っ ? ) 0 ペテルプルグの日本公使館が、開戦によってひきあげたのは、明治三十七年二月八日 で公使以下一路ストックホルムをめざした。交戦中はストックホルムに公使館を移して おくというのが、栗野の計画であった。 「ストックホルムなら、相当情報も入るよ」 と、栗野は明石にいったし、明石もその点で期待していた。栗野も甘かったし、明石 もその程度の間諜感覚でしかなかった。スウェーデンは独立国であるとはいえ、ロシア おそ の侵略主義を怖れること虎のごとく、ロシアの官憲がまるで自国のそれのようにその首 都ストックホルムの政府機関に目をひからせていて日本人の諜報行為などとてもゆるさ ないという事情が、到着後わかった。 ペテルプルグの公使館で国交断絶の報に接した明石は、 けいめし 「鶏鳴をきいて夜あけをむかえる思いがした」 と、語っている。 報その日、その思いを詩にした。 大城中夜半鶏鳴を聴き 枕を蹴って窓前月明に対す
「カストレン : 明石はその名を何度もつぶやいて記憶し、ただその名前だけを資産にしてストックホ ルムに乗りこんできたのである。かれには間諜物語にあるような精密な計画もなく、劇 的な活劇性ももたなかった。 かれはストックホルムの駅につくや、迎えにきたストックホルムの公使館員のなかか ら若い通訳生をえらび、 「君、ちょっとここへ使いに行ってくれんか」 と、カストレンの名とその住所書きを出し、 「日本の陸軍大佐明石元二郎という者が会いたがっている、時間と場所を指定してほし という意味の手紙をわたした。適当な仲介者をえらぶでもなく、まして偽名をつかう でもなく、およそスパイらしくない方法をとったのである。 これについて明石はのちに、 「おれにはそれしかできなかった」 いだ こうち いっている。明石は巧緻な技術を駆使するよりも、いきなり目的を掻い抱いて相 諜手のなかへとびこむという方法をとった。 大明石が目的としていることは、カストレンというこのフィンランド志士の長老に日本 ぎようてん のスパイになってもらいたいということをたのむことであった。カストレンは仰天す
想しているらしいことを察した。 スウェーデン王国の首都ストックホルムにも、日本の公使館はある。 が、この当時、駐露公使の兼務になっていたから、公使栗野慎一郎にとってはいわば 分室へゆくようなものであった。 かれら一行をのせた列車がストックホルム駅についたとき、ホームに多数の紳士や軍 人があつまっていたから、栗野でさえ、 ( これはなにか ) と、けげんにおもった。ところがそれらがことごとく口シアをひきあげてきた自分た ちを歓迎するためのひとびとであることを知って、栗野以下は驚嘆した。 「極東の小国である日本が、ロシア帝国に対して開戦した」 という報道は、この国のひとびとの耳目を最初は疑わせた。が、やがて日本の勇気に おどろき、次いでこれをひそかに支持しようとした。 スウェーデンにとって歴史的に絶えざる恐怖というのは、ロシアの侵略主義であった。 すでにロシアは百年前にフィンランドを奪い、これがためにスウェーデンはその北境を ロシア領フィンランドに接するはめになっているのである。いっロシアはその北境から 攻めこんで来ぬともかぎらず、スウェーデン外交というのはこの恐怖を中心に旋回して いるようなものであった。そのロシアに対して日本が開戦したというのはスウェーデン
174 立しているということだった。このため、金をわたしてかすめとられてしまったという ようなことは一度もなかったという。 明石はその活動の基盤をストックホルムでつくったということは、しばしばのべた。 が、同地はなんといっても小都会である。それにロシアの高等警察の連中が入りこん でいて、行動が不自由であった。さらには、この土地の新聞記事は速報性を欠いており、 おなじ記事でもベルリンやバリ、ロンドンといった都会の新聞より一日ないし一日半遅 れて掲載される。 か′」 ( 早晩、ここを離れねば、籠の鳥になる ) と、明石はおもい、東京の長岡外史あて、欧州の諸中心を転々としたい旨を希望した。 「ただ自分にとってストックホルムはありがたかった。今後の活動のための基礎や糸口 がこの地でできあがったからである」 と、明石は書いている。 かれの活躍ぶりは、かれがこの街の駅におりてからわずか五日後に、フィンランド独 立志士の秘密大会をひらいたことでもわかる。むろんこの大会はカストレンやシリヤク きもい スの肝煎りでおこなわれたのだが、明石はこのおかげでその全員を知ることができた。 「明石の仕事をたすけよ」 と、カストレンもシリヤクスも、その同志のひとりひとりに明石をひきあわせた。こ
188 明石は、各地に出没した。 が、不平党の連中がかれに連絡をとろうとおもえば、すぐとることができた。ロンド ノ、ベルリノ、バリ、 それにストックホルムに駐在している日本の武官にそう申し出れ ば、たちどころに通信できた。明石は連絡網を十分にしていたから、かれの在欧中、所 在不明であったことは一日もなく、この点ひとつでもこの男がいかに異能の人物であっ たかがわかる。 あるとき、明石はストックホルムのホテルに舞いもどっていると、不平党の知人から 連絡があり、 「一人のコーカサス ( カフカズ ) 人に会ってやってほしい。かれは満州の戦線から脱走 してきたロシア陸軍の現役少尉である」 ということで、明石は待った。待ちながらも明石は、 ( そういう事実がありうるだろうか ) と、半信半疑であった。戦闘中の軍隊というものが、どういうものであるかは明石も 軍人であるだけに知っているし、その上、属領から徴兵してきた兵士を多数かかえてい るロシア軍は、逃亡についてはじつに警戒が厳重であることを知っていた。さらには満 州は遠い。このころ、明石は極東ということばをつかわす、絶東ということばを使った。 絶東とヨーロッパのあいだには、人煙まれなあのシベリアという踏破困難な自然がよこ
178 これについて、明石は後年いう。 「シリヤクスは、かっての虚無党時代からの元老であった。しかもロシアをはじめ各国 の不平党の要人に親交が多く、あらゆる国境をこえ、あらゆる党派を越えてかれは信頼 されていた」 そのシリヤクスが、日露戦争というこの好機をとらえ、明石という資金面での援助者 をえて、 「ロシアをふくめた全ヨーロッパの不平党の大会をひらき、対露運動の方針を決定した 。その会場は、かの自由なるパリにしたい」 という目的をみずから決め、ただちにそれにむかって行動を開始したのである。シリ ヤクスの行動力はすばらしいもので、かれはそのために春にストックホルムをとびだし、 ヨーロッパ各地をあるき、四カ月の遊説ののち、ほばそれを決めてストックホルムへ帰 かん ってきた。この間、明石もひそかに同行した。明石はこのおかげでヨーロツ。ハじゅうの 革命運動の名士と知りあうことができた。 そうわふう この二カ年の明石の動静を挿話風に点描してみたい。 かれはポーランド不平党の各派とも密接な関係をもった。 ある日、シリヤクスは、 「ここにポーランド社会党の常務委員をしている人物がいる。変名をいくつかもってい ゅうぜい
150 おうこうえいり 思いは結ぶ鴨江営裡の夢 ちょうげい 分明一剣長鯨を斬る スウェーデンの首都ストックホルムへむかう途中、公使館の文官のなかには、 「とてもこのような大国と戦争をしても勝ち目がない。日本は早まったことをした」 と洩らす者がいた が、明石は、 ( やりようによれば勝てる ) えんさ とおもったのは、帝政ロシアの官僚の腐敗と専制に対する人民の怨嗟の声が、その内 情を知れば知るほど深刻だということがわかり、これを煽動すれば帝政はその内部から 崩壊するのではないかと思ったからであった。この明石のロシアの実情把握は、文官の たれよりもずばぬけていた。さらには明石は、 ( それ以外に日本の勝っ道はない ) と、おもっていた。しかしながら明石はその決意については栗野公使にも話していな つつ 0 栗野はただ、 明石は日本に帰らず、ヨーロッパでロシア情報をあつめる仕事をするらしい とい , っことだけはわかっていた。
200 帝政ロシアを倒してくれるかもしれない日本人を殺すことは民族のために有害でさえあ った。そのことはポーランドにおけるすべての反露運動家がそう信じていた。 明石は、そういう背景のもとに、 「ポーランド人をこそこの大会にひき入れねばならない」 とおもっていたが、しかしすでに触れたようにポーランド反露諸派のなかには、ロシ アの弾圧をおそれるあまり、この大会に参加すまいという動きがあることも事実であっ 九月のはじめ、明石はストックホルムからロンドンに転じた。 そのとき、ロンドンの日本公使館にポーランド社会党の首領のヨードコーとその幹部 数人がたずねてきたのである。 「こんどの大会について、一部に疑念がある」 と、ヨードコーがいった。ヨードコー自身はこの大会に賛成であったが、その傘下の 亠名〔」は、 背景に日本のスパイの明石がいる。 ということで不参加を主張する者があり、ヨードコーとしてそれをおさえきれない、 というのである。 明石は、即座にいった。 「この大連合を立案し、推進させているのは、あくまでもフィンランド人のシリヤクス ) んか
156 るであろう。 が、明石にすれば、 「スパイをたれかにたのまなければならないが、たれがこの困難な勤務に適当であるか は、すこしも自分は知っていない。知るよしもない。だから目をつぶって危険のなかに とびこむしかなかった」 ということであった。 明石は駅舎を出た。 栗野公使は馬車だったが、明石は徒歩で公使館までゆくつもりで歩道をあるいた。公 使館にたどりつくころには、カストレンからの返事が待っているであろう。「すぐ会う」 といってくれれば、この旅装のままで出かけるつもりであった。 ストックホルムの街は、明石は三度目であったが、住んだことがないため地理がわか らない。途中、何度か通行者をつかまえては「日本公使館はどこにあるか」ということ をきいた この街には、フィンランドからの亡命者が多い たとえば明石は公使館へゆくまでのあいだに、ひとりの老紳士によびとめられた。 皮膚はヨーロッパ人のそれのようにピンク色であったが、貌はややひらたく、あごが こんせき 出張って、遠いむかし中央アジアから攻めこんできた遊牧民族の痕跡を濃厚にのこして かお
これからなにをすべきかがわからないようであった。 「君が今後、革命運動をやるというなら、私がしかるべき人物を紹介してあげよう。と りあえず、私はロシア軍の実情をききたい」 と明石がいうと、青年は、そのために私は帰ってきたのです、申しあげます、とかれ は知りうるかぎりの極東の戦線の実情を語った。たかが少尉程度の青年では統帥上の機 密までわからなかったが、明石にとって重大な参考事項は、ロシア陸軍の病患がいかに 深なものであるかということであった。 明石は、多くの間諜をつかっていた。 「不平党の好意にすがるより、やはり金で仕事をする職業的間諜のほうが有能だし、使 いやすくもある」 というのが、明石の結論であった。 職業的間諜のなかには、おそろしいほどに有能な者もいた。しかしそうでない者もい 明石は、ストックホルムでの連絡はすべて長尾という中佐に一任していたが、この長 尾が、 「どうもクリのやつは無能でこまる」 と、明石にこばした。クリというのはかれらの隠語で、名はわからない。明石にも長 つ」 0