222 の門下ではなく、陸軍大学校を出ていなかった。この点で、 「陸軍大学校などを出たところで戦さはわからんさ」 とたがいに言いあって、話が合った。 ついでながら陸軍大学校を出ているといったところでたしかに戦さがわかるものでは ない。将領や作戦家といった軍人は才能の世界に属しているもので、画家や彫刻家が一 定の教育をほどこしたところでできあがるものではないという点でおなじであった。 えとく ついでながら秋山真之はその戦術を独習して会得した人物で、かれは海軍大学校の教 官をしはしたものの、大学校の学生であったことはなかった。源義経や豊臣秀吉、ナポ レオンといった天才たちも、一定の教育をうけたわけではない。 ただここでいえることは、海軍のばあい、連合艦隊を構成する艦隊なり戦隊なりの作 戦担当者は、真之が海軍大学校で指導した学生がほとんどだったことである。これは作 戦思想の統一と作戦意図の伝達にきわめて有利であった。 陸軍の場合も、満州軍総参謀長の児玉源太郎が、メッケルの当時学生ではなく大学校 学生同様に受講し、メッケルをして、 の管理職にあったが、 「コダマは偉大である」 といわしめたほどにメッケル戦術を吸収した。 陸軍のばあい、日露戦争はメッケル戦術をもってやろうとしていた。大本営参謀本部 次長の長岡もそうであり、各軍の参謀長や参謀にその門人が多い。自然、作戦思想がよ
1 12 部隊指揮者で終始した。ところが、戦争そのものは好きではなかったらしく、この遼陽 戦の前、陣中から東京の家へ出した手紙に、 お祖母さんの心意気 いくさ 戦などやめて 平和に暮した、 戦は平和の為にせよ と、書いている。好古はまれに漢詩や歌をつくることがあったが、おそろしくへたで あった。これは歌にもなにもなっていないが、この陣中での心境のひとつであったらし さて、かれの上級司令部である奥軍の司令部では、鞍山站の敵陣地を重視し、それが 敵の主陣地であるとみて作戦をたてていた。ところが好古が捜索した結果、主陣地でも しゅざんば なんでもなく、首山堡こそ主陣地だと報告した。奥軍の幕僚は、それを無視した。 その結果、奥軍全体が首山堡ではばまれ、痛烈な敵の抵抗と反撃をうけ、おおいがた い敗色まで示すにいたるのである。 遼陽会戦における秋山好古の騎兵旅団の役割は、日本軍主力の左翼に位置して軍の運
この間の補給上の資料をかれはもっていたからにちがいない。 日本の現地軍は、あせった。 しかし本国の砲弾生産を待ち、一門あたりに一定の砲弾量が貯まってゆくのを待たね ば、大会戦をしようにもできないのである。 日本軍は、その国力の貧弱さのために遼陽からの跳躍力をうしなった。 「とにかく砲弾を貯めることだ」 という一点に、児玉は作戦の重点をしばらざるをえなかった。砲弾を貯めることが作 戦という名にあたいするかどうかは、疑問である。それを作戦の重点にしなければなら ぬほど、日本国家にはこれだけの大戦争を遂行する体力がなかった。 ところが、一方で進行中の旅順攻撃には砲弾は欠かせないのである。満州における日 本軍のつらさは、主力決戦場において砲弾が大欠乏しているだけでなく、旅順において 空前の消耗戦をやりつづけているということであった。 「もっと砲弾をよこせ」 河と、乃木軍の参謀長伊地知は、児玉のもとに火のついたようにいってくる。 「こんなことでは旅順は落ちない」 沙と、伊地知は電文の裏で怒号しているようであった。まったく伊地知のいうことに無 理はない。
292 よう 2 しトうさい 仁平大隊は、この丘陵脈のひとつの楊城寨高地の南麓にある天然の塹壕ともいうべ ちげき き地隙の中に十二日からひそんでいた。地隙といっても千フィートの台上にあり、夜間 の寒気はきびしく、しかもこのころ夜雨がしばしば降り、地隙の底は泥で、この大隊は 十二日朝から十三日午後、この地隙をとびだすまで二昼夜というものはこの泥にひたさ れていた。しかも孤軍といっていいのは、この間弾薬も食糧も補給されていない。二昼 夜、かれらは一睡もせす、一食もとっていなかった。休みもなく敵と死闘をつづけ、そ のあげく全軍が山頂にむかって白兵突撃した。むろん将校以下ほとんどが死傷し、白兵 戦で生き残った百名はどが山頂を占領した。 仁平はこの死の突撃にあたって、かれの千数人の士卒にこう訓示している。 「さきに遼陽戦における九連城の戦いで自分は多くの部下をうしなった。もうこれ以上 殺すにしのびないが、しかし軍の作戦を容易ならしめるためにはこの大隊を犠牲にせね ばならない。私もここで死ぬつもりである。諸子も生きてかえることをおもうな」 仁平は士卒を死地に投ずるにあたって、兵卒にいたるまで戦術上の意義を十分なっと くさせる指揮法をとった。その上でかれらに死の覚悟を乞うた。この大隊の死戦が敵の 大軍を退却させる端緒をつくったという点で、その意義が大きい。 十月八日からはじまった沙河戦は、十三日になっても勝敗のかたちが鮮明でない。 、 ) んが この日、好古の秋山騎兵旅団は相変らず日本軍の最左翼にあり、渾河という河の東岸
だ が好 参枚わ話 つが ら特 好に た し屋 旨」ヒ ア戦 古と ヨや必れ し 語上 ィ知 要ば ま ま で本すを 南 . 士、 意た パ短 も不 日軍る開下的 つが 本にも始運な 怠に 学さ り意 相は き茶よを は がら て談 長にそる じた かはれら な つ双てあ 方し ノ、・千 、ろ 戦力 いか戦た ぎと 陣 の争め配騎で 足い 地幸 期日 将が っか 本目宀 をい て軍 手た じ洋 将の と好 かで ま かカこ古 のは 大そ がや 衝れ るた がは 突を に洋士作陸漬あそ ロ 馬宀 で防 シは あ御 、く のあ大も ア ア乗能げ 学の るせ のるカた校程れと にれ たす 対が 度は のを る騎 そ撃 の質かて 多 のに 激出 の校大動 の たを 出 の全 す戦 血あ つを さ線 を 副い学ど つ図かが か 官る そて た世 。同一 、日寺ロ に と 固てあ オつ 野ずた に あ っ 、吮 の で る 0 ま 日絶動 の つ 、て に運は つがたを戦 予 め 軍 し動会 。しで る 、攻 ロ沙皐 シ河ゕ 0 ま 、典 牙リ つ 、古 つ 注はチ しすめ る と つ た 必 要 も な し の で あ そ / つ し の っ ま っ リ 不 ウ ツ ー大 をれ将る留 何 目 ま た の 敵 。兵 ま か く つ し、 ま 日 は はちま人校 、る 目リ ロ シ の極と 軍 演 め知習速ぬ し の ロ所カ 戸斤 つかに の 、 ~ 西下をは 目 や 4 生 り 度いた 、て見なてめあ地を り き に ツ 路たれ 西 に キ の運を の も 、な戦 か た 日 一本 、下兵あ のそる も は 知でる る 謀がらを中 と キ き し 。サ も れいい入あ あせあたて いと水 のあに で し し の のれナ り軍け 出 も 置ては きや自 、る分 に どや注 っ んがび になオ 、ラ主いが 、た ろ る カゝ で酒ろ いのが は筒ひ 284 の わ し し に つ と
106 という、驚嘆すべき計画をたてた。一日で消費すべき弾量だった。 このおよそ近代戦についての想像力に欠けた計画をたてたのは、陸軍省の砲兵課長で あった。日本人の通弊である専門家畏敬主義もしくは官僚制度のたてまえから、この案 に対し、上司は信頼した。次官もその案に習慣的に判を押し、大臣も同様だった。それ が正式の陸軍省案になり、それを大本営が鵜のみにした。その結果、ばう大な血の量が ながれたが、 官僚制度のふしぎさで、戦後たれひとりそれによる責任をとった者はない。 日本軍は、最初の日露両軍の大会戦である遼陽会戦を、砲弾の欠乏によって容易にお こな , っことができなかった。 他方では、乃木軍 ( 第三軍 ) の旅順攻囲戦がすこしも好転せず、いたずらに砲弾を消 耗している。 「大砲小銃弾を打ちつくした」 という電報が、ひっきりなしに乃木軍から東京の大本営に打たれた。砲弾も小銃弾も なしに戦争をせよというばかばかしさは、どうであろう。 「一門五十発」 という、開戦前の陸軍省の一砲兵課長の立案の失敗が、国家の運命を左右するところ まできていた。 戦争の初期、南山や金州でロシア軍の砲弾の洗礼をあびてから、
引 4 ばしん この師団は、戊辰戦争においていわゆる賊軍側 ( 桑名藩 ) の士官として官軍の将山県 たつみなおぶみ 有朋をさんざんに悩ました中将立見尚文がひきいていた。立見は、天才の野戦指揮官で、 弘前師団だけでなく、立見個人が戦場にあらわれるということだけで大きな戦力である といわれていた。 かれらは大阪から海上輸送され、やがて戦場についたときは遼陽戦はおわっていた。 しかし沙河戦末期にかろうじて参加しえた。沙河戦でこの弘前師団が参加したというの はこの作戦の勝利の要因のひとつになった。児玉は大本営に対し、 「聖断ノ明ニ感激スル所ナリ」 と、異例の電報を打ったほどであった。 ところで、全日本軍のがんのようになっている旅順の乃木軍司令部では、弘前師団が 平野決戦用につかわれたことを不満とし、 「旭川 ( 第七 ) 師団を送られたし」 という要請をしきりにおこなってきた。この旭川師団を出してしまえば、日本内地に は予備隊がゼロになるのである。 とっかん 「旅順にやれば、最初の突貫で師団の大部分はなくなるだろう」 と、大本営ではいわれていた。 しかし九月もすぎ、十月になり、十月末の旅順総攻撃もおびただしい血を流したのみ でむなしく失敗した以上、その兵力補充は当然必要であった。当然どころか、バルチ
130 黒本軍に所属した師団は、つぎのとおりである。 近衛師団 仙台師団 ( 第一一師団 ) 小倉師団 ( 第十一一師団 ) 近衛後備混成旅団 この大軍が行動をおこしたのは、正面攻撃軍である奥、野津の両軍よりも数日早い 黒木軍が担当すべき戦線を、かりに、 「東部戦線」 と名づけよう。 東へまわって遼陽を東から攻める。ところが迂回といっても、途中、多くの敵堡塁を その進路は容易ではなかった。 攻めつぶしてすすまなければならない。 ) 「黒木軍は、戦闘から戦闘へ、やすむ間もないにちがいない。将士の体力がもつだろう 力」 と、児玉のまわりの総軍参謀たちのあいだで心配する者さえあった。大会戦への序幕 が、黒木軍にとってながいのである。おそらく将士は疲労しきってしまうにちがいない。 大会戦というのは、人間に体力の限界がある以上、そうながくやれるものではない。 日本では、関ヶ原合戦が、ざっと五時間であった。これは長時間記録というにちかい
126 あった。 ひとつは、児玉が、 長大な射程をもっ攻城砲一一門を旅順攻囲中の乃木軍から一時借用 してきて奥軍に配属させたことであった。ただ奥軍では使いみちにこまった。 好古がこの砲のあることを知ったのは、首山堡西方の小さな村に進出して、前面の敵 と激烈な射撃戦をくりかえしているときであった。 ついでながらかれはこの村の小さな廟の前にいた。路上である。 彼は司令部をなるべく民家におかす、外光にさらされていることをこのんだ。路上に コーリャンがら 高粱殻を敷き、そのうえに長い脚を組んであぐらをかき、地図をみては作戦をたてた り、報告をきいたり、伝令に命令をさずけたりしていた。しばしば村のなかに砲弾が落 ちたが、顔色も変えなかった。 このとき、村の西北端にあらたな銃声がおこり、敵が逆襲してきたことがわかった。 兵力は三百で、敵の騎兵が、徒歩戦をこころみにきたらしい。コサックであることは、 服装でわかった。 好古は腰もあげず、伝令を歩兵大隊にむかって走らせた。命令の内容は歩兵一個中隊 をもってこれを撃退せよ、というものであったが、言い終わると、 「中屋」 と、副官をよんだ。 「あのなあ」
日本側の黒木は、クロバトキンの半分ほどの軍事知識もなく、その十分の一ほどの西欧 的教養もない。その面では単に一個の薩摩武士であった。 す が、数万の軍隊を統べるだけの人格と、戦いに対する不退転の信念をもっている点で は、クロバトキンははるかにおよばなかった。 「かれは、戦術教科書的な、完ぺきにちかい退却戦をおこなった」 と、クロバトキンは戦後、評された。かれは日本軍の追撃をゆるさず、要所々々の陣 地に部隊をのこし、段階を追って整然とこの大軍を奉天へひきあげさせた。 ちょうだ 「日本軍はむなしく長蛇を逸した」 といわれたのは、このためである。勝利者といわれるわりには日本軍が得た戦利品は おどろくほどすくなかった。 「日本は遼陽で勝ったのではない」 という悪意の報道が、外国従軍記者の手で世界にながされたのは、ひとつにはこのた めであった。 遼陽の攻防戦は、クロ。ハトキンのいうように「狂暴」をきわめた日本の攻撃によって どうやら攻撃側の勝利におわった。 日本軍の死傷は、二万である。ロシア軍もほば同数で、わずかに上まわる。双方がい かにすさまじく死闘したかは、これでもわかるであろう。