と、梅沢はいう。退却中を追撃されれば大敗するのが、戦争の物理学といっていい。 梅沢としては敵にどうせ気づかれる以上、退却命令が出たこの機にさっと退却すれば、 という。このあたりは、なま身で百戦を経てき 敵がより遅く気づいて被害がすくない、 たこの東北人のすぐれた智恵であった。 七日、梅沢は夜を待ち、すぐ退却運動にうつった。それこそ風のようにひきあげて、 本渓湖の新陣地に移った。厳密には、本渓湖を最右翼とし、朝仙嶺の南方高地にわたる 丘陵脈を新陣地とした。 カ失望しなかった。 ロシア軍は、あとで梅沢が消えたことを知った。、 「梅沢の本渓湖における新陣地は、防御工事も未完成で兵力も薄い。あのあたりに大軍 を投じて突破するにかぎる」 と、クロバトキンは見た。 これより二十日ばかり前、クロバトキンは日本軍最右翼の梅沢支隊 ( 平台子 ) の状況 を確認するために、レネンカンプとサムソノフの両将軍に命じ、大規模な威力偵察隊を 組織させ、梅沢を攻撃させた。その手ごたえを見るためであった。 これが、さきにふれた梅沢の場合の九月十七日の状況である。つまり梅沢は単身最前 線の歩哨線に出て敵情を偵察した。時刻は、早朝から午前十一時すぎにかけてである。 沙かれがその双眼鏡で発見した敵部隊というのは、この威力偵察隊の先鋒であった。かれ が敵を見たのは午前十一時半で、敵兵力は歩兵約二大隊、騎兵数中隊であった。その後
274 ともあれ、梅沢旅団はもっとも敵に対して接近していた。 総司令部は黒木軍に命じ、これを本渓湖の線まで後退させようとした。 「梅沢旅団のあたりが、日本軍の最弱点ではあるまいか」 と、クロバトキンはすでに察していた。かれは梅沢旅団が位置している平台子・本渓 湖間の後方連絡線を断ち切り、これを包囲して日本軍の最右翼を潰滅させることに作戦 の第一段階の主題をさだめた。 が、児玉ら日本の作戦頭脳はこれをいちばんはやく察して梅沢を後退させたのはよか ったが、しかしこの敵前退却は曲芸のように困難であった。河をはさんで、シタケリべ ルグの大軍が眼前にいる。 い / 、さには匂いがある」 と、梅沢のロぐせが、このときも出た。 黒木軍の参謀がきて、退却時期についての相談を梅沢にしたのである。 「す . ぐ退こ , つ」 と、梅沢はいっこ。 若い参謀は、一日ぐらい敵の様子をみてから退却方法をきめるほ , つが安全ではあるまいか、というと、 いくさには匂いがあるから、どう隠しても敵にわかってしまうものだ。風が持ってゆ くのだ。一日待って敵に嗅がれてしまえば、敵がよろこんで追撃してくる。これではど , つにもならない」
統率力という点でも、名人にちかい。かれは「後備兵」といわれて友軍からばかにさ れているその旅団の士卒に自信と誇りをもたせようとした。当時、どうやらかれが作っ て旅団内にはやらせたらしいサノサ節がある。 きつりん 「君見ずや、花の梅沢旅団じゃないか、吉林ハルビンなんのその、飯も食わずにねえ、 サノサ」 というもので、げんに梅沢にひきいられているこの旅団のつよさは、決して現役兵部 隊におとらなかった。 話がすこし前へもどるが、九月十七日に梅沢は最前線を視察するために出かけたこと がある。梅沢は実戦の名人だけにこういう場合、副官や伝騎をつれす、ひとりでのこの がんきよう こ出かけて行った。梅沢は右翼に張り出た歩哨線に立ち、眼鏡で敵地をみていると、 どうやら動きがある。前進してくる。乗馬部隊が散開しており、そのうしろから歩兵部 隊がつづいてきている。 梅沢は、そばの歩哨に対し、すぐこの敵情を後方に伝令するように命じた。が、歩哨 も歩哨の任務を心得た兵で、自分は歩哨だから自分の直属上官の命令でないかぎりこの とことわった。梅沢はその言いぐさをよろこび、かれ 河場所からう」くわけに、ゝよ、、 が歩哨になり、その後方へ走らせた。この機敏な処置で、この旅団は敵の機先を制する 沙ことができた。
「敵が十分射程内に入るまで射撃するな」 と、梅沢は全旅団に命じてある。全旅団はそれをまもった。 ロシア軍が日本砲兵の射程内に入ってきたのは、正午ごろからである。砲兵は、待っ た。十分に待ち、しかも梅沢の指揮の巧妙さは、これら両翼と中央の三カ所にいる砲兵 ひぶた をしていっせいに火蓋を切らせたことである。 ロシア軍の驚きは、歩兵たちの肉眼でみえた。歩兵も急射撃をはじめた。 戦闘は三時間以上っづき、やがて午後三時四十五分、大きな損害をうけて敗走した。 梅沢はすぐさま追撃を命じ、日没まで戦い、やがて陣地にひきあげさせた。梅沢のほう の損害は下士官一名の負傷にとどまったが、ロシア軍は大損害をうけた。 が、ロシア軍は損害をうけたといってもべつにこれによって全作戦に影響されるよう なことはない。なぜなら、目的が威力偵察にあったからである。かれらはこの小さな局 部戦に負けはしたが、しかし、 「梅沢の陣地は兵力も手薄で、防御工事もほとんどできていない」 ということを確認したことで、十分収穫があった。ロシア軍が大規模な攻撃を梅沢に 河かけてきたのは、この二十日あとである。 十月八日の夜がようやく明けるころ、梅沢陣地の最右翼の本渓湖守備隊の兵は、前方 沙の止陵群が黒くなるほどの大軍がうごいているのを発見した。シタケリベルグ軍団の左 縦隊とレネンカンプ支隊であった。それらが、本渓湖前面で大集結したのは、正午すぎ
278 である。 この本渓湖の最前線にいる日本軍は、わすか一個大隊であった。大洪水が押しよせて くるのを戸板一枚でささえるようなものであり、退却しようとした。 が、後方の梅沢旅団長はこの大隊をすてておかなかった。応援部隊を急派させた。こ こで大激戦がはじまったが、なにぶん孤軍でしかも兵力はすくない。いずれ全滅の悲運 をみることはあきらかであった。 黒木軍は、梅沢旅団が全滅にひんしていることを知り、おもいきった救援策をとった。 「梅沢を全滅させれば、全軍の危機である」 ということを黒木は知っていた。日本軍の防御線を長大な堤防とすれば、梅沢旅団の ひた 部【分がもっとも弱、。 ここが決潰すればロシア軍は大洪水のように日本軍そのものを浸 しつくすというのは自明のことであった。 黒木は、中将井上光 ( 山口県 ) のひきいる第十二師団 ( 小倉 ) の全力をもって救援す べく命じた。第十二師団はすぐ運動にうつったが、その道路が途中ロシア軍によって中 断されていたため、それを排除するのに手間どった。この師団が、梅沢の現場にかけっ けたのは、夜の八時三十分であった。 さらに黒木は、かれに属している騎兵第二旅団に対し、救援を命じた。。、、 カこの騎兵 旅団は別方面の孤家子というところで強大な敵の包囲をうけて苦戦中であったため、身
272 これをひきいる旅団長の少将梅沢道治は、すでに老人であった。そのうえ近衛旅団で ある。近衛の兵隊が弱いというのは、この当時常識になっていた。 「ロシアは本国からいよいよ生きのいい現役兵がやってくるというのに、日本はだんだ ん老けてくる」 という心配が総司令部にあったが、梅沢旅団などはその古ばけた典型であろう。 旅団長梅沢道治は、士官学校を出た軍人ではない。かれは戊辰戦争生きのこりの仙台 えのもとたけあき 藩士で、しかも官軍に抗して函館五稜郭へゆき、榎本武揚を将として戦った。 「おれは戊辰戦争の生き残りだ」 というのが、かれの自慢であった。かれがもし薩摩か長州にうまれていれば、少将ど まりではなくこのときすでに黒木や乃木らと肩をならべて軍司令官になっていたにちが この日露戦争における戊辰戦争の生きのこりは、大山巌、児玉源太郎、黒木為楨、野 みちつら やすかたたつみなおぶみ 津道貫で、以上は当時のいわゆる官軍に属し、奥保鞏、立見尚文は賊軍に属していた。 以上は大将級で、これ以外には少将梅沢道治がいるだけであった。 梅沢という人物は、 「戦さのにおいがわかる」 といわれていた。実戦でたたきあげてきた男だけにかんがするどく、そのかんによっ て刻々変化する敵の状況や敵の心理がよくわかった。 ためもと
たのである。 この戦線整頓運動というのは、じつに困難であった。運動は、夜間におこなわれた。 凸部は後退しなければならず、凹部は前進しなければならなかった。 ただ一点、日本軍にとって、 「あの陣地だけは」 と、はじめから憂慮されていた個所があった。ここにロシア軍が攻撃を仕掛けてくれ ば最大の激痛をあたえられるであろうという突出陣地であった。 それはもっとも敵にむかって接近して位置している黒木軍のなかでも、とびきり離れ ていた少将梅沢道治 ( 宮城県出身 ) の旅団であった。この旅団は後備の混成旅団で、兵 も応召の老兵が多く、兵器も旧式であった。それがしかもその陣地に移ったばかりで陣 地構築もなにもできていない。それを後方へひきさげねばならないが、もしロシア軍が その後退に気づいて追尾してくればおそらく悽惨な戦いになるにちがいなかった。 ロシア軍の大きな圧力を一手にひきうけるはめになった黒木軍の梅沢旅団というのは、 河元来、 「あれは後備だから」 沙ということで、最高司令部からも友軍からもやや軽侮の目でみられていた。兵は応召 兵で、老いている。兵器も後備旅団だから旧式である。
, つごきがとれなかった。 黒木はさらに、別方面の関連山というところにいる兵站の守備兵をまで、 「本渓湖へゆけ」 という、軍隊の常識を越えた命令まで出した。このため守備兵のいなくなった兵站部 は非戦闘員だけになり、平素、銃をもたない補助輸卒までが馴れぬ手で銃をとって万一 の警戒をした。 ともあれ、十月九日においては日本軍右翼である黒木軍は、梅沢旅団を中心としてま ったく潰滅の危機にひんした。 満州軍総司令部にいる児玉源太郎は、 ( 黒木軍を泣かせねばしかたがない ) とみた。 かれは大作戦案をたてた。というのは敵の主力が右翼の黒木軍にのしかかってきてい る。このすきに、日本軍の中央にいる野津軍と左翼の奥軍に命じいっせいに前進運動を おこさせてロシア軍を包囲させようというものであった。クロバトキンにとって想像も 河できなかった作戦である。 世界の戦術史にも例のすくないことであろう。日本軍はロシア軍よりいちじるしく兵 沙 力がすくなかった。小兵力の軍が、大軍を包囲しようというのは、机上の戦術学では無 謀というほかない。