328 るという。古来、この海に、他人からみればまったく理由もなく飛びこんで死ぬ者が多 いが、この艦隊でもそうであった。汽船キエフの水兵がとびこんだ。これをすくいあげ るべくキエフは大さわぎしたが、ロジェストウエンスキーは「捜索ヲャメョ」と信号し て汽船をすすませた。二等巡洋艦ジェムチューグにもそういうことがあった。 艦隊は、洋上でしばしば停止した。 ある艦が故障したといえば洋上修理ということでいっせいに停止し、石炭搭載のとき も停止した。 「ロジェストウエンスキーの奇蹟」 とまでいわれたこの大航海は、たしかに奇蹟というにふさわしかった。 極東への途中、一カ所も給炭所をもたずにかれらは航海し、なおつづけようとしてい るのである。 なるほどフランスは露仏同盟のよしみによってたしかに好意的であった。しかしその 植民地の港をこの艦隊に開放しなかった。開放したい気持はやまやまあっても、日本政 府はフランスに中立国としての厳正な態度をまもらせようとしばしば申し入れをしたり、 ときには抗議をしたりして、じつに執拗であった。フランスはじつのところ、日本国な どをなんともおもっていないのだが、しかし日本の背後にいる英国に遠慮をし、そのぶ んだけパルチック艦隊へのサービスをひかえた。
フランスの政界や一一一一口論界にはたらきかけて、 「あの苛酷なロシア帝国政府を攻撃してもらいたい」 とたのんだとき、頼まれたひとびとはほとんど断わらなかったことでもわかる。のち に上院議員になったクレマンソーもそうであり、政界に大きな発一一 = ロカをもっジョレスも そうであった。さらにはアナトール・フランスも賛同した。かれらは当時の日本的感覚 からいえばおそるべき反資本主義の徒であったかもしれないが、フランスの思想家では べつに破壊的な暴徒の親玉というべき存在ではない。帝政ロシアの暴政というただ一占 において他国のことながら義憤を感じている連中であり、かれらがっかんでいる帝政ロ シア観というものについて日本の新聞記者は多少の知識をもつべきであった。 新聞の水準は、その国の民度と国力の反映であろう。要するに日本では軍隊こそ近代 的に整備したが、民衆が国際的常識においてまったく欠けていたという点で、なまなか な植民地の住民よりもはるかに後進的であった。 ロシアの革命勢力の徒に対し、 「不忠者」 報と呼ばわらんばかりの見出しを、ロシアの敵国の新聞がつける滑稽さはどうであろう。 諜要するに、この当時の日本人は、ロシアの実情などはなにも知らずに、この民族的戦争 大を戦っていたのである。 ついでながら、この不幸は戦後にもつづく
港内に碇泊していた二隻のフランス海軍の駆逐艦が、ロシアの艦隊がうごくとともに うごきはじめた。艦体を真っ白に塗ったこのうつくしい小型艦は、 「航海の安全を祈る」 という信号をマストにかかげ、港外まで見送るつもりであった。 旗艦スワロフの後甲板には、軍楽隊が烈日と微風のなかで、華やかな演奏をはじめた。 碇泊中フランスからうけた厚意を謝し、かっその駆逐艦の見送りにこたえるために、 「ラ・マルセイエーズ」を吹奏した。 ロジェストウエンスキーは、艦橋にしオ そのそばに艦長イグナチウス大佐が、フランス駆逐艦をながめつつ、おだやかに微笑 していた。この大佐は、ロジェストウエンスキーと戦術について語りあったことはなか ったが、この艦隊の前途には神のたすけ以外に光明はないとみていた。しかし平素、態 度にはすこしもあらわさず、つねに豊かな微笑をたやさず、ときどき品のいい冗談をい ったりした。 出港は、士気を大いにあげた。士官室も活気づいていたし、艦のあちこちを駈けまわ はつらっ 洋る兵員の動きも漫剌としていた。 度 印大艦隊は、印度洋を東進した。 この世界第三番目の大洋を最初に横断した冒険家は、おそらく紀元前のフェニキア人
1 18 むろん多少重心が高くても、艦底に石炭を満載すればずっしりと吃水が深くなり、吃 水が深くなれば重心は降下してきて、復原性がよくなる。 「ロシア戦艦は腰高」 というのは、具体的にいえば上部構造物がごたごたとたくさんあって、大きくかつ高 く、このため一般的には「重心が高い」ということになる。つまり不安定ということな のである。 その上部重量を少しでも軽くするため艦体の下 ( 大ざっぱないい方だが ) がフラスコ の尻のようなかっこうになっている。つまり吃水よりすこし上のほうから艦底にかけて のかっこうを断面図でみると婦人のヒップのように大きい。これはフランス人が考案し たもので、フランス戦艦はほとんどがこれであり、仏式の多いロシア戦艦もこれを踏襲 している ( 日本の戦艦は英式だからこういうヒップはついていない ) 。 このため、英式軍艦を見なれた者の目からみれば、仏式のロシア戦艦の舷側から吃水 にかけての姿はひどく異様にみえる。 ロシア戦艦の構造、つづく この仏式の新戦艦たちは艦体の断面図が舷側から艦底にかけて婦人のヒップのように ひどく安定感がありげにはみえるが、しかし重大な欠点がある。 しり きっすい
もたせる結果をうんだ。 日露双方の主力艦の質については、福井氏は、 「ともに一優一劣であって、まず同一のレベルといっていい」 と、 いっておられる。 以下、福井氏の研究から多くを得た。もし記述にあやまりがあれば、この稿の筆者の 責任である。 福井氏は、両国の戦艦を比較しておられる。その結論を借用すると、 「概して、日本の戦艦のほうが、個艦として優越している。排水量が大きく、速力も早 「ロシアの戦艦の大部分は自国の建造である。しかしフランス式の設計のものが多く、 なかには米国の建造艦もふくまれる。このため、艦型、性能、兵装が雑多である」 しまいかん 日本海軍は、山本権兵衛の海軍設計によって姉妹艦方式をとっているだけでなく、お なじ力をもった艦が足をそろえて行動できるようにいわばセット制になっているのに対 し、ロシア海軍はその点の配慮がわすかしかなされていない。 ロシア海軍は、その造艦設計においては多分に独創的であった例をいくつももってい るが、しかし他国の優秀な技術を導入する努力はそれ以上に払ってきた。 とくに、極東の風雲があやしくなりはじめた明治三十一年から同三十二年にかけて、 アメリカとフランスへそれそれ一隻ずつの戦艦を注文し、仏では「ツェザレウィッチ」、
四連隊の隊付になった。この明治十四年のころ、グルノープルのような田舎では世界の 地図に日本というような国があることをうすうすでも知っているのはよほどの知識人で、 上原は停車場付近の食堂でめしを食っていると、大ぜいあつまってきて、 ーー汝は何人種なりや。 と、めずらしがった。上原はフランス陸軍の軍服を着ていたから、ひとびとはいっそ う珍奇におもったらしい 上原が日本の地理的位置を説明すると、 「そんな遠い所から徴兵されてきたのか」 と、口々に声を放って気の毒がった。日本がどういう国かは知らないが、極東におけ るフランスの植民地だろうとかれらはおもったのである。 この上原が帰国後、エ兵の育成にあたったのだが、ただ陸軍は好古を騎兵に専念させ たのとはちがい、上原を他にも転じて用いたため、かれが軍政的にエ兵に本腰を入れだ したのは、エ兵監になってからであり、その期間は日露開戦の前わずか二年半ほどの期 間であった。この期間に、日本のエ兵技術はたしかに面目を一新している。 ただあまりにも多岐にわたって革新しなければならなかったため、要塞攻撃に対する 坑道掘進の技術だけはおろそかにした。上原はのちに、 「あれが失敗であった。工兵の坑道掘進術と技術がしつかりしておれば、旅順要塞の攻 撃法もちがったものになっていたろうし、あれだけの犠牲をはらわずに済んだろう」
として発航せしめたロジェストウエンスキーとその艦隊をして、二カ月という長期間 マダガスカル島の漁港で足ぶみさせていたのか。 その基本的理由は右にふれたとおりであろう。それに付属する理由として、この時期 「タイムズ」 ( ロンドン ) がしばしば亠珊評しているよ , つに、 ろうれつ 「ロシアの行政組織の陋劣さ」 にある。 陋劣といっても、なお抽象的であるかもしれない。陋劣とは行政組織の機能性がひく いということもあり、さらには官僚の怠慢、無責任ということもあるかもしれない。 この時期の「タイムズ」は、ロシアの戦費を計算した。「タイムズ」自身の計算とい うよりも、「タイムズ」が、フランスの経済学者レヴィーが出した数字を信頼したとい ったほうが正確かもしれない。 それによれば、ロシア陸軍三十万が満州の野で戦闘する経費は、一カ月に六百万ポン ドから七百万ポンドであるという。 ところで、その計算によると 、バルチック艦隊を東洋へくりだすについてかけた経費 は、三千二百万ポンドであるという。海軍がいかに金を食うものであるかがわかるが、 その経費の一半は艦船の整備費であった。 一半は、回航についての費用である。そのなかでも石炭の購入費が大きい。 石炭という物質そのものは値の安いものであるとしても、一万八千海里という長大な
反対の理由は、ロシア人民の悲惨さに対する同情もあったが、それ以上に、この歴史 家の目からみればロシア帝国は遠からず自壊するものと見かぎっているところもあり、 その学生たちに、 「諸君はどうあってもロシアの募債に応じてはいけない。さらに諸君は諸君の父君にこ う告げる必要がある。絶対にこの募債に応じてはならないと。その理由は諸君の家産が この募債に応ずることによって破壊されるからであり、ひいてはフランスの経済が混乱 するからである」 と、繰りかえしいった。要するにロシアに金を貸せばモトも子もなくなってしまう、 ということであり、借り手のロシア帝国そのものがいずれ消滅するということを暗に予 一一 = ロしたのである。 明石のしごとはこういう気流を洞察するところからはじまり、それにうまく乗り、気 流のままに舞いあがることによって、一個人がやったとはとうていおもえないほどの巨 大な業績をあげたというべきであり、そういう意味では、戦略者として日本のどの将軍 たちよりも卓絶しており、 報 君の業績は数個師団に相当する。 諜と、戦後先輩からいわれたことばは、まだまだ評価が過小であった。かれ一人の存在 大は在満の陸軍のすべてか、それとも日本海にうかぶ東郷艦隊の艦艇のすべてにくらべて もよいほどのものであった。
が、このクラド論文の要旨が、艦隊の兵員にまでったわったとき、かれらの士気を大 いにくじいたことは、まぎれもないことであった。 技師ポリトウスキーの日常のいそがしさは、一一 = ロ語に絶するものがあった。 ていはくちゅう このノシベ碇泊中も、大小の艦艇から故障を訴えてくる。軍艦の内科医で外科医を 兼ねていたかれは、いちいちその現場に行って故障の状態をみねばならず、処方を指示 せねばならす、ときには修理現場でつきっきりの指揮をしなければならなかった。 この世界海軍史に類のない、 「ロジェストウエンスキー航海」 が、当初、各国の海軍専門家から、 とても、成功すまい とおもわれていたひとつの理由として、艦船が故障をおこした場合 ( たえず故障をお こすものだが ) それをどのように修理してゆくかということであった。 これが平和な状況での航海ならば、造船所や艦船の修理設備をもっ港へもぐりこんで 突しまえばそれで始末がつくのだが、しかしいまは戦時で、しかもロシアの敵である日本 の同盟国は海上王国である英国であり、英国はその属邦の港をロシア艦隊につかわせな 色 黄、だけでなく、フランスやドイツに間断なく苦情を申し入れて、その港をつかわせない よ , つにしている。
ウスキーよりも後輩である。コスチェンコはポリトウスキーと同様、スワロフ型のあた らしい戦艦の建造に従事したため、両人ともこの冒険的航海には欠くべからざる能力の もちぬしであった。 ポリトウスキーが、技師である立場からロシア海軍の作戦の粗雑さと艦隊のロシア的 非能率さを通してこの戦いの前途に絶望のおもいをもっていたが、コスチェンコもその 点よく似ていた。ただコスチェンコはロシアを救うには革命以外にないという政治的信 念をもつにいたっていることだけが、ポリトウスキーとややちがっている。 ついでながら、ノビコフ・プリポイの「ツシマ」のなかに出てくる聡明な技師ワシー リエフというのは、このウェ・コスチェンコのことであるらしい。 艦隊は、三月十六日朝、いつ出港してもいい態勢になった。 技師ポリトウスキーは新妻への手紙を書留にして投函するために陸上の郵便局に出か けていた。 郵便局の吏員は、若いフランス人であった。かれはこれまで何度かポリトウスキーの 洋書留を受付けていたため、顔見知りであった。 度それだけでなく、この郵便局の吏員が、艦隊の乗組員の郵便物の受付のためにここ二 印カ月間じつに多にであったことをポリトウスキーは気の毒がり、 「私は、君のためにロシアの勲章をうける手続きをしたい」