と、予定よりもこの作戦の発動の日を早めた。 この大攻勢の作戦案を立案したのは、総司令部作戦主任の松川敏胤少将であった。 二十余万が三十余万にぶちあたる以上、その作戦は正統的思考法から外れざるをえな 立案中、松川は何度も児玉に相談した。はじめ松川がその思想を説明すると、 「なるほど、奇じゃなあ」 と、児玉はさすがにおどろき、この一声を発したまま沈黙してしまった。児玉には癖 が多く、かれの沈黙はかれが同意したことをあらわすものだというのが、参謀たちの通 = = しなってした しかし、このときの児玉はかならずしもそうではない。 ( それしか良案がないか ) と、考えこんでしまったのである。 はず 奇策というのは、あたれば大きいが、同時に外れる可能性も大きく、外れれば収拾の つかぬ大損害をうける。 へ 天 なるほど、奇じゃなあ。 奉と、児玉源太郎をしていつもの明快さを失わしめ、しばらく考えこませてしまったと 引いう松川敏胤の作戦案は、簡単にいえば中央突破作戦である。
硯と、児玉源太郎は、それを立案した松川敏胤大佐にそううなすいた。 黒木軍の第二師団 ( 仙台・西島助義中将 ) をひきぬくことになった。その師団兵力の すべてを引きぬくことはさすがにしかね、そのうちの一個旅団と一個連隊弱、それに砲 兵一個大隊をひきぬいて西島師団長みずからがひきいた。 この仙台師団の行軍が、もっとも難渋をきわめた。降雪と酷寒のなかを不眠の夜行軍 をし、二十八日午前七時、はじめて戦場付近の大藍旗に達したが人馬はなはだしく疲労 していた。 総司令部はさらに、 「これだけでも足りぬかもしれない」 として、奥軍 ( 第二軍 ) に属する第三師団 ( 名古屋・大島義昌中将 ) をもひきぬき、 左翼への転進、とくに沈旦堡の豊辺大佐への救援を命じたのである。兵力の逐次投入と いう禁忌が、やぶられつづけた。傑出した作戦家であったはすの児玉源太郎の作戦能力 がもっとも低下したのはこの時期であったであろう。その理由は、最初のつまずきにあ った。最初、敵情を過小に見すぎた。それが、ここまで過誤を大きくした。 要するに、沈旦堡、韓山台、李大人屯を守りつづけている秋山支隊への応援軍が、な んと通計四個師団と後備旅団一つ、それに砲兵二個連隊というような兵力にふくれあが っこ 0 作戦の目的は、一つである。
さらに鴨緑江軍について。 この軍司令官の任命については、突如、東京の寺内陸相から、児玉源太郎のもとに通 告してきた。 かげあき 「第十師団長川村景明をして鵯緑江軍司令官たらしむ」 という内容であった。川 村はそれまで野津軍に属していて中将であったが、大将にな 東京はいくさを知らぬ。 と、児玉は無数の理由をあげて激怒したがそのなかに人事に関する痛烈な発言があっ 「まだ座敷で人事をしておるか」 ということであった。リ 丿村は薩摩人である。川村の上司になるのが、韓国駐剳軍とい う戦闘とは直接関係のない政略的軍隊の軍司令官である長谷川好道だが、これは長州人 であった。この国家存亡のときにおいてなお、東京の感覚は、薩長両閥の人事上のバラ ヘンスをとることのみを考えていることに、児玉は憤慨したのである。児玉は長州人であ 天ったが、 しかしこの精神の風通しのよさそうな男は、藩閥という意識世界から突きぬけ 奉てしまっているところがあった。 竝「東京は、座敷で戦争をしている」 っこ 0
うになっていた。かれはロシア陸軍の切り札ともいうべき秀才であったが、しかし軍人 としては剛健な神経をもたず、反応の過敏すぎる神経をもっていた。クロバトキンにか ぎっては、これを施すことができるのではないか。 児玉源太郎が、松川案に賛成することを決断したのは、右にのべたように、クロバト キンの過敏な神経に期待したからであり、この点、賭博といえば賭博であるといえる。 かれが、この案に賛成した翌朝から、かれの毎朝の日課に懸命さが加わった。未明に 起き、地平線から昇る朝日に合掌するのである。元来、無宗教のかれには、朝日に対し てしか、さしあたって拝む対象をもたなかった。 たす 「どうか、佑けてくだされ」 と、かれは、冷静な第三者からみれば多少滑稽な情景であったが、大声をだして朝日 に願をかけた。大声を出さねばはるか地平線のむこうの朝日に声がとどかないとでもお もっているようであり、あるいは神経の弱い者なら、かれの立場におかれれば発狂した かもしれず、げんに児玉はこの作戦期間を通じて寿命をちぢめてしまうのである。 児玉・松川案というのを具体的にいうと、 「左を突く」 というしごとは、最右翼に置かれるはすの鴨緑江軍 ( 新設・あとでいきさっと内容に ふれる ) に負わせ、敵の左翼へ左翼へと前進運動をおこない、右翼黒木軍の攻勢と呼応 がん ほどこ
は、つねに決心を二段構えでおこなうという性向があり、そのことは、開戦以来のかれ の作戦癖をみてもわかる。この黒溝台の地名で象徴されるこの作戦の場合、それが露骨 にたとい , っことがい , んる。 いすれにせよ、グリッペンベルグはこの作戦のあと欧露へ帰ってしまい、満州のロシ ア軍は名実ともにクロバトキンがにぎり、官僚としてのかれは成功した。かれはこの結 果に十分満足していたことはたしかである。 ただ欧露に帰ったグリッペンベルグが、新聞その他にクロ。ハトキン攻撃の文章を書き、 それが各国の新聞に報道されたため、クロバトキンにとってその点だけがわずらわしか っこ。しかしかれは、 「日本軍を最後にはハルビンにまで北上させ、その補給を困難にし、一挙に潰滅させる」 という最終的な成功可能案をもちつづけていたため、グリッペンベルグの小うるさい 中傷に動揺したような様子はすこしも見られない。 ただこのクロバトキンのハルビン決戦案については敵である児玉源太郎もそれをその ように推測し、それがもし実現すれば日本軍の敗北であることを知っていた。児玉にす ればそれ以前においてクロバトキンに対して決定的勝利をおさめる大作戦をおこなうべ き必要にせまられていた。 奉天会戦の作戦計画は、この黒溝台会戦の直前、すでにかれの手もとにおいて成案に なっていた。
3 露第四軍団が戦列に加われば、日本軍がいかに死力をつくしても遼東半島へ追いつめら れ、ついには海へ追いおとされてしまうにちがいない。 「春になる前に」 というのが、日本軍にとって痛切な時期的条件であった。 さらには、単に春以前にやるというのではなく、できれば結氷期のうちにやってしま わねばならない。できればどころではなく、それが必須条件であった。 なぜならば、わずか二十余万をもって三十余万の敵を撃つには、作戦の妙と敏速で自 すもう 在な軍隊運動が必要であった。角力でいえば、当方が小男であるために、土俵のなかで すばやく五体をうごかさねば相手の大男に勝てそうになかった。 この軍隊運動は、満州にあっては冬季のほうがいい。河という河が結氷しているため、 その上を人馬車輛が自由に往来できるからである。だが、春になれば雪が融け、道がぬ かるみ、軍隊運動には最悪の条件になる。 「どうも、春が例年より早そうです」 ということを児玉源太郎は気象官からきいており、げんに二月に入ってから妙に暖気 を感ずる日が多くなっているのである。気象官がいうとおり「今年は例年より早く解氷 期が訪れるかもしれない。 児玉は作戦会議の結果、 「二月二十五日をもって満州軍の運動を開始する」
参謀たちは出かけて行った。 乃木は、停車場に残った。 「一時間後に煙台までゆく列車が参ります」 という連絡があったから、かれはそれに乗って総司令部にあいさつにゆくつもりであ った。もっとも若い参謀の津野田是重が随員として乃木のそばにのこった。 列車は、時間どおりにきた。 乃木と津野田はそれに乗って煙台へゆき、総司令部を訪問した。 この日、あたかも負けいくさ一歩前ともいうべき黒溝台会戦がはじまりつつあったと きであり、参謀たちは殺気立っていた。乃木閣下が来られると縁起がわるい、とささや いていた参謀もあった。 が、大山巌と児玉源太郎は心からうれしそうに乃木を迎え、歓待した。 乃木軍司令部は遼陽であたらしい司令部を設営したものの、兵隊が来ない。 かいめつ 日本軍の左翼一帯は、グリッペンベルグ大将指揮の大軍南下のために潰滅寸前の危機 にあった。 車乃木は、煙台の総司令部で大山や児玉と歓談しながら、気が気ではなかった。 乃かれの麾下の各師団や旅団は、かれよりずっと以前に旅順を出発しているのだが、列 車不足のためにほとんどが徒歩行軍しており、まだ遼陽城に入っていないのである。
「騎兵など無用の長物」 という声を放ってきている。しかも児玉源太郎にしても松川敏胤にしても騎兵集団で ある秋山支隊を防御につかうということをやってのけた。いわば、歩兵になってしまっ げんに豊辺騎兵大佐は、いま沈旦堡にあって歩兵として敵をふせいでいるのである。 馬だけは余分であった。 が、その余分であることを、いまわしが認めればどうなるか。 と、好古はおもうのである。最高司令部の無理解はともかく騎兵自身が、自分が騎兵 であるという意識が薄くなるのではないか。 好古は、このため反対した。 「騎兵はな」 と、つけ加えた。 「馬のねきで死ぬるのじゃ」 ねきというのは、そばという意味の伊予ことばである。 ( こいつは、むずかしいところだ ) と、横できいていた田村守衛騎兵中佐はおもった。田村もまた好古のいわば弟子だが、 しかしこの場合、馬をいたわったほうがいいのではないか。馬の補充は十分ではないし、 それに前線に繋いで馬を無用に死なせることはないであろう。
しつつあるのが、ロシア陸軍の長老グリッペンベルグ大将であった。かれの大作戦が成 功すれば日本側は全軍が崩壊するであろう。 机上では、そうなる。 現実もまたそのように進行した。好古が総司令部に対してベルを押しつづけるように して警告してきた予測が、不幸なほどの正確さで的中したのである。 総司令部も狼狽した。 その狼狽ぶりは、悲惨なほどで、参謀は悲鳴をあげるようにして電話ロでどなり、さ らに他の参謀は前線へ伝騎を駈けさせて右の電話とは逆の命令をつたえ、それを締めく くるべき松川敏胤もしばしば逆上した声をあげ、総参謀長の児玉源太郎でさえ、地図の かん 前に立っていたかと思うと電話のそばへ走り、その間、参謀をどなったりして、部屋は けんそう 喧騒をきわめた。とくに二十六日朝の騒がしさというのは、その極に達した。 かん この間、大山巌は姿をみせず、ずっと総司令官室のペッドで寝ころがっていた。 かれは、東京を発っとき、 「勝っているときは児玉サンにまかせます。敗けいくさになれば、諸兵をまとめるため に私が指揮をとらねばなりますまい」 溝と、ひとにいった。かれはあるいはこのとき、 黒 ( そろそろ敗けいくさかな ? ) さんだい と、そのことを考えこんでいたかどうか。さらにかれは参内して総司令官を命ぜられ 台
146 るところを知らないであろうと見、日本に対してきわめて好意的であるということであ 事実、袁世凱は日本のある武官に対し、 「もしロシア帝国が勝てば、シナは消滅するだろう。それゆえに自分は日露開戦のあか つきは極力援助したい」 と語ったことがあった。 のりずみ この袁世凱にもっとも信用されていたのは青木宣純という宮崎県出身の砲兵大佐であ った。青木は秋山好古と士官学校の同期生で、陸軍大学校にゆかなかったために開戦の 前、なお大佐であった。 ベキン この青木は中国通で、明治三十年以来袁世凱と親交があり、同三十二年、青本が北京 の公使館付武官であったとき、袁がとくに請うて青木にシナ軍の教典作りをやってもら つつ ) 0 その後青木は日本に帰り、開戦前は砲兵連隊長であった。かれは開戦とともに砲兵を ひきいて戦場にゆくことのみを考えていたが、開戦の直前、青木の私宅 ( 市ヶ谷念仏 坂 ) に児玉源太郎が私服でたずねてきて、縁側に腰をおろし、 「君は軍人として戦場にゆきたいだろう。しかしながらそれよりも百倍の重任がある」 てんしん と、天津の袁世凱のもとにやらせたのである。 この青木を市ヶ谷にたずねた時期、児玉はペテルプルグの明石元二郎に電報を送り、