ くほかぜんぶ薩摩人で、長州人がいなかった。薩長両閥人事のバランスをとるために、 長州人の乃木を入れることは、この当時の人事感覚からみて安定感があったのであろう。 乃木は、近代戦の作戦指導に暗い。しかしその人格はいかにも野戦軍の統率にむいて さんぎよう と、 , っことでは、 いた。軍司令官はその麾下軍隊にとっての鑽仰の対象であれよ、 乃木はそれにふさわしかった。 つうぎようしゃ と、 , っことで、 そのかわり、乃木に配するに近代戦術の通暁者をもってすれよ、 薩摩出身の少将伊地知幸介を参謀長にした。伊地知は多年ドイツの参謀本部に留学して いた人物で、しかも砲兵科出身であった。砲兵科出身の参謀長でなければ要塞攻撃に適 任ではないであろう。ところがこの伊地知が、結局はおそるべき無能と頑固の人物であ
138 ( こんな作戦は、かってない ) と、おもった。もしこれが成功するなら、メッケルによってヨーロッパの近代戦術を まなんだ日本人が、ここにメッケルを越える独創の戦術をうちたてることになる。 とホフマンはみた。 が、成功率は二十。ハーセントもない、 総参謀長児玉源太郎の頭脳にえがかれている遼陽会戦の勝機は、右翼黒木軍の太子河 渡河にかかっていた。 児玉は、気ぜわしい男であった。かれのこの気ぜわしさのために、各軍司令官はよは ど神経をなやまされ、ときには電話で「おれはこどもじゃない」とどなりかえす軍司令 官もあったが、一面、この激戦下で総司令部の意図は、すきまもなく各軍に達せられる とい , っ利占 ~ もあった。 児玉は二十九日、 「いっ太子河を渡るのか」 と、黒木に対し、電報でいってきた。 このときの児玉の質問内容は、戦術上すぐれたものであった。たんに督促ではなく、 児玉自身のこの会戦じたいの大構想がふくまれており、それを黒木に十分理解させよう としていた。 「ということは、貴官 ( 黒木 ) の軍の主力が太子河をわたりおえるときをもって全軍の
108 その内容は、 「第三軍には、砲弾どころかもう小銃弾さえない。 このため大連付近に集積してある大 小の弾をみな第三軍にわたしてしまうつもりである。このため遼陽会戦のため補給すべ き銃砲弾は皆無となってしまった。とくに砲弾はいかに陸軍省とかけあっても毎月六万 発を製造できるだけにすぎない」 というもので、電文の最後に、 「遼陽攻撃ハ、ホトンド目下ノ携行弾ニテ実施セラルルョウ御覚悟ヲ要ス」 と、悲痛を通りこして滑稽というべきほどの実情を告白している。 やがておこなわれるであろう遼陽会戦については、世界が注目していた。日本として は、外債募集やら講和への外交政略やらを考えるとき、日露戦争におけるこの第一回主 カ決戦にどうしても勝たねばならない。 もし負ければ、日本の国際評価が墜ち、どの国 も援助の手をさしのべてくれないにちがいない。 八月三日、この作戦の開始にあたって、大本営は現地軍の最高司令官である大山巌に 「本戦闘をして日露戦争を勝利にみちびくよう指導すべし」 との訓電を発した。 ところが、砲弾の量がきわめて貧弱であるうえに、前線では食糧すら欠乏し、食事を
252 児玉が遼陽の総司令部に帰ってきたのは、十月 , ハ日午前 , ハ時である。 かれはすぐあらゆる状況をあたまに入れたが、二十日の留守は、かれの頭脳の思考リ ズムを中断させてしまっていて、いつものような明敏さがまるでなかった。 翌七日ーーー警報が入ってすでに四日目である。児玉の前で、幕僚大会議がひらかれた。 この会議でも、井口少将と松川大佐の主張が衝突し、両者ゆすらす、いつはてるとも ひょうじよう ない会議になった。敵を前にしてこれほどのまとまりのつかぬ評定がつづけられると いうのは、機敏で鳴った日本軍総司令部としてはかってないことであった。小田原評定 ということばがあるように、戦史上、この種の長評定をやったためしがない。 児玉はなおも、決心がっかなかった。 児玉源太郎は、あるいは旅順の乃木軍を訪ねるべきではなかったかもしれない。かれ はあくまで主力決戦の総参謀長として、つねにそのおるべき位置にあるべきであった。 児玉さんは、旅順に行って頭がばけた。 ということを、参謀の二、三がささやいた。いま敵の大軍が奉天から南下していると , つのこ、、 しつもなら状況の本質を洞察してすばやく打つべき手を考えるこの人物が、 なにごとかにとらわれている。 作戦という頭脳の作業でも、あるいはごく単純な作業でも、人間はリズムでうごいて
1 12 部隊指揮者で終始した。ところが、戦争そのものは好きではなかったらしく、この遼陽 戦の前、陣中から東京の家へ出した手紙に、 お祖母さんの心意気 いくさ 戦などやめて 平和に暮した、 戦は平和の為にせよ と、書いている。好古はまれに漢詩や歌をつくることがあったが、おそろしくへたで あった。これは歌にもなにもなっていないが、この陣中での心境のひとつであったらし さて、かれの上級司令部である奥軍の司令部では、鞍山站の敵陣地を重視し、それが 敵の主陣地であるとみて作戦をたてていた。ところが好古が捜索した結果、主陣地でも しゅざんば なんでもなく、首山堡こそ主陣地だと報告した。奥軍の幕僚は、それを無視した。 その結果、奥軍全体が首山堡ではばまれ、痛烈な敵の抵抗と反撃をうけ、おおいがた い敗色まで示すにいたるのである。 遼陽会戦における秋山好古の騎兵旅団の役割は、日本軍主力の左翼に位置して軍の運
9 黄塵 それでなおロシア軍に勝ちえたのは、むしろ原因はロシア軍側にあった。 元来、クロバトキンは、 め・よう。よう 「遼陽付近に大軍を集結して、北進してくる日本軍を一挙に撃滅する」 という単純で雄大な作戦をたてたが、これに対してロシア本国と本国の意図をうける 極東総督のアレクセーエフが、金州・南山の敗北を重視し、旅順を救うべきことをクロ バトキンに命じたため、目的が二つに割れ、クロ。ハトキンは兵のなかばを割いて南下さ せたのである。南下軍の大将はシタケリベルグ中将で勇猛をもって知られていた。かれ は南下した。 そこへ北進してきた第二軍と得利寺方面で衝突し、シタケリベルグは大いに勇戦し、 日本軍を各地で圧迫しつつも、このときかれがおかした重大な錯覚は、第二軍の兵力を 実質より数倍大きくみたことであった。 結局、かれは退却した。もしかれが正確な敵情をつかみ、あの初動期の南下のいきお いをもってついには第二軍の司令部にまで突入するくらいのいきおいで突進してくれば、 日本軍はささえきれずに大潰乱したに相違なかった。 遼陽の大会戦が、せまっている。 会戦というのはほば予定された戦場において、両軍それぞれができるだけ多くの人数 と火力を集中し、ほば想像のつく期日を期して大衝突をおこない、それによって戦いそ