27 〇三高地 おうしよう その堡塁の内壕のふかさは、二メートル以上であった。横牆がいくつかあり、また えんべい 堡塁司令所は強固に掩蔽されている。さらに高地の東北部にも同様の堡塁があり、六イ あんぶ ンチ砲をそなえ、各鞍部には軽砲砲台があり、それら堡塁や砲塁のあいだに暗路が走っ ろくき」い て、交通路になっている。山の中腹には、鹿柴がつらねられ、その前に散兵壕があり、 えんがい その火線には銃眼掩蓋があって機関銃が配置され、ついで山腹一帯には、鉄条網が張り めぐらされている。 乃木はこれに対し、第一師団のほか、内地から到着した新鋭部隊である旭川の第七師 団をあてることにしこ。 「必要なら第九、第十一師団の一部を増援してもよい」 と、乃木は考えた。 二十七日は、第一師団が担当した。 いっせいに二〇三高地を攻撃せよ」 「本日午後六時を期し、 との師団の命令が発せられ、午後七時三十分には香月中佐の連隊の第一回突撃隊が銃 剣をきらめかせて突入し、はとんど瞬時に山麓で消滅した。この連隊は夜半には潰滅同 然になって、退却している。 一一戦術にとってもっとも禁物なことの一つは兵力を小出しに使用することであるが、乃 木軍司令部はつねにこの戦術上の初歩的な常識について無関心であることだった。とく
んでいたこの土地を、ロシア人はあらためてダルニーと命名した。 東郷がここに一夜をすごしたこの時期にはまだ日本人からもダルニーとよばれていて、 大連という別称は存在したものの、まだ正称ではなかった。大連が正称になるのは、明 治三十九年からである。 翌朝、東郷のさしずどおり、参謀秋山真之がやってきた。 東郷は、階下へ降りた。真之は、玄関で敬礼した。 あと、両人とも無言である。べつに喋る用件もなかった。飯田ともども建物を出た。 すでに汽車の用意はできていた。 かれらは柳樹房の乃木軍司令部へゆく。ただかれらを送るだけが目的の列車が、この 建物のすぐそばで待っていた。乃木軍から迎えの将校がきている。一同、乗車した。乗 るとともに、汽車がうごき出したが、ほとんどゆれない。広軌のせいであろう。 柳樹房につくまでのあいだ、出迎えの陸軍将校が、二〇三高地陥落後の戦況について ) 兄月しこ。 むろん二〇三高地が陥落したとはいえ、その後方にあってなお第二、第三の防御線が 濤強靭に生きのこっており、とくに二竜山堡塁と松樹山堡塁という八月以来、日本人の 血を吸いつづけてきた堡塁はなお健在であった。 海しかし二〇三高地陥落以後、乃木軍司令部の攻略作業はずいぶん楽にはなっていた。 主として砲兵力をもって敵の力を弱めつつ、一方、これらの堡塁にむかって坑道を掘り きようじん
1 1 8 児玉の重砲陣地の大転換は、みごとな功を奏しつつあった。 元来、二〇三高地へむかう日本歩兵は、二〇三高地の敵陣地からの銃砲火よりも、そ のまわりの諸砲台からの砲撃のために全滅をくりかえしてきたのである。ロシアの要塞 たんのう の火網構成のみごとさを、日本軍は無数の生命をそこへ投げ入れることによって堪能す るほどに知らされた。児玉の砲兵戦術は、二〇三高地の周辺砲台を沈黙させることにあ おうこし その結果、あれほど日本歩兵の上に猛威をふるっていた鵯湖嘴の砲台が沈黙した。 ただし北太陽溝の諸砲台は、なお生きていた。 : 、 カ日本軍重砲の連続猛射によって次 第におとろえつつある。 叙述が前後するが、二〇三高地に対する歩兵の突撃が開始されたのは、この十二月五 日の午前九時からである。 左右二個の縦隊をもって実施された。斎藤少将の指揮する縦隊は二〇三高地の西南角 へむかい、吉田少将の指揮するそれは、東北角にむかった。 これを援護するための児玉方式の砲兵の用兵は、きわめて重厚で適切であった。歩兵 は、友軍の砲弾の傘をかぶりながら、行動することができた。二十八サンチ榴弾砲にか ぎっていっても、一発二一八キロという重い砲弾を二千三百発射ちこんだ。 とうはん 少将斎藤太郎は、三十名すつの決死隊を連続して登攀、突撃させた。生き残って西南
ということも、その連絡で知った。 「主攻撃を、二〇三高地に転換」 ということも知った。転換してほどなく二〇三高地が陥ち、その山頂に観測所が設け られた。その観測将校の誘導により、砲弾が山越えで旅順湾内のロシア艦隊をつぎつぎ に撃沈しはじめたことがわかったとき、東郷は、 「それはよかった」 と、小さくうなずいた。笑顔を見せるほどにはいたらなかった。かれの執念はなお港 内のロシア艦隊から離れず、 一隻でも撃ち洩らせばこまる。 という完全主義のとりこになっていた。たとえ戦艦一隻でも健在なら、そしてそれが 外洋に出るとすれば、日本近海の輸送は重大な危機におち入るであろう。そうなればた とえ一隻が港内に生き残っても、東郷はそれを封鎖するために最小限戦艦二隻は残さね ばならない。戦争において完全主義がこれほど要求された例は、海陸の戦史にもなかっ 濤二〇三高地に観測所が設けられたとき、海軍側もすぐ将校を派遣した。軍艦の艦種や 艦名の識別は陸軍の砲兵将校にはできないからであった。 海二〇三高地の山上から見おろすと、港内のロシア艦隊は洋上で想像していたよりも多 く、二十一隻をかそえることができた。
ともあれ、乃木希典は、開戦以来、自分の参謀長の意向をはじめて無視した。乃木に すれば、東京の大本営からも、大山の総司令部からも、また海軍からも耳が鳴るほどに やかましく示唆されつづけたこの二〇三高地というかぎ穴に、はじめて鍵を突っ込むこ とにした。 もしこれが、最初からプログラムに組んでいればどうであろう。九月十九日、この高 地がまだ半要塞の状態であったとき、第一師団がここを攻撃しているのである。むろん このときわずかでも増援軍を送っていれば占領できたことはたしかであ 撃退されたが、 った。そのせつかくの好機を、乃木軍司令部はみすからすてた。その後、この高地を放 かん 置した。その間、ステッセルは、あらゆる砲塁のなかで最強のものをこの高地に築きあ げたのである。 二〇三高地は、旅順市街の西北約二キロの地点に、大地がちょうどうねるようにして すざん あんしざん 隆起している。付近には案子山、椅子山があり、谷をへだてて相つらなり、二〇三高地 なまこやま のそばには赤坂山と海鼠山がある。いずれも要塞化され、峰々が連繋してすきまのない 火網を構成している。ねずみいっぴきが走っても、銃砲火の大瀑布にたたかれねばなら ナ . 、カ子 / この高地の殺人機構というのは、日本人の築城術の概念をはるかに越えたものであっ ます、高地の西南部に強断面の堡塁がある。
にいままで第一師団が担当していた二〇三高地攻撃については、それが唯一の失敗の理 由であった。第一師団をしてその全力をあげて攻撃させることをさせす、小部隊を逐次 出させては、そのつどロシア軍の砲火に潰され、潰されるとまた小出しに出す、という あんばいであったが、 「こんどは、第七師団の全力をあげて二〇三高地にかからせる」 と、乃木みすからがきめた。ようやく戦術の常識が、乃木司令部を支配した。 さきに二〇三高地を担当して大いに損耗した第一師団は、なおもこの方面を担当する。 おおさこなおとし 主力は新鋭の第七師団である。この両師団をあわせて、第七師団長大迫尚敏中将が統一 指揮に任ずることになった。 「全力をあげて攻撃し、敵をして休養のいとまなからしめる」 というのが、新方針であった。 第七師団は、この方面に移動した。あたらしい担当者である大迫尚敏が、この方面に 到着したのは、二十九日の朝である。大迫は、同日午前七時、二〇三高地を望見するこ とのできる一六四高地 ( 高崎山 ) にのばり、第一師団長から状況を聞き、攻撃計画およ び開始時期についてのうちあわせをおこなった。 「わが攻城砲は、なるはど威力はあります。しかしいままでの例からみて、いかに砲撃 じんそく し、破壊しても、敵の復旧工事は迅速で、つぎの攻撃のときは新品同然の砲塁になって いて、威力は衰えません」
「二〇三高地に向かうとの電信に接し、来客中なりしに覚えず快と叫び、飛び立ちた と、長岡は書簡でいう。 「もしこの着意、早かりせば、勅語を賜うまでにも至らざるべく、 一万の死傷を敢えて するにも及ぶまじく : と、長岡は書いている。ともあれ、児玉が南下中のいま、乃木は二〇三高地を攻めて ともあれ、乃木希典はようやく攻撃の力点を二〇一二高地においた。軍司令官独自の判 断であり、かれの参謀長伊地知幸介の発議によるものではなかった。この決定の席上、 伊地知は沈黙していた。かれはこの期にいたってもなお、 「あんな高地を奪って何になるか」 という考え方を変えていない。伊地知にいわせれば、 「二〇三高地主攻説をなす者は、ここを奪取してその頂上に観測点を置き、旅順港内の 敵艦隊を陸上砲で撃っというが、たとえ奪取できても砲兵の設備をすることに多大の月 地 三日を必要とする。机上の空論である」 いうことであった。むろんその後、実際におこなわれたあと、この伊地知論のほ わうが空論であることが実証された。
新「イシウスという意味じゃ」 と、即答した。なるほどそういわれてみると、高地群のあいだにはさまれたまるい平 地で、碾盤 ( 石臼 ) のようなかたちをしている。溝というのは、細流のことであった。 溝川程度の川が北西にむかってくばんでおり、この水を頼りに、この小部落が生きてい るのであろう。 碾盤溝をすぎると、道は坂になる。のばるうちに、あちこちの山かげを利用して、乃 木軍の重砲陣地がならんでいた。児玉が最初にみたのは、第一砲台であり、ついで二十 八サンチ榴弾砲陣地であり、さらに第二砲台、さらに十二サンチ榴弾砲陣地などが、い くつかある。二〇三高地を主攻している第七、第一師団の司令部も、第二砲台のそばに あった。ここから、南方五つばかりの山を飛びこして二〇三高地に巨砲の砲弾をうちこ んでいるのである。乃木軍はこれらの地帯をひとまとめにして、 「高崎山」 と、仮称していた。 「ー ) かしっ・も」 と、児玉は乃木に馬を寄せた。 「二〇三高地に射ちこむのに、ここを砲兵陣地にしていては、すこし間遠すぎやせん 力」 ( 桂馬の横っ飛びじゃあるまいし )
二十九日から三十日にいたる二〇三高地の攻防戦の惨況は、言語をもってこれを正確 にったえることは不可能であろう。千人が十人になるのに、十五分を必要としないはど の損耗であった。それでもなお、二〇三高地の西南の一角に、るいるいたる日本兵の死 こうかん 骸の山のなかに生者がいた。その生者たちは砲弾の炸裂のなかでなお銃を執って、槓桿 を操作し、撃鉄をひき、小銃弾を敵のベトンにむかって発射しつづけていた。 西南ノ一角、占領シアリ。 という報告が、乃木軍司令部にとどいたが、現実にはわずかな人間の群れが、奇蹟と しか思われない状況下で生存しているという状況であったにすぎない。三十日、中将大 迫尚敏は、これに対して歩兵第二十七連隊 ( 旭川 ) を増援させた。 二〇三高地におけるロシア軍の指揮官は、トレチャコフ大佐である。 かれは、旅順のロシア将兵が心服しきっているコンドラチェンコ少将の部下で、同少 将も、 「トレチャコフはやるだろう」 と、同少将らしい言い方で信頼していた。たしかにト 大佐は勇敢であるだけでなく、 その指揮の的確さは、驚嘆すべきものがあった。かれは、高級司令部から、 「乃木は二十六日がすきだ。二十六日にはきっと総攻撃をかけてくる」 ときいていたから、万全の準備をととのえていた。おどろくべきことに、こんど乃木 は二〇三高地に関心を示すにちがいないという予測さえ樹てた。このため司令部に乞う
260 という状態だったかもしれない。開戦のときまだ地ならしをしつつあるという状態の 砲台もあり、砲台と砲台をむすぶ中間砲台や堡塁または小口径の砲兵陣地といったたぐ いのものは末完成といってよかった。 一説では、グリゴーレンコ技術大佐が、シナ労務者に支払うべき賃銀を着服したため 労務者があつまらす、このために工事がおくれていたともいう。 このような末完成要塞を、乃木軍が到来するまでのあいだ、突貫工事でなんとか間に あうようなものに仕上げた功労者は、エ兵科将校のコンドラチェンコである。ステッセ ルが勇断をもってその施工に必要な権限をコンドラチェンコにあたえたということが、 旅順の防御力を飛躍させるもとになった。 ところがコンドラチェンコといえども、二〇三高地がこの大要塞の最大の弱点である ことに気づかなかった。この二〇三高地は開戦の当初、堡塁などはなく、歩兵の散兵壕 が中腹にあった程度であった。 この高地の重大さをコンドラチェンコに教えたのは、日本軍である。九月十九日の第 二回総攻撃のとき、第一師団が乃木軍司令部に許しを乞うてここを攻め、しかもごく小 当りに攻めただけで、軍司令部はその攻撃を徹底させず、以後、この高地の存在に関心 を示さなくなった。コンドラチェンコはこの事実によって、 「二〇三高地が弱点である」 と気づき、西南山頂に強断面の堡塁をきずき、東北山頂にも堡塁をきずき、軍艦の副