かれの自慢は、少年のころから外国航路の商船で下積みのしごとをしていたために、 ヨーロッパにおけるたいていの一一一一口語を話せることであった。 「じゃ、そのなかで何語が得意なんだい」 「ドイツ語なんです」 と、大まじめに答える青年なのである。かれは曾祖父の代にロシアに帰化した家の子 だが、それでもなお家庭ではドイツ語がっかわれていた。かれにとってドイツ語に自信 があるのは当然なのだが、それでもロシア帝国への忠誠心にかけてはたれにも負けない 彼にすれば、大まじめな意味でドイツ語は外国語なのである。ついでながら、ロシア人 はピヨートル大帝の西欧化政策以来、ドイツ人の医師や技師がロシアに帰化することを 歓迎してきたため、ドイツ系ロシア人にとっては暮らしやすい国であり、ドイツ人とい うだけで医師・技師といったふうの印象が一般化しており、かるい尊敬をさえうける立 場をもっていた。 このクルセリは商船のころ、何度も印度洋を経験していた。その航路はスエズからコ ロンポ ( セイロン島 ) にいたるのが普通で、その航路は各国の艦船にとって印度洋の銀 洋座とでもいうべきものであった。 度ところカノ丿 ま、ヾレチック艦隊はそれよりもはるかに南の新航路をとりつつあるのである。 印その理由は各国の艦船に出遭うことによって消息や所在を知られたくないためであり、 まして日本の同盟国である英国艦船に見つけられたくなかった。印度洋は「大英帝国の
ためどの国のひとびとからも、 あの小さくそして気の毒なフィンランド国。 ということで、透明な同情を買うことができ、そのおかげでフィンランド志士という のはどの国にも出かけて行ってどういう相手ーーーたとえ相手が保守家であってもーー・の その心を得ることができた。これを逆の例で考えればわかるであろう。たとえばロシア 帝国の革命志士は、ます強大国のロシア人ということで、西欧圏のひとびとから不気味 がられ、もし革命がおこってロシア帝政が倒れればより強大なロシアが誕生するのでは ないかと思われたり、あるいは王制がすきな相手からはロシア人が帝政をたおすことに よってその影響が他の帝国や王国におよぶのではないかという警戒心がもたれた。その 点、トさなフィンランド地帯の人間に対しては、たれもが警戒心をいだく必要がなかっ さらにフィンランド人は、帝政ロシアよりも自分たちの歴史のほうがはるかにすぐれ ているという誇りがあった。より西欧的な文化をもっている上に、たとえば国家の進歩 の象徴というべき憲政においてもフィンランドは英国に次ぐ先進的歴史をもっており、 報それだけでもかれらは強国ロシアを軽侮し、つよい優越感をもち、それが現状について 諜の不満をいっそうに深めさせた。 ごんげ 大そういうフィンランド人の精神の権化のような男が、明石の同志になったコンニー シリヤクスであった。
しいが、その後清朝の勢威がさかんになるにつれて、この奉天をもって清帝国の故都と し、大規模な工事をおこない、巨大な城壁をきずきあげた。しかも二重の城壁をめぐら せんせき した。内側のそれは磚石 ( れんが ) でつくられ、正方形である。その正方形の大城壁を、 だえんけい ひとえ 外側からもう一重の城壁がつつんでいる。この外側の城壁のかたちは不規則な楕円形で 磚石壁ではなく土壁であった。ロシア帝国が満州侵略をおこなうまでは、ほば右のよう な姿が奉天府であった。 さらに奉天について。 ニコライ皇帝の極東侵略というのは、さしあたっては満州をとり、朝鮮を属領にする ばざんほ ところに目標がおかれていた。朝鮮については南朝鮮沿岸の鎮海湾のちかくに馬山浦と いう漁港があり、日露戦争の開始以前、ロシアはここに海軍要港の施設をつくっている。 明治一一十九年にロシアは清国を説きふせて満州鉄道敷設権を得、すぐさま大規模なエ 事にとりかかり、やがて中国人民の排外運動である義和団ノ乱を鎮圧するという名目で 政略的大軍を南満州に送りこみ、各地を占領しつつ奉天を武力占拠した。その武力占拠 へのままロシアは奉天にロシア風の大市街を建設しはじめたのである。 天奉天府の内城と外城はそのままシナ街として置いておき、外城を西へ出たところにあ 奉る奉天停車場を中心に西へむかって市街建設をした。まったくの荒野に建設されたもの コンス であり、ヨーロッパ風の道路と建築がたちならび、なかでも鉄路公司と教会堂、病院、
186 かく が、ロシア革命は、明石が出現する時期からくつきりと時期を劃して激化し、各地に ひんばっ 暴動と破壊事件が頻発したということはたれも曲げることはできないであろう。 「明石はおそろしい男だ」 と、明石の味方であるはずの東京の参謀本部でさえ、明石という男を不気味がるむき もあった。性格が、そうであった。目的にむかって周到に配慮し、構想し、実行につい てはあらゆる機会をのがさす、機敏に行動し、ほとんど狂人のようにすすんでゆくとい うこの生格は、すべての成功者がそうであるように偏執的でさえあった。 が、明石の能力を過大に評価することはできない。 明石をしてその巨大な業績をあげしめたのは、むしろ時の勢いというものであった。 悪弊がつもりつもってロシア帝国の存在そのものが、帝国の内と外を問わず、人間社会 の巨大な毒獣になってしまっていたことが、明石をたすけた。 ロシアの内外は、この帝国による被害者で充満しており、さらには西欧諸国において も良識と温血をもったひとびとはみなロシア帝国に加害されつつある人民に同情し、こ の帝国が一日でも早く倒れることをねがっていた。 この空気について、二十世紀初頭の最大の歴史家であるシャルル・セーニョポスのソ ルポンヌ大学での発言は見のがすことができないであろう。 フランス政府はロシアと同盟をむすんでいる関係上、ロシアの戦費調達のための募債 ひそ をゆるしていた。しかし、セーニョポスは秘かにこれに反対した。
おり、一見してフィンランド人であることがわかった。 「あなたは、日本の軍人ですか」 と、明石の顔をのそきこむようにして、ロシア語できいた。四年前、ロシア帝国はロ シア語をもってフィンランドの公用語として押しつけたのである。明石は、軍服を着て 、つ ) 0 「そうです」 と、わざとフランス語で答えた。老紳士はすぐさまロシア語をすて、フランス語にき りかえた。切りかえたとき、ロシア語をしゃべったときの表情とは別人のようにあかる くなっていた。 「日本がロシア帝国に対して戦いを宣言したということを新聞で知りました。われわれ はおなじ東洋人として、そしてまたおなじく口シア帝国に圧迫されている民族として、 この戦いの前途に勝利があることを祈っています」 「 ~ めり・ - 、がと , つ」 ていちょう と、明石は鄭重に礼を言い 報「私は明石と申します。あなたはどなたでしよう」 諜ときくと、老紳士は悲しげな表情でかぶりをふり、 大「ざんねんながら名は申せません。このストックホルムにはロシアの高等警察の探偵が 充満しております。無名の一市民と申しあげるしかありません」
フランスの政界や一一一一口論界にはたらきかけて、 「あの苛酷なロシア帝国政府を攻撃してもらいたい」 とたのんだとき、頼まれたひとびとはほとんど断わらなかったことでもわかる。のち に上院議員になったクレマンソーもそうであり、政界に大きな発一一 = ロカをもっジョレスも そうであった。さらにはアナトール・フランスも賛同した。かれらは当時の日本的感覚 からいえばおそるべき反資本主義の徒であったかもしれないが、フランスの思想家では べつに破壊的な暴徒の親玉というべき存在ではない。帝政ロシアの暴政というただ一占 において他国のことながら義憤を感じている連中であり、かれらがっかんでいる帝政ロ シア観というものについて日本の新聞記者は多少の知識をもつべきであった。 新聞の水準は、その国の民度と国力の反映であろう。要するに日本では軍隊こそ近代 的に整備したが、民衆が国際的常識においてまったく欠けていたという点で、なまなか な植民地の住民よりもはるかに後進的であった。 ロシアの革命勢力の徒に対し、 「不忠者」 報と呼ばわらんばかりの見出しを、ロシアの敵国の新聞がつける滑稽さはどうであろう。 諜要するに、この当時の日本人は、ロシアの実情などはなにも知らずに、この民族的戦争 大を戦っていたのである。 ついでながら、この不幸は戦後にもつづく
220 戦後も、日本の新聞は、 ロシアはなぜ負けたか。 という冷静な分析を一行たりとものせなかった。のせることを思いっきもしなかった。 かえらぬことだが、もし日本の新聞が、日露戦争の戦後、その総決算をする意味で、 「ロシア帝国の敗因」 といったぐあいの続きものを連載するとすれば、その結論は、「ロシア帝国は負ける べくして負けた」ということになるか、「ロシア帝国は日本に負けたというよりみずか らの悪体制にみすからが負けた」ということになるであろう。 もしそういう冷静な分析がおこなわれて国民にそれを知らしめるとすれば、日露戦争 後に日本におこった神秘主義的国家観からきた日本軍隊の絶対的優越性といった迷信が 発生せずに済んだか、たとえ発生してもそういう神秘主義に対して国民は多少なりとも 免疫性をもちえたかもしれない。 明石のしごとは、明石の偉大さを示すものではなかった。明石はただ情勢の潮に乗り、 むしろ乗せられて結果的にみればその大仕事を果たしたにすぎない。 ロシアの都市労働者のすべてが革命化していたわけではない。 すべてという点では、都市労働者のすべてが憤りをもっていたのは、政府の無能につ いてであった。この時期のロシア政府の機構の非能率と官吏の慢性的な怠慢というもの
岸のごときはかって彼が侵略した地で、ロシア帝国への忠誠心は薄い。 さらに純露人も また、各個各別に相争っているからである」 そう、 ) く 「ロシアの宮廷も内閣も、派閥相剋の府で、この派閥あらそいというのはロシア人の先 天的特性である。その一例をあげれば、パ丿 に流寓しているキリール親王である。キリ ールは皇帝ニコライ二世の従弟にあたる皇族で、侍従武官をつとめていたが、にわかに 職をうばわれ、流浪の人になった。皇族でさえこの運命になるという一事をもってして もロシア的特性ともいうべき党禍がいかに深刻なものであるかがわかるであろう」 明石はさらに、ロシアの亡国のキザシとして官界の腐敗と汚職をあげている。 「すでにヨーロッパでは定評がある」 といっているが、この面で明石がしきりにおどろいているのは、日露戦争時代の日本 の官界にはこの病弊はまったくなかったからであった。 一例をあげれば、ニコライ二世が、第二太平洋艦隊を編成するにあたって、それまで 侍従武官として宮廷につかえていたロジェストウエンスキーを司令長官として起用した のだが、 ロジェストウエンスキーがこの仕事に適任であったかどうかはべっとして、か せいれん 報れが宮廷にあっても海軍省にあってもめずらしく清廉な人物であったということだけは 諜たしかであろう。かれはこの艦隊をいそぎ編成するについてほとんど蛮勇ともいうべき 大行動力を発揮した。ロシア海軍は汚職の府であるといわれていたが、かれはそこから砲 弾や食糧をひきずりだすのに、担当官をおどしあげ、どなりつけ、ほとんど強奪同然の
の進境は早く、七、八カ月で、日常会話に不自由しなくなった。 さらにこのロシアの大学生からロシアの不平分子の状況について多くを教えられた。 明石はどの国に行っても語学修業をやるとともに、その国の歴史を冷静な態度で把握 するという方法をわすれなかった。 さきに、ロンドンの宇都宮太郎中佐が明石に対し、 ロシア的専制の現実はこうとらえるべきである。 と、史的考察をまじえた現状分析をしてみせ、それについては明石は黙々と聴くのみ で自分の意見をのべなかったが、明石が着任から開戦までの短期間にとらえたロシア観 も、当時の日本人のロシア観のなかではずばぬけたものであった。かれは自分の観察を、 「露国史」 という題で、長文のエッセイを書き、それを参謀本部に送っている。ただし書いたの は日露戦がおわった明治三十九年である。簡潔な名文で、文章としてもこの当時の日本 では第一級のものであり、日本人の手によって書かれた最初の「ロシア小史」であり、 以後これほどすぐれたロシア小史は容易にみつからない。 報その冒頭は、 だいはんと 諜「世界に比類なき大版図を有する露西亜帝国は、復た世界に比類なき奇態なる歴史を有 大す」 という結論からはじまり、ロシア帝国の歴史が西ヨーロツ。ハ諸国のそれとはまるでち
へ去ったということも、艦隊のひとびとは新聞で知った。ロシア軍は負けるべくして負 けているような印象を新聞報道はあたえた。 「ロシアはなぜ負けるのか」 ということが、世界中の関心のまとになっていることも、艦隊のひとびとは新聞によ って知った。そのことについて論評する新聞は、多くは、 「この災害 ( ロシアにとっての ) は、その専制政治と専制政治につきものの属僚政治に ある」 ということを結論にした。これは世界的常識になった。 ロシアは日本のように憲法をもたず、国会をもたず、その専制皇帝は中世そのままの 帝権をもち、国内にいかなる合法的批判機関ももたなかった。 「専制国家はほろびる」 というただ一つの理由をもって、この戦争の勝敗の予想において日本の勝利のほうに 賭けたのは、アメリカ合衆国の大統領セオドル・ルーズヴェルトであった。 その理由は、簡単である。 二流もしくは三流の人物 ( 皇帝 ) に絶対権力をもたせるのが、専制国家である。その ーもら・」、つ なんびと 人物が、英雄的自己肥大の妄想をもっとき、何人といえどもそれにプレーキをかけるこ とができない。制度上の制御装置をもたないのである。 ロシア帝国は、立憲国家である日本帝国と同様、内閣はもっていた。しかし日本の内