退却といっても、ロシア軍はわすかに北を日本軍に譲ったにすぎない。かれらがなお 世界最強の陸軍である名誉を保持したのは、沙河をわたって逃げず、その南岸でとどま そんし っていることであった。孫子のいう背水の陣であり、よほどの自信がないかぎり、こう いう布陣はできない。 それにしてもロシア軍を沙河まで追いつめた十三日の日本軍の総前進というのはすさ まじいものであった。この夜、全日本軍はねむっていない。不眠の攻撃をつづけた。 「日本軍の連続せる夜襲が、われわれを疲れさせた」 と、ロシア軍の記録にある。一回きりの夜襲ではなく、夜襲に次ぐ夜襲をもってした。 秋山好古の所属する奥軍は、この十三日夜大いに前進した。むろん一兵にいたるまで ねむっていない。 ロシア軍も、不眠の状態に置かれた。当然こういう場合、その翌朝の攻撃はゆるむも のであったが、日本軍のおかしさは、その翌十四日も早暁からひきつづき猛攻をつづけ たことである。 河「日本軍には豊富な予備軍がある」 てっしようぜんしん と、当然ながらクロバトキンは判断した。軍隊の常識として徹宵前進をつづけた場 沙合、その翌日の攻撃は新手の部隊が入れかわるはずであった。日本軍はその豊富な予備 軍を投入して前線の疲労兵と交代させている、とクロバトキンが考えたのもむりはない。
ることもできなかった。 えんだい この時期、大山・児玉の総司令部は、遼陽からさらに北へすすんで煙台におかれていた。 北方にクロバトキンの大野戦軍がいるが、たがいに睨みあったまま、双方ともはなば なしい戦闘を開始する意欲はなさそうであった。 ここ数日、児玉源太郎は、ロをひらけば、 「旅順は」 と言い、それ以外のことを言わない。満州における全日本軍の安危は、旅順の乃木軍 がにぎっているような形勢になってきた。事実、旅順攻略の乃木軍の様子がこれ以上悪 化すれば、日本の陸海軍作戦は総くすれになり、日本国そのものがほろびるであろう。 日本の存亡のかぎが、もっとも愚劣でもっとも頑迷な二人の頭脳ににぎられているとい うのが、この状況下での実情であった。 「うかうかすると、乃木はグルーシー将軍になる」 と、児玉はつぶやいたことがある。ナポレオンがウォーターローで、ウエリントンの 撃率いる英普連合軍と戦ったとき、グルーシー将軍に別働軍を指揮させ、敵の一翼である 総プロシャ軍を探させた。グルーシーをしてプロシャ軍を撃たしめるつもりであった。 旅グルーシーは愚直という以外に取り柄のない将軍で、かれの性格どおりの作戦を演じ 眄た。ナポレオンから命ぜられたプロシャ軍が、どこにいるのかわからず、行軍に行軍を にら
は、第一駆逐隊の朝潮と霞で、夜陰港内を偵察したところ、ロシア駆逐艦がいることを 知った。 うさみ 日本側はこれに降伏を勧告すべく、朝潮乗組の中尉寺島宇瑳美に通訳を一人と下士卒 十人をつけて短艇でむかわせた。 寺島はレシーテリヌイの艦上にのばり、コルニリエフ大尉と甲板上で交渉した。 コルニリエフはすでにのがれがたいことを知り、ひそかに部下に命じ、自爆の用意を させ、さらに寺島と話した。コルニリエフは時間かせぎのために要領のえぬ応対をくり かえして、ついに一時間になった。業をにやした寺島はこの艦を捕獲しようとし、部下 の機関兵曹長坂本常次をかえりみたとき、コルニリエフはそれを知り、いきなり寺島に とびかかってその顔を打った。寺島はその腕をとって投げとばそうとしたが、コルニリ わざ エフが巨体なため容易に技がかからない。寺島はこの大男と甲板上でたたかうことの不 利をさとり、とっさにコルニリエフを抱いたまま海中へ落ちた。ところが水中で二人は 離れてしまった。寺島はふたたび艦へのばろうとした。 艦上では、日露人の大乱闘がはじまっていた。ロシア水兵たちは、坂本兵曹長にとび ついてこれを海へつきおとした。双方、最初は素手のたたかいだったが、次第に銃器を とっての戦いになり、日本水兵は少数ながらよく戦った。死者一、負傷者は十一人全員 である。ロシア側は総員五十一人のうち三十余人が死傷した。寺島中尉が甲板上によじ のばったとき、艦体がふるえ、前部に爆発がおこった。ロシア兵は爆発をおそれてみな ′」う
る方面で活漫であった。クロバトキンとしては日本軍のどの部分かをぶちゃぶればよか った。ぶちゃぶったそのすきまから一挙に日本軍の後方に出、大山の総司令部をひっく ク りかえすという貫徹度の高い目的意識をかれの作戦はもっている。そのことじたい、 ロバトキンが開戦いらいはじめて持ったものであった。 しかもかれはゆたかな補給をもち、砲弾を惜しみなくつかった。日本軍の野砲や山砲 が一発うっと、ロシア軍は十数発をうちかえしてくるというぐあいであった。 「ロシア軍の全戦線にわたっての活漫さは、驚嘆すべきものがある」 と、ロシア側についている従軍記者は報道した。 それにロシア軍は、すでに数次にわたる日本軍との戦いで、日本軍の習性がわかって きた。まず、日本軍の得意芸である夜襲であった。これには最初はおどろき、すぐ退却 したりすることもあったが、この沙河戦の段階になると、ロシア軍のほうから夜襲を仕 掛けてくることもしばしばで、さらには日本軍の夜襲を警戒するために夜間も砲の射撃 をつづけた。 はくへいせん 次いで、日本軍が得意とする白兵戦にもロシア軍は馴れてきた。最初は、この日本軍 河の抜刀と銃剣による突撃にはロシア軍もおどろいたようであったが、沙河戦では陣地に 殺到する日本軍をむかえて、ロシア兵は果敢に戦った。逆に日本軍陣地に白兵突撃をし 沙てくることもある。 とにかく、ロシア軍の兵力は、日本軍に対して二倍以上ある。日本軍はいたるところ
はロシアを支援していたが、メッケルだけは個人として日本を応援し、開戦のときも、 「日本バンザイ、メッケル」 という電報を山県有朋に打った。さらに陸軍省詰めの新聞記者たちにも、 「日本の勝ちだよ」 と、終始その勝利をうたがわなかったが、あるときかれは訪ねてきた新聞記者に、 「日本には児玉がいる。かれが存在するかぎり日本陸軍の勝利はまちがいない」 といったりした。ドイツ陸軍きっての天才的作戦家といわれたメッケルの目にも、児 玉のふしぎな頭のはたらきが天才としか映らなかったのであろう。 さらに余談ながらメッケルは、日本陸軍についてこの時期、こう語っている。 おうせい 「ドイツやフランスの将校も研究心が旺盛であるが、しかし日本の将校にくらべればと てもくらべものにならない。日本将校は自分の軍事的知識の発達については驚嘆すべき 努力家である。さらにかれら日本軍の特性はすこしも死をおそれないことで、これは戦 勝の第一要素とすべきであろう」 とう 大山と児玉をのせた安芸丸は大連湾をめざしていたが、途中裏長山列島の根拠地に投 錨している連合艦隊をたずね、旗艦三笠で東郷平八郎と会った。協同作戦についてう ちあわせるためであった。 さねゆき 黄このとき、真之も東郷側の幕僚として同席した。席上、児玉は葉巻を終始口からはな 巧さずときどき痛快そうな笑い声をたてては葉巻をおとし、そのつどあわてて床からひろ
物の量からみればこの戦争は、日本にとって勝ち目がほとんどなかったが、わずかに 有利な点は下瀬火薬にかかっていたといえるであろう。 「軍艦のある場所で炸裂すれば、甲板上に人間がのばれるものではない」 とまでいわれたほど、すさまじい高熱をこの爆薬 ( 炸薬 ) は出す。このため最初ロシ ア側は、 「日本海軍の砲弾は毒ガスを放散する」 と、世界にむかって訴えたほどであった。その例として日本の魚雷が巡洋艦バルラー ダの石炭庫に命中したとき、六人の水兵が消火しようとして現場に近づいたところガス たお にやられるようにして斃れた、ということをあげている。むろん毒ガスではなかった。 下瀬火薬が爆発するときに発生するガスの熱がなみはずれて高く、三千度にものばった。 六人の水兵の不幸は、この高熱によるものであった。 ロシア側は、開国して三十数年しか経たない日本が独創による砲弾をつかうはずがな いとみて、 「日本軍は英国製のリダイト弾をつかっている」 と、旅順の海軍部は発表している。 一方、ロシア軍の砲弾は、日本海軍の研究機関が分析してしらべたところでは、爆発 のごく鈍いようなものがっかわれていた。はじめ、日本が臆測したところでは、ロシア がかねてフランスと親密であるところから、フランスが開発したメリュットという爆薬
日本側の黒木は、クロバトキンの半分ほどの軍事知識もなく、その十分の一ほどの西欧 的教養もない。その面では単に一個の薩摩武士であった。 す が、数万の軍隊を統べるだけの人格と、戦いに対する不退転の信念をもっている点で は、クロバトキンははるかにおよばなかった。 「かれは、戦術教科書的な、完ぺきにちかい退却戦をおこなった」 と、クロバトキンは戦後、評された。かれは日本軍の追撃をゆるさず、要所々々の陣 地に部隊をのこし、段階を追って整然とこの大軍を奉天へひきあげさせた。 ちょうだ 「日本軍はむなしく長蛇を逸した」 といわれたのは、このためである。勝利者といわれるわりには日本軍が得た戦利品は おどろくほどすくなかった。 「日本は遼陽で勝ったのではない」 という悪意の報道が、外国従軍記者の手で世界にながされたのは、ひとつにはこのた めであった。 遼陽の攻防戦は、クロ。ハトキンのいうように「狂暴」をきわめた日本の攻撃によって どうやら攻撃側の勝利におわった。 日本軍の死傷は、二万である。ロシア軍もほば同数で、わずかに上まわる。双方がい かにすさまじく死闘したかは、これでもわかるであろう。
りみずに攻撃し、地をうばってきた。金州、南山、遼陽は、厳密にいえば野外決戦とい うよりも、陣地攻撃戦であった。 その点、こんどの沙河戦は、ロシア軍が奉天の陣地を置きすてて南下してきている。 運動中の大軍を撃つのである。この点、砲弾不足の日本軍にとってはありがたかった。 ただ、困難なのは、敵の兵力が大きすぎることであった。ともすれば、日本軍は局 地々々において包囲されそうになった。 「一部隊といえども包囲されてはならない」 というところに、この作戦運動のむずかしさがあった。一部分でも包囲されれば全軍 が崩壊する。包囲されぬためには、翼をいつばいにひろげて、ひた押しに押してゆき、 敵が突出してくれば左右連繋をたもって逆包囲して撃退してゆかねばならない。 全軍の運動を指揮する総司令部の苦心はここにあった。 日本軍は、その得意とする夜襲をくりかえすことによって優位に立とうとした。が、 ロシア軍のほうでもそれをゆるさす、しばしば撃退したばかりか、逆に日本軍を夜襲し てきた。 河日本軍の騎兵は、二個旅団活躍している。そのひとつは秋山好古の旅団で、日本軍の 最左翼をまもり、いまひとつは日本軍の最右翼をまもっていた。両端を騎兵がまもると 沙 いうのは、敵の誇るコサック騎兵の大集団がたえず運動し、たえず日本軍の両翼を横撃 してかかろうという戦術本能をもっていたからであった。
うち、損害 ( 死傷 ) はわずか二万であった。 遠くハルビンへ。 ということがかれの原案にあったということは、すでにのべた。だが、奉天の線でと ど士玉ったとい , っこともふれた。 かれは、奉天にとどまった。 ところがかれにとって意外だったのは、日本軍が追撃して来なかったことである。 「ど , つい , っことだ」 と、むしろかれのほうが狼狽し、情報担当の参謀に情報をあつめさせた。 「日本軍は、砲弾の補給難におち入っているらしい」 ということがわかったが、しかしクロバトキンはなおも日本軍を買いかぶっていた。 砲弾に関するだけでも補給難というような表現の段階ではなく、あと数カ月、大会戦は 不可能という状態であり、追撃などはとうていできるわけはなかった。そのうえ、兵員 の損害は「敗者」のロシア軍とほばおなじで、しかも条件がまるでちがっている。ロシ ア軍は本国からどんどん兵力が増強されているのに対し、日本軍の兵員補充はじつに至 河難であった。 クロバトキンは、その性格から敵を過大視する傾向があったが、戦いをかさねるごと 沙にしだいに日本軍の実態がわかってきた。かれは遼陽を退却した段階において、 「日本軍はざっと二十万七千」
ヤコプ・シフは、おそらくその連中にも資金援助をしたことがあるにちがいない。そ ういうなかで、ロシアの内政のどういう革命党や独立党よりも強力な力で立ちあがった のが、日本の陸海軍である。どういう革命党よりも命しらずであり、組織的であり、強 力であった。 日本が、ロシアの帝政をたおすにちがいない。 と、ヤコプ・シフはおもった。たとえ日本が負けてもいし 衰弱する。それが、ヤコプ・シフの日本援助の理由であった。 「世界は複雑だ」 と、深井英五はおもった。この人は国民新聞の記者から官界に入り、のち日銀総裁に なった。日本が太平洋戦争でやぶれた昭和二十年まで生き、その十月二十一日に死んで 人種問題について深井英五は世界の複雑さを知ったが、楽天家をもって知られる高橋 是清のほうが、そういう感覚があった。 陽「それはそうだよ」 と、かれは深井にいった。かれはヤコプ・シフが「ロシアにおけるユダヤ人を救うた 遼めに日本を応援するのだ」といったとき、すぐその理由が、ごく現実的なものであるこ とを理解することができた。 。この戦争で帝政ロシアは