「総司令部は勝つように軍令を出してゆく。大さわぎしてもなにもならん」 と、子供がものを一つ覚えたような無邪気さで言ってまわった。 この時期、大山は室内で新聞を読んでいることが多かった。 ( どうやら負けいくさがはじまったか ) と、大山も人間である以上は、そう思ったにちがいない。元来、大山は児玉と同様、 この日露戦争をなんとか六分四分の勝ちにもってゆくことだけを考えていたし、それ以 上は不可能だとおもっていた。つまり冷静な計算の上ではどのように日本軍が勇戦敢闘 しても五分々々に持ってゆければ上等であり、それをなんとか作戦の面で敵を凌駕して , ハ分四分に漕ぎつけるというのが、大山・児玉の目標であった。 それがなんとか、し 、ままでその調子できた。 が、いま作戦上の錯誤のために左翼で大さわぎがおこってしまったのである。左翼が 崩壊すれば日露の戦勢は逆転し、場合によっては日本軍の潰滅になるかもしれない。十 が十、そうなるであろう。 とすれば、 敗けいくさになれば私が指揮をとります。 と東京を発っとき山本権兵衛に大山がいったことが、実現するかもしれなかった。 が、大山はこの事態でもなお、参謀たちのいる作戦室をうろうろするというようなこ とをしなかった。かれの望むところは、作戦室の機能が、機械のような冷静さで動いて
350 わかる。児玉は乃木が無類のいくさ下手であることは、西南戦争以来の戦友として知り つくしていたが、しかし児玉は乃木をふしぎに軽侮したことがない。 「一段落ついたら見てくれ」 と、児玉はいった。詩稿のことである。一段落がつくとはこの奉天作戦がおわれば、 ということであった。 「 , つん」 と、乃木はうなすいた。乃木は端正な容貌のもちぬしだが、むかしから泣いているよ うな顔で、それが一種の人間的愛嬌にもなっていた。このときも、泣きつつらのまま微 笑して児玉の顔をじっとみていた。 児玉はいそがしかった。 かれにとってきようは祭礼の氏子代表のようなもので、祭礼の用意万端をとりしきっ てゆかねばならない。 「床〈にいらっしやるよ」 と、乃木にいって児玉は去った。奥にいらっしやる、というのは総司令官大山巌のこ とである。 大山は、部屋にいた。乃木が部屋に入ったとき、大山はちょうどシナ犬の仔を追っか けているところだった。大山は一月ほど前、この総司令部の庭にまぎれ込んできたこの 仔犬をひろったのである。犬ずきな点では、大山はその従兄の西郷隆盛と似ているのか
もしれないが、しかし西郷のそれほどの凝りようでもなく、どうも戦いが激烈になって くるとこの仔犬とじゃれるくせがあるようであった。英国のハミルトン中将も、大山の そういう個人的情景を目撃している。 大山は仔犬をそとへ出し、乃木と対座した。 「毎日退屈でこまっております」 ということを、いきなり大山はいいだしたのである。しかも話題というのはこのあた りの植物の話ばかりで、大会戦の話はひとこともせず、そのあと乃木を玄関へつれ出し、 ふたりで写真をとった。大山が石段の上に立ち、背の高い乃木は、大山のやや左に位置 し、一段下がって立った。 「軍司令官会同」 という、開戦いらい最初の " 行事〃のために、総司令部付の下士官や兵はその支度や らなにやらでいそがしかった。 篠崎というひょうきんな炊事班の曹長が、 へ「閣下たちはべツバイというものをなさるのだ」 天と、部下の伍長に冗談をいった。別盃のことであった。伍長は真にうけ、芝居でやる かわらけ 奉別れのサカズキなら、土器をつかう、軍司令官閣下たちが冷や酒をひといきで飲みほし、 あとはハッシと地面にたたきつけて割ってしまう、だからどこかで土器を手に入れて来
たあと、すぐその足で海軍省へゆき、海軍大臣の山本権兵衛に会ったことは、すでにの そのとき、 あっち 「満州へゆけば、皆の連中 ( 諸将をさす ) をいかようにもまとめて、仲よく戦をさせま と、 いった。戦さを薩摩弁でユッサといった。仲よくといったとき、ちょうどメンド リが卵を抱くような手つきをしたという。 ししカぐら その大山が、ついに灰神楽の立ったような作戦室にその肥大した姿を現わした。児玉 源太郎の机に近づき、室内を見わたしながら、 「児玉サン、朝からだいぶオオヅッ ( 大砲 ) が聞こえるようですが、一体どこですか」 といったから、児玉は大山をみあげて一一一一口葉をうしない、若い参謀のなかには笑いをこ らえる者もあり、やがて片すみからなごやかな笑い声がおこって、室内の空気は一変し てしまった。 左翼に、だいぶ来ているようです」 児玉は、やっと答えた。 左翼ですか、それはご苦労なことです。と大山は言い、 室内をゆるゆる一巡してから、 自室へひきあげてしまった。黒溝台戦における最大の印象は大山さんであった、という ことを、この場にいたほとんどの参謀がさまざまの場所で語りのこしている。 っ ) 0 ゆっさ
大山はどれほどの総予備軍をどこにひかえさせているか。 ということが気になった。当然、戦術家としては敵の予備隊のありかをつかんでおき、 それがどこへ出てくるかを予想しておかねばならない。将棋の場合、 お手には ? と、相手に持ち駒をきく。が、戦争の場合、相手にそれをきくことができず、結局、 強力な騎兵集団を敵の後方に放って搜索させるのである。クロバトキンは当然ながらそ れをさせた。 が、ロシア騎兵は、日本軍後方の山野をかけまわってもついに大山の総予備軍のあり かをもとめることができず、むなしく、 「所在不明」 という報告をした。これが、クロバトキンの神経を最後までなやませる結果になった。 、というじつに不愉快な精神状 大山がどこからその隠し駒を走らせてくるかわからない 態のなかにクロバトキンは置かれた。 が、ありようは、大山は総予備隊をもたなかったのである。その名称はあった。後備 〈歩兵という老兵の旅団を一個だけもっていた。しかし実際には旅団とは名のみで、当番 天兵のようなものであった。要するにほんのわずかの徒歩砲兵のほかに、総司令部付の守 奉備兵だけである。予備軍ゼロといってよく、たとえていえば全兵力を前線に出し、鷲の ごとくつばさを大きくひろげてみせるものの、その鷲に胴がないようなものであり、そ わし
ばた わかごぜ いって取りあげ、やはり歌のほうがいし作ったひとは美しい若御前でごわしようなあ、 古川が直立不動の姿勢のままでいると、大山は児玉さんはどうしておられます、とき 、つ ) 0 古川は、児玉の様子をつたえた。 「ああそうですか」 大山はそういったきりであった。古川副官は黒溝台激戦のときの大山について生涯こ の話を語った。 この稿は、戦闘描写をするのが目的ではなく、新興国家時代の日本人のある種の能力 もしくはある種の精神の状態について、そぞろながらも考えてゆくのが、いわば主題と いえば主題といえる。 しかし、黒溝台会戦の戦闘経過の惨烈をつぶさにみてゆくと、かれら東北の若者たち が全日本軍をその大崩壊から救ったその動態のひとつひとつを記述したいという衝動を おさえきれない。 第八師団、つまり通称立見師団といわれる弘前師団は、熊本の第六師団とならんで日 本最強の師団とされてきた。その師団の故郷である弘前にあっては、戦後、冬のいろり 端で語られることといえば、この黒溝台の惨戦の話であり、さらにはかれらの生き残り の兵卒たちはひとりとして師団長立見尚文をほめない者はなく、あの人がいたから勝っ
っ ゆくということであり、自分が室内をうろつけば、たださえ逆上しがちな空気が、い こうちゃく そうに膠着すると思ったらしい かれは新聞をすみからすみまで読み、ふと読者投稿欄に歌を見つけた。新聞は東京日 日新聞であった。 若い出征将校の新妻が詠んだものらしい。歌の意味は、縫いものをしていて襟に涙が こばれた。それが点々としみになった、という。 カカ しみ 「許しませ襟に澆れる暈のあとおもひ焦れて泣く涙なり」 大山はこの歌に身ぶるいするはど感動し、卓上の紙をひきよせて、 ーー誰が家の佳人そ異境遠征の夫を想ふ と書き、たまたま入ってきた副官の古川岩太郎砲兵少佐 ( のちの少将 ) にその歌をみ 「古川サン、この歌をみてください。なんとやさしい心ではごわせんか」 っ ? ) 0 と、 それだけでなく、大山はこの歌を漢詩に訳そうとし、転の句と結の句だけをつくり、 それを古川にみせた。 台 溝吻嫌襟上斑々色是妾燈前和涙縫。 しよう きんじようはんはん 黒「嫌ふなかれ襟上斑々の色。これ妾が燈前、涙に和して縫ひしを」 みせてから大山は急にはずかしそうに、古川サンその詩のほうは返してください、と せ、 こカ えり
る官軍をときに潰滅させ、ときに苦戦させ、さんざんの目にあわせたところでもあった であろう。 かって大山巌が、 「なにしろ、軍司令官連中は維新生き残りの英雄どもでごわすから」 その統制がやっかいだ、という旨のことを山本権兵衛にいったが、 立見尚文は軍司令 官ではないとはいえ、大山のいう「連中」の部類でも最たる人物といっていし 救援が、恥辱であるという。 およそ戦略的立場からいえば救援軍の派遣は当然なのだが、それを恥辱であると気色 ばむような人間でなければ、戦争という異常な行動を運営する軍隊統率者にはむかない のであろう。 そのくせ、シベリア第一軍団の包囲下にある立見尚文の師団は、刻々全滅へ近づきっ つあった。 「命令受領者をあつめろ」 と、立見尚文はいった。 立見尚文は、伊勢桑名藩の出身のくせに、ひどい東北弁であった。なぜなら桑名藩松 台 溝平家は文政六年奥州白河から転封してきた藩で、その後維新まで四十五年間、桑名の士 黒族ことばというのは奥州ことばだったからである。 「命令受領者」
参謀たちは出かけて行った。 乃木は、停車場に残った。 「一時間後に煙台までゆく列車が参ります」 という連絡があったから、かれはそれに乗って総司令部にあいさつにゆくつもりであ った。もっとも若い参謀の津野田是重が随員として乃木のそばにのこった。 列車は、時間どおりにきた。 乃木と津野田はそれに乗って煙台へゆき、総司令部を訪問した。 この日、あたかも負けいくさ一歩前ともいうべき黒溝台会戦がはじまりつつあったと きであり、参謀たちは殺気立っていた。乃木閣下が来られると縁起がわるい、とささや いていた参謀もあった。 が、大山巌と児玉源太郎は心からうれしそうに乃木を迎え、歓待した。 乃木軍司令部は遼陽であたらしい司令部を設営したものの、兵隊が来ない。 かいめつ 日本軍の左翼一帯は、グリッペンベルグ大将指揮の大軍南下のために潰滅寸前の危機 にあった。 車乃木は、煙台の総司令部で大山や児玉と歓談しながら、気が気ではなかった。 乃かれの麾下の各師団や旅団は、かれよりずっと以前に旅順を出発しているのだが、列 車不足のためにほとんどが徒歩行軍しており、まだ遼陽城に入っていないのである。
れがみてもわかりきっている。松川敏胤などは鴨緑江軍ができあがったあと、 「鵯軍・」 などと呼んで愚弄したほどであった。 しかも東京の大本営は、この鴨緑江軍を満州軍の編制に入れず、つまり大山総司令官 ちゅうさつぐん の指揮下に入れず、大本営自身がこれを自由にあっかうために、韓国駐剳軍司令官長 谷川好道大将の隷下に属せしめた。 その目的には作戦的要素がすくない。 政治的色彩が濃厚であった。 というよりも、戦争をもって一個の国家商売にしようとする思想が、日本軍部のなか ではじめて濃厚にあらわれてきた最初の現象といえるかもしれない。 「いざ講和のとき、ロシアの領土のどこかをおさえてしまいたし」 という政略的意図から出たものであった。 その思想を最初にうち出したのは、東京で退屈しきっている長岡外史であった。 陸軍少将長岡外史が東京の参謀本部次長であることは、すでにのべた。開戦とともに へ参謀本部の組織そのものを大山・児玉がひきいて満州の戦野にもって行ってしまったた 天めに、東京におけるその組織は、、わば留守居役のようになっている。 しよしおうぎ 奉長岡の性格は、緻密な計算力を必要とする戦略・戦術よりも、処士横議むきの政略論 弼がすきであった。 か - もぐ , ん