が、果然というべきであろう。 旅順の乃木軍司令部から児玉のもとに入ってくる報告は、ことごとく敗報であった。 もっとも、 敗けた。 とは、乃木の報告には書いていない。鋭意攻撃中ナルモ敵頑強ナリ、ワガ軍ノ士気大 ふんしよくてき イニ熾ンナリ、といったたぐいの官僚的粉飾的文章である。乃木は詩人としては第一 高流の才があり、散文家としても下手な方ではなかった。しかし戦闘に関する報告文の冷 〇厳さには欠けていた。戦闘報告に文飾は必要なく、むしろ上級司令部をして判断をあや まらせる害があった。 二〇三高地 ) か
このロシア戦艦を八日間、毎夜交代で襲撃した各水雷艇の艇長の報告によれば、たし かにセヴァストーポリは沈んでいる。が、その報告を三笠がうたがった。疑ったことに ついては、十分の理由があった。 ますこの当時の水雷艇の攻撃能力についてである。さる二月八日、旅順口外のロシア ゝこ刀陣とはいえ、その成績は惨澹たるもので 艦隊を日本の駆逐艦が夜襲したとき、い力しネ あった。二十本ばかりの魚雷を射って、わずか三艦に軽傷を負わせただけであった。遠 くから臆病射ちをしたといわれても仕方がないであろう。しかも夜襲の実施部隊という ものは、発射するとすぐ離脱せねばならないため、戦果を確認することができない。 ほば命中。大破せるもののごとし。 といった調子の報告でしかなかった。 この戦艦セヴァストーポリの場合もそうである。実施部隊からの報告では、とっくに 沈んでいる。であるのに、三笠はなお水雷艇を繰り出し、入念に攻撃した。夜襲部隊の 報告などを信じてその上で方針をたてればとんでもないことになるという気持が、すべ ての幕僚にあった。 濤理由の第二は、きわめて心理的なことであった。 もし戦艦セヴァストーポリ一艦といえども健在ならば、東郷艦隊は旅順封鎖を解 海くことができない。 という作戦上の大命題からの圧迫感が、東郷とその幕僚の気持を、針の尖のようにと さき
がいっそう切実になったのである。千人というのは、少佐が指揮する大隊程度の人数で あり、白いひげの陸軍中将がわざわざ指揮するようなものではない。 やがて柳樹房の軍司令部につくと、児玉は会議の準備を命じ、乃木の部屋で休息した。 ひどく疲れていた。 「乃木、プランデーはないかね」 と、きくと、乃木は、 「ある」 と、微笑し、行李のそばから一罎出してきた。グラスがないため、乃木は水筒のフタ をもってきたが、それよりも早く児玉は罎のロを唇につけていた。 作戦会議が、ひらかれた。 はじめの三十分、児玉に対して状況報告がおこなわれた。児玉は報告者のほうを見ず、 どういうわけか湯あがりのように顔を赤くして、そっぱをむいていた。さっき、プラン デーをのんだ。ま、 力あの程度のアルコールで酔うような男ではなかった。 ( もはや、会議も報告も必要ではない。命令あるのみだ ) 三と、児玉はおもっている。かれはこの第三軍幕僚たちに対し、作戦の百八十度転換を 二命令しようとしていた。いまの現段階では、それだけが必要であった。 児玉はやがて報告を打ち切らせ、立ちあがった。 びん
こへき ついでながら、日露戦争後、報告文の文飾性というのは、日本陸軍の痼癖のようにな ったが、これは乃木の癖による影響なのかどうか、どうであろう。上級司令部に対する 戦闘報告文は、化学実験の進行状態を報らせるような客観性が必要であるのに、日露戦 争後の日本陸軍にあっては詩人が用いるような最大級の形容詞をつかいたがった。もっ とも日露戦争中の各軍司令部の報告文は、乃木のそれのようではなかった。児玉が乃木 を叱ったことがあるように、乃木のもとから来る報告では、客観的戦況がっかみがたか 「某砲台を占領した」 というような文句が見あたらないことをみると要するにロシア軍にやりこめられてい ることはたしかであった。児玉のスタッフは、 敗けておりますな。 と、解読した。損害の様子をみると、敗けているどころか、日本軍の大崩壊をまねく かもしれないほどに手ひどい敗北であった。すでに初日の攻撃だけで攻撃再興がむずか しくなるはどの大量の生命が、長岡外史流にいえば「無益」に天に昇ったのである。 児玉は、急に立ちあがった。側の者がおどろき、問いかレた 「どこへいらっしゃいますこ 「ト便にゆく」 児玉は帽子をかぶって歩き出したが、方角が厠のほうではない。児玉は、戸外へ出た。 つつ ) 0
( どうも報告が、ツルツルすべってやがる ) と、直感した。大庭のいう状況が、いま現在の状況ではなく、数時間前の状況にちが いないとおもった。 大庭にとって、むりもなかった。かれは伊地知参謀長から児玉源太郎の出迎えを命ぜ られて、数時間前に軍司令部を出発したため、数時間前の状況しか知らなかった。大庭 はそれを一言うべきであったであろう。ところが児玉の形相のすさまじさに、数時間前の 状況を報告したのである。 「馬鹿ア」 と、どなったのは、児玉源太郎の性格的欠陥であろう。かれは、将帥として必要な人 格的形象とされている重厚温和な自己演出ができる人間ではなかった。なまで怒ったり 笑ったり喜んだりする人間で、ただ天性私心のすくない人間であるため、一種の愛嬌に なっていて、これによって人を無用に傷つけることはすくなかった。ただこの場合、大 庭二郎というこの時代の陸軍にとって稀少な才能に対し、心理的抑圧をくわえ、つい無 用の状況報告をさせるところへ追いこんだのは、まずかったであろう。 「大庭、いくさに数時間前の状況なんて、あるかア」 と、つづけた。大庭にとって、わかりきったことであった。 大庭は小さな声で、 「わかりました。すぐいまから状況をきいて参ります」
用意していた。戦争に変事はっきものであった。 こんみめい おおば 「はい。電話は第三軍司令部の大庭中佐殿からであります。二〇三高地は今未明、敵に 奪還されたそうであります」 「よ」イ 児玉は怒気で真っ赤になった。フォークとナイフを投げだし、それが皿にあたってむ こうへ飛んだ。 「田中、洋食なんそ食っているときか」 と、田中と洋食にあたりちらし、帽子をつかむなり立ちあがった。 児玉は、大体の様子を田中からきいた。 「そんなばかなことがあるか」 と、どなったのは、乃木軍が最初「占領した」と報告したその占領という一一一一口葉の概念 についてであった。なるほど乃木軍は山麓から中腹にかけて屍山をきずき血河を流した あげく、二〇三高地の頂上にある二つの堡塁を占拠した。一つは生存者は百人内外であ り、一つは四十人前後である。乃木軍はそれに対する兵員、弾薬、食糧の補給をせす、 地 1 はるか後方の軍司令部で現地から何段階か経た報告をきいただけで総司令部に報告した 二のであろう。つねに児玉が不満におもっているように、乃木軍司令部から参謀みすから が二〇三高地に行っていない証拠であった。
う冒険作戦まで実施していた。 このため好古のもとにはふんだんに敵のうごきについての情報が入り、そのつど総司 令部に報告した。とくにこのたびのロシア軍の攻勢についてはそれを推察しうる情報が ふんだんにあり、そのつど報告したが、そのつど松川敏胤は、 「また騎兵の報告か」 と、ほとんど一笑に付し、一度といえども顧慮を払わなかった。 「ロシア軍が、冬季攻勢するはずない」 という、もはや信仰化したとさえいえる松川の固定概念によるものであった。 その理由のひとつは松川たちの疲労にもよるであろうが、ひとつには常勝軍のおごり が生じはじめたためであろう。かってはかれらは強大なロシア軍に対し、勝利を得ない までも大敗だけはすまいと小心に緊張しつづけたころは、針の落ちる音でも耳を澄ます ところがあったが、連戦連勝をかさねたために傲りが生じ、心が粗大になり、自然、自 分がつくりあげた「敵」についての概念に適わない清報には耳を傾けなくなっていたの である。 台日本軍の最大の危機はむしろこのときにあったであろう。 溝 黒「ミシチェンコ大騎兵団の襲撃は、沙河滞陣の夢を破った」 と、黒溝台会戦の幕開けをなしたこの大騎兵集団の運動について、日本側の多くの記 おご
本来、この報告も、 「占領セリ」 などとせず、 「香月隊ノ残兵百、村上隊ノ残兵四十ガ、ソレゾレ山頂ノ二堡塁ヲ占拠シアリ」 という正確さで報告してくれば、総司令部のほうも、 乃木軍司令部としては、それでどういう処置を講じつつあるのか。さらに敵状は と , つか という質問もできたにちがいない。 「占領」 というのは戦争の完結もしく戦闘行為の終了を意味するものであり、だからこそ児玉 は乾杯したのだが、しかし、この場合、およそそういう用語がっかえないはずであった。 ( 予定のごとく、自分がゆくしかない ) と、児玉が最初にとった行動は、大山巌へ電報を打っことであった。 「自分の指揮下に入らしめるために、歩兵一個連隊をすぐさま南下させてほしい という旨のことを乞うた。その大山からの返電を待たず、児玉は例のかれの専用の汽 車に乗った。汽車はいったん北上し、三十里堡から旅順へむかうレールに乗り、南下し その汽車のなかで、
すぐ馬隊を散らせ、偵察させる一方、騎走して付近の高地のかげに兵力を集中した。 やがてもどってきた馬隊の報告によれば、 コサックざっと千騎。砲数門 という。この報告も誇大であった。 永沼はすぐにはその数字を信じなかったが、しかしたとえ六倍近い敵とはいえ、これ と正面から戦闘を交えようとした。すでに新開河において鉄橋爆破の目的を達している 以上、もはや退避する必要がなかった。 「やってみる」 と、永紹は決、いした。 永沼秀文は、 ( 日没後に戦闘をはじめよう ) とした。劣勢をもって優勢な敵をやぶるには夜間の戦闘以外にない。まして敵は砲を もっている。砲は夜間の照準が困難であった。 台 この日、月齢は十一である。すでにタ刻から東天にかかっているから、夜間行動のた 溝すけになる上に、地上はこの一望の白銀世界であり、行動に不自由はない。 黒永沼は、偵察によって敵の所在はほばっかんでいただけでなく、敵は不必要なほど広 正面に散開していた。コサックは密集している場合はおそろしいが、散開している場合
ドンに送っており、それらの整理と日本への報告は宇都宮太郎中佐がやっていた。その 宇都宮太郎から、再三にわたって、 「ロシア軍は満州においてあらたな攻勢を準備しつつある」 と、東京の大本営に報告してきていた。大本営はそれを現地の大山・児玉に報らせた。 これらヨーロツ。ハ経由の諜報に対する日本の満州軍総司令部の鈍感さは、おどろくべ きものがあった。 「ロシア軍が攻勢に出るなど、そんなばかなことがあるか」 という態度で終始した。 「この厳寒時に、大兵力の運動はとてもおこなえるものではない」 というのが、その唯一の理由であった。 この態度は、参謀松川敏胤大佐が最初からとりつづけていたもので、児玉源太郎はこ の松川の能力を信頼するところが深く、 「そのとおりだろう」 台と、かれもまたそう信じた。 溝戦術家が、自由であるべき想像力を一個の固定概念でみすからしばりつけるというこ 黒とはもっとも警戒すべきことであったが、長期にわたった作戦指導の疲労からか、それ とも情報軽視という日本陸軍のその後の遺伝的欠陥がこのころすでに芽ばえはじめてい