戦争 - みる会図書館


検索対象: 坂の上の雲 4
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1. 坂の上の雲 4

である奇襲という手をおこないにくい戦場地形のなかで、二倍の敵と正面きって会戦し、 ひらお しかも平押しに押しぬいてついに勝ったという点で、世界戦史にもまれな戦例であった。 悪戦苦闘ののち日本軍は、その記録をつくった。 十月八日からはじまった戦闘は、あとでふりかえってみれば十三日で峠をこしている。 ・もっと、も、 「峠を越した」 という実感が日本軍にはおこらなかったほどにロシア軍の応酬はこの日もはげしかっ た。げんに峠をとっくにすぎた十六日に日本軍の突出陣地の一部がロシア軍に痛撃され、 大敗退している。ロシア戦史に、 「万宝山の理想的戦勝」 と書かれているのがそれであった。この万宝山に進出していたのは山田保永という少 将を長とする支隊で、兵力は歩兵二個連隊に野砲二個中隊、山砲一個大隊という戦闘単 位としてはごく小さいものであった。 それが、日露戦争を通じて日本軍が演じたもっともぶざまな敗退を遂げた。たとえば 河砲兵が逃げるとき、かならず砲を曳いて逃げるのが常例であり、もしその余裕がなければ ところ 敵に捕られても使いものにならぬよう閉鎖機をはずして置きすてねばならない。 沙がこの場合、十数門の砲をそのままにして逃げた。この戦役を通じて唯一の例になった。 しかもこの戦闘に参加した幹部は、山田少将をはじめ、二人の連隊長とも評判の勇将 ひ

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392 兵隊というものは、ともすれば逃げるものだ。 という頭が、中村の記憶から去らない。西南戦後、二十数年の訓練の結果、日本兵は かん 往年の薩摩士族兵以上の強さになり、しかもこの間、その精強の度合を日清戦争でテス トしたが、 中村はこの日清戦争には従軍していない。かれにとって弾雨のなかに入った のは、西南戦争いらいのことであった。 中村は、歩兵第二旅団をひきいて出征するにあたり、青山練兵場で旅団の軍装検査を おこなったあと、訓示している。 「退却の文字は、本戦役間、これを抹殺すべし」 というものであった。中村の声は陸軍でも有名なほどに美声で、練兵場のすみずみまで きこえると誇張されたほどのものであった。かれはことさらに「退却の文字を抹殺すべ し」といったのは、西南戦争に従軍した若いころのにがい思い出があったからであろう。 この中村少将に率いられた「退却なし」という三千百余人白襷隊が、旅順要塞の砲火 を浴び、一挙に千五百人が血けむりをあげて死傷するにいたる。 この不幸な白襷隊戦法の着想ほど、乃木軍司令部の作戦能力の貧困さをあらわしたも のはなかった。 戦術上、これを突撃縦隊という。本来、突撃縦隊は奇襲のために用いられるべきもの からめて で、敵の搦手を不意に突くという用兵のために存在する。ところが乃木軍司令部は、こ

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246 るにすぎず、戦場に送りうるのは、いそぎ召集した予備役の連中であった。 兵は老兵であり、将校、下士官の質も低下し、もはや遼陽での日本軍のつよさは望め しかもこれらの補充兵員にわたすべき小銃がなかった。やむなく日清戦争でつかった ろかく 村田式連発銃や鹵獲したロシア銃をわたしたが、鹵獲銃では日本の小銃弾がっかえず、 この補給には特別の配慮をしなければならなかった。 もはや日本軍の戦力は尽きた。 という実感が、兵卒にいたるまで肌身に感じられてきた。 「貧は、前線の士気にかかわる」 けせんぬま とおもったのは、首相の桂太郎であった。かれはたまたま仙台の北の気仙沼で含金率 六〇バーセントという金山が発見されたというはなしをきき、むろんまゆっぱだと思い つつ、 満州の総司令部へそう伝えてやれ。 と、命じた。 「これで帝国の軍費は大丈夫だ」 ということを前線に流すことによって士卒の士気をあおろうとした。いかにも貧乏国 らしい政略であった。その夢の金山は、採掘量四十億円であるという。もしそれが本当 なら、日露戦争の軍費をまかなってあまりあり、士卒は豊かな気持で戦い、後顧のうれ ひん

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238 「そのとおりだ」 と、 いっただけであった。井口の意見のとおりなのである。日本国としては早く戦争 をおわらさねば、国力が底をつく。もう遼陽の段階で底がみえてきているのである。早 く敵主力を殱滅し、講和へもってゆかねば、日本はほろびざるをえない。 日本は戦時財政でほろびる。 というのは、各国の定説のようになっていたが、日本国の指導者たち自身がそのこと を骨身の細る思いで知っていた。児玉源太郎は天才的な作戦家であるとともにすでに内 務大臣もやり、戦場において台湾総督をも兼務している政略家であり、かれの頭脳と意 識は一介の軍人のそれでなく、国家そのものであった。かれは日本国がどの程度の財カ をもち、どの程度の砲弾製造力をもっているかを、正確に知っていた。そういう絶対条件 を知りぬいた上で、児玉は現地での作戦を考え、すすめている。かれが戦後ほどなく、折 たお れるように斃れたのも、この戦争での辛労の結果であるのはまぎれもないことであった。 大山と児玉は、遼陽を奪ったときに、尻餅をつくようにして軍をとどめてしまった。 ーー・砲弾の蓄積を待つ。 というのが、おもな理由である。本国からほそばそと砲弾が送られてくるのを、じっ と貯めこんでゆくのである。水道の故障で糸のようにしか出て来ない水を、大樽に貯め こもうとするようなもので、この不安と焦燥のなかでの忍耐ほど悲惨なものはなかった。 。し力にも大口シア帝 ロシアのヒルコフ公爵がやったシベリア鉄道による大補給作戦ま、ゝ

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「いや、べつに」 「まだ乃木は動いちゃおらんのだろう」 、動いておりません」 と、松川は答えると、児玉はなにがおかしいのか、あっはははと笑った。児玉は乃木 とはおなじ長州人であるだけでなく、西南戦争の熊本籠城戦いらいの戦友であり、古な じみの児玉の想像のなかでは乃木という人物はなんとなく脱けたような、愛嬌のあるも のに映っているらしい。乃木はきまじめだが、有能な司令官ではなかった。 「あすにでも、総司令部全員が乃木のところへ行って攻撃をいそがせるように打ちあわ せしょ , つ」 と、児玉は松川にそのことについて言いふくめ、階上へ去った。 乃木は、児玉らがくるひと月前に現地についたが、べつに遊んでいたわけではなかっ た。要塞攻撃にともなう足場づくりといったふうな予備的な作戦をやり、とくに大連上 つるぎざん 陸早々、大連の西方に隆起する剣山を攻撃し、その堡塁を抜いた。 剣山の攻撃にあたったのは、歩兵第四十三連隊 ( 善通寺 ) であった。 , ハ月二十 , ハ日十 分な砲兵の援護のもとに攻撃し、激闘五時間で占領した。この山をまもっていたのはロ ハチンという大尉で、日本軍の半分の兵力でよくささえ、かれ自身、陣地から陣地へ駈 黄けまわって部下を督励し、その兵力の四分の三を失うまで戦った。ロバチンはこの戦争 を通じロシア軍でもっとも勇敢だったと思われる戦闘指揮者であったが、大尉が旅順へ

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「総軍」 と、ふつうよばれている全満州軍の司令部でも、目前のロシア軍と対峙しながら、旅 順の戦況が不安のたねになっていた。 第一、くわしい戦況が入らない。乃木軍司令部の奇妙さは、戦史上類がないといって 、いほどの無能頑迷な作戦を遂行しながら、しかもその戦況報告すらろくによこさぬこ とであった。大山巌を長とする満州軍総司令部は、乃木軍にとって上級司令部でありな がら、乃木軍は粗末簡単な報告しかよこさない。 「いったい、どうなっているのか」 と、総軍の参謀たちは、みな腹をたてていた。無能無策というものは、ろくな作戦を たてられないだけでなく、報告書も書けないのだ、報告というのは、報告するにあたい する戦いを創造しているばあいにのみ書けるわけで、ただ平押しに兵を殺しているだけ の連中に書けるはずがない、 という者もあった。 すべては伊地知幸介の能力と性格の欠陥にある、と児玉源太郎はおもっていたが、か れは他の参謀のように、その戦役中それをひとことも口に出したことはなかった。 ( 乃木が、可哀そうだ ) と、児玉はおもっている。児玉と乃木はおなじ長州人で、おなじく維新後陸軍に籍を 置き、明治十年の西南ノ役では、双方、若い少佐として熊本で西郷軍と戦った。児玉は たにたてき 熊本城内にあって守将谷干城のもとで参謀をつとめ、乃木は野戦でこの国の初期の徴兵 たいじ

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に戦場馴れした者でも、慄えあがらざるをえなかった」 ステッセルは、防戦にかけては驚嘆すべき粘着力をもっスラヴ人であった。あるきわ ほうるい めて危険な前線堡塁にいる一中佐が、日本軍の猛攻に堪えかねて部隊を退却させようと カステッセルの返答は、かれが他の場合に し、騎令をステッセルのもとに走らせた。。 : いったこととおなじだった。 しかし死ぬことはできるはず 「貴官はその堡塁を守ることはできないかもしれない。 このステッセルの意志にその中佐は従い、かれの部隊は一兵残らす戦死した。ステッ セルはそのあとへ他の部隊を補充した。一塁も乃木軍にわたさないつもりであった。 そのように、中尉ラジウィール公爵は、外国記者に語っている。同公爵はロシア人の 勇敢さを宣伝するつもりでなく、この戦争の悲惨さを語りたかったようであった。 十一月に入ると、戦況は乃木軍にとっていよいよ悪化した。 乃木軍司令部は相変らず、 撃「二〇三高地を攻撃の主目標にしてはしい」 総という海軍の原案を拒否しつづけていたが、しかし東京の大本営の希望があまりにや 旅かましいため、九月十九日、第一師団 ( 東京 ) をうごかし、わずかの兵力をもってこれ を申しわけ程度につつき、その固さを知って退却した。乃木軍に軍略能力があるなら、

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256 余談をすこしのべたい。 ロシア軍は、敵よりも二倍ないし二倍半の兵力・火力を持つにいたらなければ攻勢に 出ないという作戦習性をもっている。これはロシア軍が臆病であるからではない。 敵よりも大いなる兵力を集結して敵を圧倒撃滅するというのは、古今東西を通じ常勝 将軍といわれる者が確立し実行してきた鉄則であった。日本の織田信長も、わかいころ おけはざま すごみ の桶狭間の奇襲の場合は例外とし、その後はすべて右の方法である。信長の凄味はそう いうことであろう。かれはその生涯における最初のスタートを「寡をもって衆を制す る」式の奇襲戦法で切ったくせに、その後一度も自分のその成功を自己模倣しなかった ことである。桶狭間奇襲は、百に一つの成功例であるということを、たれよりも実施者 の信長自身が知っていたところに、信長という男の偉大さがあった。 日本軍は、日露戦争の段階では、せつばつまって立ちあがった桶狭間的状況の戦いで あり、児玉の苦心もそこにあり、つねに寡をもって衆をやぶることに腐心した。 が、その後の日本陸軍の歴代首脳がいかに無能であったかということは、この日露戦 争という全体が「桶狭間」的宿命にあった戦いで勝利を得たことを先例としてしまった ことである。陸軍の崩壊まで日本陸軍は桶狭間式で終始した。 すこし余談をつづけたい。 陸戦における日露戦争は、全体として桶狭間的状況と宿命と要素に満ちているという

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柄が一般に好きであったということにもよる。さらにいえば、平素、あまり薩摩弁をつ かわない大迫が、ここでわざわざそれをつかったのは、自分と自分の師団の前途を待ち うけている運命について、帝に気づかわせたくなかったのにちがいない。 この場に、岡沢侍従武官長がいた。岡沢はあとで、 「開戦以来、お上があれはど大声でお笑いになったことがない」 と、述懐しこ。 大迫は、自分を悲劇化することを好まない男であった。かれはこの戦争に弟も従軍し ているし、息子の大迫三次中尉も従軍していた。三次中尉は、戦死した。乃木希典とお なじ悲劇の人でありながら、人柄に明暗の差があった。乃木はこの戦争のあと、「づ われ かんばせ 我何の顔あってか父老を看ん」と、部下を多く死なせたことを悲む有名な詩をつくっ たず たが、大迫もよく似た短歌をつくった。「携さへし花 ( 兵士たち ) は嵐に誘はれてたも いえづと とに残る家土産もなし」と詠んでいる。 ひめん 乃木希典とその幕僚を罷免し、第三軍司令部を一新せよ。 撃という議論は東京の大本営にあって根づよく論じられつづけたが、この時期になって 総たれもそれを一言う者がなくなった。というのは、あるとき、山県有朋が参内し、旅順の 戦況について報告したとき、帝が、 「乃木を罷免させてはならない」 かみ

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七千メートル前後であったから、もはや東郷にとって絶望にちかい距離であった。 東郷は、追跡した。 ( ここで逃がしてしまえば、日露戦争そのものが大混乱期に入らざるをえない ) という焦燥が、どの幕僚にもあった。敵艦隊はウラジオストックに入る。そこを基地 に日本近海を荒しまわれば陸軍の輸送ルートはずたずたになり、自然海軍は陸軍の輸送 につきっきりにならざるをえず、人も艦も疲労に疲労をかさねることになり、しかも敵 の本国艦隊がきたときは、二倍の敵と戦わねばならないのである。たしかに日露戦争の 勝敗のわかれ目はこの黄海の追跡戦にかかっていた。 「艦隊の戦術運動のために三分遅れた」 と、戦後、秋山真之が書いている。 「そのために追っつくまで三時間かかった」 真之はそういう。真之自身の文章でいえば、「この三分の遅刻が、爾後の追及に貴重 なる三時間を空費し」ということになる。「貴重なる」というのは日没との追っかけっ こであるという意味である。 なぜ三分遅れたかについては、この実戦に参加したひとびとでさえ意見はまちまちで、 のちの中将山路一善などは、現場で東郷の主力艦艇 ( 第一戦隊 ) の行動をみたとき、一瞬、 黄「第一戦隊もまた敵の後尾にまわるのだ、そうして敵の旅順に引き返すことを断念せし めるのだ、そうにちがいない、とおもいました」