290 もうき この季節にしては海上はおだやかで、西方に多少濛気があり、このため左舷にみえる すいたい 五島列島の山々が、淡くひと刷けで刷いたようにかすみ、いかにも翠黛といった感じの 色調をなしていた。 ( いかにも、日本だな ) と、真之はおもった。絵心のある真之は日本の風景は水蒸気がつくっているとおもっ ており、この風景の感情的表現は油絵のえのぐでは至難であると考えていた。 昼食のあと、真之は前甲板まで散歩した。前部主砲の下をくぐって右舷に出ると、平 どしま 戸島がみえた。島の上に白雲がかぶさり、その下に竹木が繁茂し、いかにも物成りのい い国であることをおもわせた。これも水蒸気の多い気候風土のおかげであるにちがいな っ ? ) 0 ・・刀ナ′ 日本は、外国に売るべき資源もなく、ただ水つばい土壌の上に成る稲の穂をしごいて は食っているだけの農業国家にすぎなかったが、無理に無理をかさねて三笠のような軍 艦をもち、大海戦をやるに堪える連合艦隊をそろえた。この国土のどこからその金をひ ねりだしたかとおもうと、真之でさえ奇蹟のようなおもいがする。 ( これも、水蒸気のおかげか ) と、ふとおもったりした。 はるがすみ 水蒸気といえば、海上に春霞の立ちこめるころにバルチック艦隊が日本にやってく るようなことになれば、東郷艦隊は相当な不利益を覚悟しなければならない。 さげん
といわれる黒溝台会戦は、一月二十九日黎明のロシア軍の退却をもっておわりを告げ この会戦に参加した日本軍の戦闘兵力は、最終的には五万三千八百人である。うち死 傷九三二四人。 ロシア軍の戦闘兵力は十万五千百人。その損害は一一七四三人。 ロシア軍の側からいえば、最大の勝機を逸したというべきであろう。これだけの大軍 が、これほど整然たる組織運動をかさね、各地で日本軍の小部隊を蹴ちらして南下しな がら、その所期の目的を達することなく、九割の健康な兵力をのこしながら退却したと い , つのは奇少とい , つほかない この大作戦を担当したグリッペンベルグ大将が、なおもう一日戦闘をつづければ、五 割に減少してしまっている立見師団を圧し潰すことは容易であったにちがいなく、もし これを敢行して日本軍の後方にこの十万の大軍が出現すれば、煙台の総司令部自体が書 類をかかえて逃げ出さざるをえなかったであろう。 さらにこのとき、日本軍正面で大兵力をにぎっている総司令官クロバトキンが、その 大兵力をもって日本軍の中央および右翼を衝けば、ーー戦術上では初歩的な常識だが 縦深が浅くいわば多分に見せかけの布陣をしている日本軍は兵力が分散し、四分五 裂し、ついには潰滅したであろうことは、たれがみてもあきらかであり、おそらく日露 戦争はこの一戦で終了したにちがいない。
の左翼を警戒し防衛するといういわば非騎兵的任務であった。それが、あるいは兵力僅 少な日本騎兵として当然なありかたであったかもしれないが、その警戒と防衛という任 務にしても、わずか八千で四十キロの広正面をまもるということは半ば不可能にちかい。 このため、かれは、 「拠点式陣地」 という方法をとった。その拠点群のうち四大拠点というべきものが、かれの司令部の ある李大人屯付近、三岳於菟勝中佐 ( 騎兵第十連隊長 ) の韓山台付近、豊辺新作大佐 ( 騎兵第十四連隊長 ) の沈旦堡付近、それに種田錠太郎大佐 ( 騎兵第五連隊長 ) の黒溝台 付近であった。 この四大拠点それぞれに枝が出ていて小拠点が多数ある。いずれも部落のまわりに散 兵壕を掘り、前面に障碍物を設け、土壁には銃眼を穿って堅固に城郭化し、それをもっ て小兵力で敵の大軍と対決しようというものであった。 ( 敵が三万やってきてもなんとかやれる ) という自信が好古にあった。しかしながら現実にやってきた敵は、十万以上であった。 これより前、日本がもっているただ二つの騎兵旅団のうちの騎兵第二旅団の旅団長が 代わった。さきに本渓湖戦闘で機関銃の威力をもってロシアの大軍を破ったときは、閑 院宮が旅団長であった。宮はその後総司令部付になり、かわって少将田村久井が就任し おとかっ
264 馬のひづめをすべらせた。軍司令部付の兵卒たちは車に荷をのせて駄馬をひき、そのう ちの田中良三という兵卒が、遠ざかってゆく柳樹房の村をふりかえって、 「もう来ることはあるまい」 と、涙ぐみ、下士官に笑われた。軍司令部の雑用をやっているかれは五カ月間、あの けつきょ つるが 村でほとんど穴居同然の生活をしてきた。かれは福井県人で、敦賀の第十九連隊に入営 し、出征した。かれは幸運にも軍司令部付の兵になったからよかったが、かれが初年兵 であったころの連隊の将校はこの攻城戦でほとんど戦死し、かれの同年兵も生き残って いまこの北進軍にまじっている者はかそえるほどしかいなし やがて柳樹房が止のかげになって見えなくなったあたりに、小さな川がある。川は凍 っていて、橋を必要としなかった。 天はいよいよ暗くなり、雪が降るかとおもわれたが、雪よりもさきに夜がきた。乃木 やみ 軍司令部の一行は、かまわずに闇のなかをすすんだ。かれらは孤軍ではなかったにせよ、 闇夜の北上はさながら孤軍のような死相を感じさせるものがあった。 長嶺子停車場には、列車が待っていた。 乃木やその幕僚たちのためには三等車が二輛用意されており、その他の軍司令部要員 ゅ・う・ ~ かい のためには有蓋貨車が十輛ばかり用意されていた。高級者が乗る三等車にも、他の要員 が乗る有蓋貨車にも暖房の設備がなかった。 列車は、午後九時三十分に発車し、北へすすみはじめた。
文春文庫 司馬遼太郎の本 ( ) 内は解説者 司馬遼太郎 長年の間、日本の歴史からテーマを掘り起こし、香り高く豊か。 な作品群を書き続けてきた著者が、この国の成り立ちについ この国のかたち ( 全六冊 ) て、独自の史観と明快な論理で解きあかした注目の評。 司馬遼太郎 山本七平、大江健一一一郎、安岡章太郎、丸谷才一、永井路子、立花 隆、西澤潤一、・デーケンといった各界の錚々たる人びとと 八人との対話 文化、教育、戦争、歴史等々を語りあう興深い内容の対談集。 司馬遼太郎 すぐれた行動力と明晰な頭脳を持ち、敵味方から怖れと期待を 5 最後の将軍徳川慶喜〈新装版〉一身に集めながら、ついに自ら幕府を葬り去らなければならな し かった最後の将軍徳川慶喜の悲劇の一生。 ( 向井敏 ) 井上靖・司馬遼太郎 少年の頃からの憧れの地へ同行した一一大作家が、興奮も覚めや らぬままに語った、それぞれの「西域」。東洋の古い歴史から民 西域をゆく 族、そしてその運命へと熱論は続く。 ( 平山郁夫 ) 司馬遼太郎 土佐の郷士の次男坊に生まれながら、ついには維新回天の立役 亠黽馬がゆ 2 、〈新装版〉 ( 全八冊 ) 者となった坂本竜馬の奇跡の生涯を、激動期に生きた多数の青 春群像とともに大きなスケールで描く永遠の青春小説。 司馬遼太郎 「関ヶ原の戦い」と「清教徒革命」の相似点、『竜馬がゆく』執筆 歴史と風土 に到るいきさつなど、司馬さんの肉声が聞こえてくるような 話集。集第一期の月報のために語られたものを中心に収録 し -1 ー 63 し一ト 66
241 大諜報 っさいの不幸のなかには、むろん日露戦争もふくまれていた。 と、こばした。い 「今日は許可するかとおもえば明日は禁ずるという。ああいう当てにならない性格では、 とうていロシア帝国を安定させることはできない」 皇帝は、つぎの内相として暴力政治家という異名のあったトレポフ将軍を任命した。 同時にペテルプルグ総督の職を兼務させ、弾圧政策に乗りださせた。 が、その報復はすぐ来た。皇帝の叔父であるモスクワ総督セルゲイ・アレクサンドロ ウィッチ大公が、モスクワの街頭で社会革命党員の投げた爆弾のために馬車ごとくだか れ、殺されてしまったのである。 ともあれ、一月以後、ロシアの社会不安は、もはや革命前夜という様相を呈しはじめ
好古は、水筒のそばに、装弾したピストルを置いてある。敵の騎兵がこの司令部に突 っこんできたとき、そのときはもうやむなく、 ポンとやるつもりだった。 と、のちに語っているが、実際のところそれ以外にない。 「これからど , つなき、いますか」 「ど , つもこ , つも、ないよ」 好古は、田村の顔をみて、ニャリとわらった。持ち駒 ( 予備隊 ) も出しきっている上 に、援軍にきたはずの立見尚文の弘前師団自体が途中で敵に包囲されて立ち往生してし まっている以上、好古としては自分が死骸になってしまうまでここに踏みとどまってい る以外にな、。 そのあいだも司令部の前後左右に砲弾が落ちては爆発し、このままではこの司令部が 吹っとんでしまうのも時間の問題のようにおもわれた。 「おれに出来ることは、こうしてここにすわっていることだけだ」 と、好古は立っている田村に水筒のフタをわたし、プランデーを注いでやった。田村 がためらっていると、 しようちゅう 「飲め。焼酎よりはうまい」 っ
「私の父はワルシャワに入ってきたロシア軍の銃剣のために」 と、心臓を示し、「突き殺された」と言った。さらにかれは、われわれの世代がこん どは日本軍の銃剣のために殺されようとしている、と意外なことをいうのである。 「日本軍は、ワルシャワにいない」 と、明石は負けずにどなった。 「満にいる」 モトは、叫んだ。 かれのいうところは、。、 ホーランドの農民がどんどん徴兵されて豚のように貨車にほう りこまれ、そのままシベリア鉄道で送られつつあるという。 「開戦当初、クロバトキン将軍の指揮刀の下で銃をとらされている兵士の一五バーセン トはロシア人じゃない、。、 ホーランド人だ」 と、モトは、おどろくべきことをいった。この比率はおそらく正確ではないであろう。 しかし多数のポーランド人が戦線へかり出されていることはたしかであった。さらにモ 「その後、徴兵はどんどん進んで、いまは三〇バーセントまでがポーランド人である」 と、 「憎むべきロシアのためにポーランド人が戦場で忠誠をつくさねばならぬというばかな えんこん ことがあるであろうか。さらにはなんの怨恨もない日本兵をポーランド人が殺さねばな
のがやっとであり、他師団にさしすをしているような余裕がなく、さらにはそれをやる だけの電話、伝令といった通信機能をもっていない。あるいは、 「軍」 を運営するには、軍司令部に戦場諜報のための機能をもっていなければならないが、 師団司令部でしかない立見の機能はそれらを持っておらす、全般の敵情などわかるはす がない。敵清もわからすに、何個師団といった大軍をうごかすことはできないのである。 「どうせ、年功序列を無視してやるなら、敵情にあかるい秋山を臨時軍司令官にすれば 、じゃよ、 ナ : し、刀」 と、大島義昌がいったというが、むろん少将が中将を指揮できるわけはなかった。 これらの実情と、混乱した戦況下にあったために、各師団長は立見の指揮はうけす、 直接司令部の指揮をうけた。 「臨時立見軍」 というのは、戦史の上だけのまばろしの呼称になった。 一方、総司令部の空気は、二十七日の夕刻ぐらいから落ちつきをとりもどした。 台 溝児玉源太郎は一時は逆上したが、しかし、 黒「おれが逆上してはどうにもならん」 と正直に自分を大笑し、
と懇願するというその程度のものでしかなかったのだが、しかし皇帝は姿をあらわさ 、なかつ」。 このデモ対策については、前夜、内務大臣ミルスキー侯爵の私邸で会議され、結論が 出ていた。 「武力鎮圧」 とい , っことである。 ウィッテは、内務大臣ミルスキー侯爵の政治的姿勢を高く評価していた。 「ミルスキーほどの人物が、なぜこのように愚劣な対策をたてたか、ふしぎでならない その原因は、かれが信頼した警視総監フロン将軍の無能にあるようだ」 という意味のことを、ウィッテは書いている。 が、この「血の日曜日」の演出者が、はたしてミルスキー内相やフロン警視総監であ ったかどうかは、、 しまとなれば疑問である。 ミルスキー侯爵の思想は、ウィッテよりもさらに開明的であった。 ウィッテ自身、かれの人柄について、 報「水晶のように高雅な人柄で、まれにみるほどの魂をもった教養人」 諜としており、ただ体があまり丈夫でないのと、政治には素人であることだけを欠点と 大していた。 ミルスキーは権力欲もつよくなく、プレーヴェが暗殺されたあと内相に擬せられたと