である奇襲という手をおこないにくい戦場地形のなかで、二倍の敵と正面きって会戦し、 ひらお しかも平押しに押しぬいてついに勝ったという点で、世界戦史にもまれな戦例であった。 悪戦苦闘ののち日本軍は、その記録をつくった。 十月八日からはじまった戦闘は、あとでふりかえってみれば十三日で峠をこしている。 ・もっと、も、 「峠を越した」 という実感が日本軍にはおこらなかったほどにロシア軍の応酬はこの日もはげしかっ た。げんに峠をとっくにすぎた十六日に日本軍の突出陣地の一部がロシア軍に痛撃され、 大敗退している。ロシア戦史に、 「万宝山の理想的戦勝」 と書かれているのがそれであった。この万宝山に進出していたのは山田保永という少 将を長とする支隊で、兵力は歩兵二個連隊に野砲二個中隊、山砲一個大隊という戦闘単 位としてはごく小さいものであった。 それが、日露戦争を通じて日本軍が演じたもっともぶざまな敗退を遂げた。たとえば 河砲兵が逃げるとき、かならず砲を曳いて逃げるのが常例であり、もしその余裕がなければ ところ 敵に捕られても使いものにならぬよう閉鎖機をはずして置きすてねばならない。 沙がこの場合、十数門の砲をそのままにして逃げた。この戦役を通じて唯一の例になった。 しかもこの戦闘に参加した幹部は、山田少将をはじめ、二人の連隊長とも評判の勇将 ひ
「いや、べつに」 「まだ乃木は動いちゃおらんのだろう」 、動いておりません」 と、松川は答えると、児玉はなにがおかしいのか、あっはははと笑った。児玉は乃木 とはおなじ長州人であるだけでなく、西南戦争の熊本籠城戦いらいの戦友であり、古な じみの児玉の想像のなかでは乃木という人物はなんとなく脱けたような、愛嬌のあるも のに映っているらしい。乃木はきまじめだが、有能な司令官ではなかった。 「あすにでも、総司令部全員が乃木のところへ行って攻撃をいそがせるように打ちあわ せしょ , つ」 と、児玉は松川にそのことについて言いふくめ、階上へ去った。 乃木は、児玉らがくるひと月前に現地についたが、べつに遊んでいたわけではなかっ た。要塞攻撃にともなう足場づくりといったふうな予備的な作戦をやり、とくに大連上 つるぎざん 陸早々、大連の西方に隆起する剣山を攻撃し、その堡塁を抜いた。 剣山の攻撃にあたったのは、歩兵第四十三連隊 ( 善通寺 ) であった。 , ハ月二十 , ハ日十 分な砲兵の援護のもとに攻撃し、激闘五時間で占領した。この山をまもっていたのはロ ハチンという大尉で、日本軍の半分の兵力でよくささえ、かれ自身、陣地から陣地へ駈 黄けまわって部下を督励し、その兵力の四分の三を失うまで戦った。ロバチンはこの戦争 を通じロシア軍でもっとも勇敢だったと思われる戦闘指揮者であったが、大尉が旅順へ
た戦艦というものは砲弾ぐらいでは容易に沈まない。 当然、敵のほうも照準を三笠につけた。三笠が受けた被害のすさまじさは、言語に絶 さくれつ した。艦内は間断なく敵弾が炸裂し、とくに敵の十二インチの巨弾が、三笠の後部シェ たいしよう ルターデッキに命中して多数の兵員をたおしただけでなく、大檣に大穴をあけた。こ おの のためマストのまわり三分の二がはじけて穴になり、キコリの斧が入った大木のように いまにも倒れそうであった。 「速度を出しすぎると倒れるかもしれません」 と、艦橋に報告があった。 このため、三笠はこの期におよんで高速を出すことをひかえねばならず、このためふ たたび敵にせまって第二回戦を演ずるチャンスが遅くなった。 この東郷の丁字戦法によるすさまじい攻撃を、ウイトゲフトはきらいはじめた。かれ は戦闘よりも遁走の方針にもどった。このウイトゲフトの弱気が、かれ自身をのちに不 幸にするのだが、もしウイトゲフトがこのとき東郷に対して戦いきる覚悟で行動したと すれば、別な運命がひらけたはずであった。実際、東郷はこの戦争を通じ、このときは ど苦戦をしたことがなかった。 ウイトゲフトは、踏みこんでくる東郷からのがれるべく旗艦の針路を左転させた。 艦隊運動のへたなロシア海軍にとって、こういう戦闘中の陣形変化ほど各艦を混乱さ
「総軍」 と、ふつうよばれている全満州軍の司令部でも、目前のロシア軍と対峙しながら、旅 順の戦況が不安のたねになっていた。 第一、くわしい戦況が入らない。乃木軍司令部の奇妙さは、戦史上類がないといって 、いほどの無能頑迷な作戦を遂行しながら、しかもその戦況報告すらろくによこさぬこ とであった。大山巌を長とする満州軍総司令部は、乃木軍にとって上級司令部でありな がら、乃木軍は粗末簡単な報告しかよこさない。 「いったい、どうなっているのか」 と、総軍の参謀たちは、みな腹をたてていた。無能無策というものは、ろくな作戦を たてられないだけでなく、報告書も書けないのだ、報告というのは、報告するにあたい する戦いを創造しているばあいにのみ書けるわけで、ただ平押しに兵を殺しているだけ の連中に書けるはずがない、 という者もあった。 すべては伊地知幸介の能力と性格の欠陥にある、と児玉源太郎はおもっていたが、か れは他の参謀のように、その戦役中それをひとことも口に出したことはなかった。 ( 乃木が、可哀そうだ ) と、児玉はおもっている。児玉と乃木はおなじ長州人で、おなじく維新後陸軍に籍を 置き、明治十年の西南ノ役では、双方、若い少佐として熊本で西郷軍と戦った。児玉は たにたてき 熊本城内にあって守将谷干城のもとで参謀をつとめ、乃木は野戦でこの国の初期の徴兵 たいじ
わきあげさせながら、こげ茶色の煙と炎をともなってあがる光景は、異様というほかな つ ) 0 日本の砲弾は、日清戦争の経験により、まず敵艦を沈めるよりもその戦闘力をうばう ことに主眼がおかれているという、世界の海軍常識からいえばふしぎなものであった。 ふつう常識では徹甲弾を用いる。ロシア側もそれを用いている。この砲弾は艦に穴をあ け、艦体をつらぬいてなかで爆発するのだが、日本の砲弾は装甲帯をつらぬかぬかわり に艦上で炸裂し、その下瀬火薬によってそのあたりの艦上構造物を根こそぎに吹っ飛ば すのみか、かならず火災をおこしてしまう。艦が猛火につつまれると、大砲がもはや操 作できない。敵艦を沈めるよりもその戦闘力をうばうというのが、日清戦争において巨 艦の定遠、鎮遠を相手に戦って以来の日本方式なのである。敵にとって残酷なこの火薬 が、兵力のすくない日本海軍にとって、物理力としては唯一の頼りであった。 戦艦六隻を擁するロシア艦隊は、この時間内ではこの火薬に追いまわされたといって 司令長官ウイトゲフトは戦闘が自軍に不利にかたむきつつあるのをみて、足の早い巡 洋艦たちをこの地獄から解放してやろうとおもい 「巡洋艦は南方へのがれよ」 と、信号をかかげた。これが、かれにとって最後の命令になった。
という極端な表現をとっている。ロシアについては、この戦争は本国から遠い強奪植 民地においておこなわれているものであったが、日本国にあっては国家の存亡がこの最 初の主力戦の勝敗にかかっていた。全軍が「狂暴」にならざるをえなかったであろう。 あんざんたん クロバトキン報告によると、日露両軍の戦闘のすさまじさを、鞍山站方面でのロシア 軍の死傷千五百人のうちのほとんどが、銃剣、軍刀によるものであった、という例で、 それを本国にわからせようとしている。 「戦線のいたるところで短兵接戦の様相があり、攻撃側は必死である」 と、か、れはい , つ。 日本の奥軍や野津軍に対する戦闘として、クロバトキンは誇らしくこう報告している。 「八月三十一日午後八時、激烈なる戦闘はじまり、夜半にいたって終了した。戦闘はわ が軍の全勝に帰した」 このことは、事実である。クロバトキンは、たしかに全勝した。その全勝を得た戦闘 のすさまじさについて、クロバトキンは、その部下コンドラトウィッチ少将麾下の猛烈 な戦いを例にあげている。 陽「日本軍は、無数の砲弾を発射してきたが、わが軍はよく守り、陣地を死守した。わが 前方砲台の一部はいったん敵の手におちたが、しかしわが軍は銃剣突撃を何度もくりか 遼えしてこれを回復した。日本軍は、毎回の白兵戦のあと、多数の死者を遺棄して退却し コーリャンばたけ た。その日本兵の死体を始末するために高粱畑のなかに大きな穴をいくつも掘ったが、
この戦闘中、袁から陣中見舞として酒が贈られてきた。 らひどく信頼されたが、 ブドウ酒、シャンバン、ウイスキー、プランデーといったものをとりあわせ、四ダー スもあった。安いシナ酒ばかりをのんでいた好古にはなによりの贈りものであったが、 しかし戦場にあって部下を統率している場合、このたぐいのものを独占できるような神 経をもった指揮官は、この当時たれもいなかった。好古はそれらのほんのすこしを残し てみな部下にわけてしまった。 こっこうだい 好古の支隊は主力をもって黒溝台に進出し、たえず捜索隊を北方に出していたが、十 一日ごろから激戦期に入った。支隊はたえず優勢な敵に圧迫され、ときに敵の得意の騎 兵団が嵐のようにやってきては支隊を潰そうとした。好古の戦術はこの嵐に堪えられる だけ堪えて、それが吹きすぎたあと、尺取り虫のようにしてつぎの拠点にうつるという 式であった。 嵐に堪える方法は、騎兵たちに騎兵であることをやめさせるのである。馬を後方へや り陣地を築いて射撃戦をする。その戦闘を、協同兵種である歩兵と砲兵、エ兵がたすけ るという方式で、いわば陣地前進主義であった。 河「これでなければ、敵の優勢な騎兵には勝てない」 と、好古は考えていた。敵は人馬ともに大きく、とても一対一では日本騎兵は勝てな ながしの 沙いのである。この好古がやった戦法は、天正三年のむかし織田信長が長篠合戦において 武田の騎馬隊に対しとった戦法であり、さらに陣地前進主義という点では、好古の必要
392 兵隊というものは、ともすれば逃げるものだ。 という頭が、中村の記憶から去らない。西南戦後、二十数年の訓練の結果、日本兵は かん 往年の薩摩士族兵以上の強さになり、しかもこの間、その精強の度合を日清戦争でテス トしたが、 中村はこの日清戦争には従軍していない。かれにとって弾雨のなかに入った のは、西南戦争いらいのことであった。 中村は、歩兵第二旅団をひきいて出征するにあたり、青山練兵場で旅団の軍装検査を おこなったあと、訓示している。 「退却の文字は、本戦役間、これを抹殺すべし」 というものであった。中村の声は陸軍でも有名なほどに美声で、練兵場のすみずみまで きこえると誇張されたほどのものであった。かれはことさらに「退却の文字を抹殺すべ し」といったのは、西南戦争に従軍した若いころのにがい思い出があったからであろう。 この中村少将に率いられた「退却なし」という三千百余人白襷隊が、旅順要塞の砲火 を浴び、一挙に千五百人が血けむりをあげて死傷するにいたる。 この不幸な白襷隊戦法の着想ほど、乃木軍司令部の作戦能力の貧困さをあらわしたも のはなかった。 戦術上、これを突撃縦隊という。本来、突撃縦隊は奇襲のために用いられるべきもの からめて で、敵の搦手を不意に突くという用兵のために存在する。ところが乃木軍司令部は、こ
246 るにすぎず、戦場に送りうるのは、いそぎ召集した予備役の連中であった。 兵は老兵であり、将校、下士官の質も低下し、もはや遼陽での日本軍のつよさは望め しかもこれらの補充兵員にわたすべき小銃がなかった。やむなく日清戦争でつかった ろかく 村田式連発銃や鹵獲したロシア銃をわたしたが、鹵獲銃では日本の小銃弾がっかえず、 この補給には特別の配慮をしなければならなかった。 もはや日本軍の戦力は尽きた。 という実感が、兵卒にいたるまで肌身に感じられてきた。 「貧は、前線の士気にかかわる」 けせんぬま とおもったのは、首相の桂太郎であった。かれはたまたま仙台の北の気仙沼で含金率 六〇バーセントという金山が発見されたというはなしをきき、むろんまゆっぱだと思い つつ、 満州の総司令部へそう伝えてやれ。 と、命じた。 「これで帝国の軍費は大丈夫だ」 ということを前線に流すことによって士卒の士気をあおろうとした。いかにも貧乏国 らしい政略であった。その夢の金山は、採掘量四十億円であるという。もしそれが本当 なら、日露戦争の軍費をまかなってあまりあり、士卒は豊かな気持で戦い、後顧のうれ ひん
258 当時、ソ連はソ満国境において紛争をおこそうという意図があり、計画的にこの事件 をおこした。関東軍はすでに察知していたが、事変がおこってからもなおソ連軍の実力 を軽視し、その補給能力を過小視した。 補給能力を過小視した理由はこの戦場は鉄道から二百キロ以上も離れているというこ とで、小さな兵力しかソ連軍は集結できまいと関東軍は考えた。うそのようなはなしで あるが、関東軍参謀の想像力の貧困さは、ソ連軍がトラックというもので輸送するとい うことを想像できなかったのである。当時日本陸軍は鉄道以外の輸送は人馬によってお こなうということがたてまえで、自動車というものを軍用につかうという智恵があまり へいたん ゆきわたっていなかった。自分の兵站のやりかたで、敵の兵站のぐあいを想像して敵の 兵力を計算したのである。ところがソ連は自動車をふんだんにつかって輸送し、補給した。 日本軍はこの戦争で、敵に倍するほどの兵力を投入した。ところがその歩兵装備は、 日露戦争のころにくらべてさほど進歩しておらず、一方ソ連軍は日露戦争のころにくら べると軍隊そのもののたてかたまで一変させていた。歩兵を軍の主力にするというのが 一般の常識だったのに、戦車を主とする軍隊をつくりあげており、歩兵はそれに協同す るだけであった。その上、砲兵力を飛躍的に向上させ、強力な火力構成によって戦闘を すすめるやりかたに変えてしまっていた。これにひきかえ日本陸軍の秀才たちは政治が 好きで、精神力を讃美することで軍隊が成立すると信じていたため、日本陸軍の装備は 日露戦争の延長線上にあったにすぎず、その結果は明瞭であった。死傷率七三バーセン