長岡外史 - みる会図書館


検索対象: 坂の上の雲 4
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1. 坂の上の雲 4

212 手に入れたが、しかし馴らすのに長い歳月がかかる。そのうちに旅順が陥ちてしまい 長岡の隼は旅順の空を飛ぶことなくおわった。 ちみつ 長岡外史は、周到で緻密な思考力には欠けていたが、つぎつぎに思いっきを考えだす 点では、たれよりも活漫であった。ひとつには大本営参謀本部が、野戦にいる児玉源太 郎に作戦権のはとんどをにぎられていて、比較的ひまであるせいでもあった。 「旅順に気球をあげたらどうだ」 ということをおもいついたのも、長岡外史であった。これは妙案であった。気球をた かだかとあげて観測兵をのせ、要塞内部をのそきこませて砲弾の弾着を観測させるので ある。長岡はのちに飛行機に着眼したり、伝書鳩を鷹でやつつけようとしたりしたとこ ろをみると、飛ぶものが好きなのかもしれなかった。 の陸軍では実用化されてから歴史がふるいが、諸事技術軽 気球は、すでにヨーロッパ 視の陸軍にあっては、明治三十四年十二月に一度テストしたものがあるにすぎない。長 岡はこの古気球を倉庫からひきださせて、テストさせてみた。 ロープがなかったので、深川の製綱会社に命じてつくらせた。このロープが粗悪であ った。この年の四月、浜離宮であげてみると、のばりはしたが三百メートルでロープが 切れ、気球は浮游して大洗の海に落ちた。 とにかく気球の製造をいそいでやらねばならなかった。気嚢は、芝浦製作所に命じて おおあらい きのう

2. 坂の上の雲 4

だったのは、下士官からあがって将校になった旧南部藩 ( 岩手県 ) 出身の東条英教であ った。が、児玉は東条をえらばず、歩兵の旅団長で出征させた。 この第一期生十人のなかで長岡だけが長州人であった。児玉は派閥意識はうすかった が、しかし長州軍閥の大親玉の山県有朋が参謀総長であるため、 「次長職というのは山県のジイサンとのあいだの調整がうまくとれなくてはこまる」 という、ただそれだけのことで長岡外史をえらんだ。児玉の察するところ、山県はロ 出しの多い人物で、なにかといってくるとき、まあまあとなだめてその案をひっこめさ せるような人物が必要だったのである。そのため長州人の長岡をえらんだ。他府県出身 の次長なら山県に呑まれてしまうか、それとも喧嘩になるか、どちらにせようまくない。 参謀本部次長長岡外史はその能力でえらばれたわけではなかった。 陸軍の人事は山県を頂点とする長州閥がにぎっていることはすでにふれた。 その閥人の会には、 いっぴんかい 「一品会」 順という名がつけられていた。毛利家の紋所が一品で、一品という漢字のかたちに似てい るからであった。山口県出身の軍人で少将以上の者がこの会の会員で、陸軍という国家 旅の機関における私的結社でこの結社がいかにおそるべき ( 軍人にとって ) 結社であるか というと、陸軍全体の人事ーー・・たれを進級させるかとか、たれをどの職にもってゆくか

3. 坂の上の雲 4

178 参謀本部は、最初からこの工作に百万円をつかおうとした。それをつかわせる男とし て単に開戦直前までロシアで公使館付武官をしていた明石がえらばれたにすぎない。明 石を人選した参謀本部次長長岡外史自身が、 「あの男に百万円の大金をつかわせてよいだろうか」 と、疑問におもった。 ふうさい 長岡の印象にある明石とは、多少りくつつばくてすばらで、風采があがらす、しかも こまったことに語学が上手ではなかった。 かくらん 「かれがみごとにロシアの国内攪乱をやってのけてから、はじめてその腕を知った」 と、長岡外史も語っている。 要するに、資金が窮屈であったなら明石といえどもさはどのはたらきはできなかった であろう。明石の力は、金のカであるといえた。ロシアの革命運動家たちが明石のもと にあつまってきたのも、明石の魅力以前に明石が際限もなく ( とかれらはおもった ) っ かう金の力によるところが大きい。 明石は一見粗放な性格でありながら、金をつかうことが上手で、その収支についても 明快であった。かれは百万円をつかいきれず、二十数万円をのこして帰国したが、使っ た金については受取書や使途の書きつけなどはきちんととってあった。 ともかく、かれが金を投じたぶんだけ、ロシア国内で暴動がおこった。それもひんば んにおこった。帝政ロシアの要人たちにとって、外征よりもむしろこれら内政面の秩序

4. 坂の上の雲 4

210 のようなかたちをしており、もしひげが回転するものなら、長岡はこのひげで空でも飛 べそうであった。天陸のオッチョコチョイなのであろう。 当時、アメリカに二二インチというひげのもちぬしがいた。この男が世界一であった。 世界第二が日本の長岡外史である。 「これもわしの愛国心のあらわれである」 と、長岡は大まじめで解説するのがつねであったから、照れるという感覚があたまか らない人物であった。 「いったい長岡はできる人物なのか、それとも単なる三流人物がハッタリであそこまで 行ったのか」 ということは、陸軍部内でも後年まで疑問とされた。かれの死後も、この疑問はとけ ていない。 しかし世界第二のひげを毎日手入れして公衆の面前にその顔を堂々と押しと おしていたということで、この人物の一部分をとくかぎがあるかもしれない。 長岡は、思いっき屋であった。 旅順大要塞には、なぞが多い。 そのなその一つは、日本の陸海軍がアリ一びき這い出るすきまもなく包囲し、封鎖し ているのに、要塞司令官のステッセルの談話なりが世界の新聞にのったりするのである。 要塞内から外界にむかってどうやら通信が可能らしい . し学 / > とういう方法をとっているのか」

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「すでに鉄壁下に二万余人をうずめてみればなんとか攻撃法を考えそうなものである」 と、東京にいる参謀本部次長長岡外史は、その日記で乃木と伊地知のコンビへのいき どおりをふくめて書いている。 第一回の総攻撃で、一個師団に匹敵する大兵力が消えてしまったということについて は、東京は寛大であった。寛大であるというよりも、 「旅順はそれほどの要塞か」 ということを、この大犠牲をはらうことによって東京自身が認識したのである。この 錯誤と認識は戦争にはっきものであった。しかし東京の長岡外史らが、乃木軍参謀長の あたまをうたがったのは、この錯誤をすこしも錯誤であるとはおもわず、従ってここか ら教訓をひきだして攻撃方法の転換を考えようとはしなかったことであった。 要塞ならば、あたりまえのことであった。伊地知は一万数千の犠牲をはらってこの程 度の、百科事典の「要塞」項目程度の知識をえた。しかもその知識は、かれら参謀が前 ていしん 線へ挺身して得たものではなく、「諸報告を総合」して得た。 「第三軍司令部は、敵の砲弾がとてもとどかぬほどの後方に位置している」 順というのは、すでに評判であった。 乃木希典はこれを気にし、のちに、 旅「もっと ~ 則へ出よ , つ」 と伊地知に提言したが、伊地知はそれでは冷静な作戦判断ができない、 としてかれの

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ということーーーをはとんどこの秘密会できめていたことであった。乃木や長岡の人事も ここできめられたといってよかった。 ついでながら大佐以下の山口県人は、 どうしようかい 「同裳会」 という結社をつくっていた。同裳会は一品会のジュニア団体であり、一品会に直属し ていた。これらの団体は他府県出身の軍人からみれば不愉快きわまりない存在であった。 後年、これへの反動がおこり、長州閥への対抗意識から他の出世閥がうまれ、やがてそ れらが昭和初年、皇道派とか統制派とかいったような一見思想派ふうにみえる存在に変 転するのだがここではそれらは主題ではない。 要するに、長岡外史が参謀本部次長という、日本国の運命を決するかのような重職に ついたのは、その能力が卓絶していたからではなかった。 「長岡でもかまいませんよ」 と、山県にうけあったのは、児玉源太郎である。児玉は自分以外に日露戦争をやって ゆける者はいないとおもっていたし、客観的にもそうであった。児玉は頭がいいといわ れる長州人の長所を一身に具現していたようなところがあり、それにかっての長州志士 の多くがそうであったようにつねに捨て身の覚悟でいる男で、要するに長州の伝統のす ぐれた部分を継いでいた。 長岡でもかまいませんよ。

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と、参謀本部が各地の諜報網をうごかしてしらべた結果、伝書鳩によるものであるこ とがわかった。 きゅうしゃ 北京駐在の青木という大佐がそれを報告してきたのである。威海衛に伝書鳩の鴪舎 があるという。アメリカ人の所有だったが、実際にはロシア人が使用しているらしいと いう。威海衛は中立国である清国領であるうえに、日本としてはアメリカ人の感情を刺 戟するような事件にしたくはない。 長岡外史はこの処置に苦慮していたが、やがて長岡らしい妙案をおもいついた。 「鷹をとばして鳩をおそわせるのだ」 ということであった。かれはすぐ宮内省にかけあった。宮内省には主猟寮というふる めかしい名の役所があり、戸田氏共という伯爵が長になっていて、その下に多くの鷹 しよう 匠がいる。長岡はさっそくこの主猟官たちを大本営によび、正式に辞令を出して作戦 人事に入れた。 ところが、宮内省で飼っている大鷹は鳩を襲う習性をもっていないことがわかった。 が、鷹匠たちは、 はやぶさ 順「隼なら、鳩を襲うかもしれません」 というので、長岡はそれだそれをやってくれとたのんだ。この作戦案は、まず野生の 旅隼をつかまえることからはじめねばならなかった。隼が多くいるのは、高知県、香川県、 島根県、和歌山県などである。それらの地方に人が派遣され、大本営はやっとそれらを たか たか

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214 みふえ、しかも敵要塞はびくともしていない。なにかあたらしい奇手が必要であった。 長岡はなるほどケレン師といわれるところがあったが、こういう奇手を考える点では、 うってつけの参謀本部次長かもしれなかった。ただ参謀本部次長という重職にしてはか れの考えることが突っ拍子もないため、ことごとに失敗するだけのことであった。 旅順のケースを、日本敗亡の危機からすくいだしたのは、乃木軍司令部の作戦能力で むろん乃木軍司令部が、乃木個人の気持や感傷とはかかわりなく、つぎつぎに要塞に むかってたたきこんだ人血によるものであることはまちがいないが、それは動因ではな い。状態にすぎない。さらに言葉を多くしていえば、すすんで ( あるいはやむなく ) 死 地についた数万の明治日本人の精神のこれは壮大なる「状態」であった。乃木軍司令部 は、明治日本人の国家への忠良さをたよりに、その上にのつかって世界戦史に類のない 死の命令のくりかえしをやっていたにすぎない この稿のこのところ、東京の大本営にいる長岡外史のケレン的性格についてふれた。 しかし、長岡のケレン味は、旅順の日本人たちをすくう上で十分に意味があった。なぜ ならばかれはそういう性格だけに、 「智恵」 とか、

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といったのは、大本営の参謀本部などはどうでもよい、と児玉はおもっていた。自分 が大山巌をかついで戦場におもむくかぎり、すべて大山と自分とが戦争を刻々処理して ゆくつもりであった。このため、 ーー参謀本部次長など、留守番でいし とおもっていたにちがいない。それと、兵員や兵器や弾薬の補給センター程度にしか おもっていなかった。長岡で、 しい、と児玉がいうのはその意味であった。げんに児玉は 参謀本部の出来のいいのをほとんど自分の配下としてひきぬいて出てしまった。 長岡は「世界一」と自称する長大な八字ひげをはやしている妙な人物で、その点では いかにもいかがわしいハッタリ屋を想像させた。 「ケレン師である」 と、蔭口をいう者もあり、そういうところも多少はあったが、根は自分の利ロと豪快 さを誇一小したいだけの子供つばい性格の人物で、かってふれたように、戦略戦術家にも っとも必要な天性の想像力はもっていた。ただその想像力はときに夢想化することもあ たが、かれが将来、スキーを軍隊に導入したり、飛行機の出現当時もっともはやくそ 順れに目をつけ、陸軍部内を啓蒙させたことなどは、かれの想像力のたくましさを証拠だ てるものであった。 旅 長岡外史のひげは、一九・七インチもあり、かれがのちに熱中した飛行機のプロペラ

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そういう人物が、 「陸軍の法王」 とよばれていたのである。 陸軍は山県がそうであったために、海軍とはちがい、軍隊の機構や装備、または兵器 がロシアよりすぐれていたわけではない。 そのうえ、日本陸軍の作戦を担当する参謀本部の二人の天才を相次いでうしなった。 よぞう 総長川上操六と次長田村怡与造の死がそれであった。このため、開戦の寸前になって児 玉源太郎が、 自分以外にない。 として、内務大臣の職をすてて官吏としては格下の参謀本部次長 ( 少将級の職 ) に就 任したことはすでにのべた。 ところがその児玉も、全野戦軍の総参謀長として戦野へゆくことになり、あとが空席 こよっこ。 順児玉が後任の人事を考え、 「スグコイ」 旅と、電報でよびよせたのが、四十七歳の少将長岡外史であった。長岡はこの当時、広 島の歩兵第九旅団長として動員命令にそなえていた。ところが東京へ来い、という。そ