るけい 入らなければかれらをシベリアに流刑することもできる」 「ロシアはアジア的だというが」 と、宇都宮はいった。アジアでもロシアのような実情があるかどうか疑問だ、という。 もうこじん 要するに蒙古人が数百年前までロシアの土地と人民を支配していた。その蒙古帝国 かん・一く ( キプチャック汗国 ) がほろんだあと、ロシア皇帝とその貴族が蒙古人にとってかわった にすぎない、と宇都宮は言い、まったく特別な国だというのである。 「もっともこの悪名高い農奴制はごく近年において廃止されたが、貴族の権益を保護す るという側に立って廃止されたため、旧農奴身分の二千万は以前以上に窮迫し、こんに ちに至っている」 と、宇都宮はいった。 宇都宮はロンドンにいるだけに、物事を巨視的にとらえることができた。 明石はロシア通であるが、しかしかれのロシア観は宇都宮によって啓発され、明石な りの完成をみたといっていし 報「ロシアはかならず倒壊する」 諜という宇都宮の観察は、英国の外交通からおそらく仕入れたものであろう。 大「ロシア皇帝は、決して人民の味方ではない。かれは人民を所有しているだけだ」 とも、宇都宮はいった。
ろう 良力ある。 「日露戦争の勝因のひとつは明石にある」 といわれたほどに、明石のやった業績は大きい。 かって開戦前、ロンドンで宇都宮と明石が会ったとき、宇都宮は、 「ロシアは、ロシアそのものが自然倒壊するのではないか」 と、明石に語ったことがある。 「ロシア国民はど、悲惨な国民はない」 宇都宮は、かれが知り得たロシア史とロシアの実情を明石に話した。 「ロシアは想像しがたいほどの国で、皇帝と貴族がロシアの土地と人民を私物にしてい る。ロシア史は皇帝と貴族による人民私有の歴史である。あの国にはヨーロッパの概念 でいう国民というものも存在しない」 と、宇都宮はいう。 ロシアには、三千五百万の農民がいる。このうち、 のうど 「農奴」 といわれているロシア特有の階層が、二千万である。農奴というのは人間であるが、 つごう しかし地主貴族の完全な私有物であり、それを地主の都合で売買することもできる。げ んに売買された。そういう上に皇帝の専制主義が成立している。 「ロシアの農奴は、日本の小作人でさえない。売買されるだけでなく、地主貴族が気に
謀の松川敏胤大佐にも、多少弁解の理由がないでもなかった。「ロシア軍の大攻勢」と よしふる いう予兆が、現地にあっては秋山好古から騎兵情報が来るのみで、福島安正少将が統轄 ちしきフほうもう する戦場諜報網のほうにはひっかかって来なかったのである。 「現地の諜報と一致しない」 と、松川はそれで黙殺した。この点にかぎっていえば、この時期、戦場諜報よりも国 際諜報のほうにすぐれていたといえるであろう。 しばらく諜報活動について触れてみる。 日本はロンドンにおいて、 「情報集積所」 を置いた。その主任は駐在武官の宇都宮太郎中佐であることはすでにのべた。 宇都宮はヨーロッパに駐在する各武官と連絡をとりつつ、かれ自身は英国およびヨー ロッパの有力紙を懸命に読み、その記事の裏からロシアの政情および軍事上のうごきを さぐろ , っとした。 報さらに宇都宮は英国の陸海軍省に出入りしてその諜報をほとんど無制限に提供しても 諜らったため、軍事を通じてのヨーロッパ事情にこの当時の宇都宮ほど精通していた者は 大なかった。 あかしもとじ この宇都宮に対し、ロシアそのものに接して国内革命を煽動した者に、大佐明石元一一 としたね せんどう
「いまから七十年ほど前にニコライ一世が英国の議会を参観したことがある。ニコライ 一世が真に聡明ならこの英国式をロシアに導入すべき契機だったといえるのだが、しか しニコライ一世は議会という存在に対してきわめて不愉快な感情をもっただけだった。 その後のロシア皇帝も、このニコライ一世の感情から一歩も出ていない」 宇都宮は英国との接触が長かったために立憲主義をもってこの地上における最高の正 そうくっ 義であるとおもっており、その目からロシアの実情を見るとき不正義の巣窟のようにみ えるらしい 「ロシアには、不平が充満している。それをおさえつけているのは、皇帝の無制限の権 力と、そして秘密警察である。しかしそういう力による人民圧迫が、いつまでつづくも のであるか」 さらには、と宇都宮はいう。 「ロシア皇帝はその人民を私有しているがごとく、その属国に対しても鉄のタガをはめ ている」 属国とは、。、 ホーランドやフィンランドをさす。 両国ともたえず独立を悲願し、いっかはロシアの鉄のタガから解放されたいとおもっ 「一八三〇年のワルシャワの反乱が、その一例である。ポーランド人は大暴動をおこし て一時は独立政府もできたが、ロシアは大軍を送ってポーランド独立運動軍と戦い、ワ
ちょっかつりよう ルシャワを陥落させ、以後、この国の自治をみとめず、直轄領にした。それがこんに ちまでつづいている」 ポール人はスラヴ民族でありながら、ロシア人に対して誇りが高いのは、ドイツを通 じて進んだ文化を吸収し、その文化を歴史的にはロシアへ中継してきたからである、と 宇都宮はいう。かれらはロシア人を軽蔑しつつ、しかしながら強大なロシアの武力のた めに国土までうばわれ、屈従していることに名状しがたい不満をもち、ポーランド独立 運動はいまなお地下でつづいている。 「フィンランドよ、。、 オーランド以上に悲惨だ」 と、宇都宮はいう。 フィンランドがロシアの所有になったのは百年ばかり前である。当初ロシア皇帝は、 ロシア国内ではみとめられていない西欧的な議会主義をみとめてきたが、現皇帝の父ア レクサンドル三世はそれをみとめない方針をとり、さらに現皇帝にいたってフィンラン ド人の自治権を停止し、フィンランド憲法を廃止し、ロシアから総督を派遣してこれを 統治しはじめているため、フィンランド独立運動がにわかに活況を呈するようになった。 報「これら属邦の独立運動団体は、ロシア国内の革命団体と手を結んでいる状況だから、 諜ロシアに革命をおこさせる導火線は、むしろこの外郭 ( 属邦 ) にあると見ていい」 大 明石元二郎というこの一種異様な人物については、わずかながら以前に触れた。
132 たとえばベルリンで得る情報は、ドイツ人の主観がつよく入っているか、それとも権 わいきよく 謀好きのドイツ人の手で歪曲されているか、そのどちらかであることが多い。また。ハ リはすでに外交の主舞台ではなく、ローマは外交上の田舎にすぎなかった。林董が骨を 折った日英同盟は単に日本にとって戦略外交上のプラスをあたえただけでなく、このバ ートナーから公正で豊富な情報があたえられる結果になり、このため日露戦争期間中、 東京の政府はその位置が極東にあるにもかかわらず、国際情勢の判断をほとんど誤るこ とがないという望外の利益をえた。 たとえば、 欧露のロシア軍が、いっ何個師団、極東へむかった。 というロシアのなかの軍事情報さえ、ロンドンにいさえすればもっとも早くそれを知 ることができる可能性が高かった。 例の黒溝台戦の前ぶれになったミシチェンコ騎兵団の機動や、グリッペンベルグの大 攻勢の準備なども、ロンドンでいちはやく知ることができた。このことはすでに触れた がロンドンの日本公使館の駐在武官である宇都宮太郎中佐がっかんだ情報であり、宇都 宮はこれをいちはやく東京に報じた。満州の現地軍は、この情報が世界を一周して東京 経由で戦場にきたことに多少の違和感をもった。その違和感が、 「 ( き」か」 という態度をもたせ、黙殺させる結果になった。もっともこれを黙殺した総司令部参
かれは卒業後、司祭になり、ペテルプルグに出て伝道生活をするうち、工場労働者の 暮らしむきの悲惨さに同情し、 「ペテルプルグエ場労働者クラブ」 という団体をつくった。この「血の日曜日」の二年前である。その結成についての資 金は、奇怪にも憲兵大尉のズバートフを通じて政府の機密費から出たといわれるが、真 までもよくわからない。 本がどうであったか、い かれは労働者に圧倒的な人気を得た。かれほどに労働者から尊敬され、その心を魅了 した人物は、ロシア革命史を通じていなかったかもしれない。その魅力の源泉は、かれ こわくてき の聖者をおもわせるような風貌と、その蠱惑的でさえある煽動演説のうまさによるもの であろう。 明石元二郎は、この「血の日曜日」のあと、西欧へ亡命したガポンとロンドンで会っ たことがあるが、 「 "A 」 , つも怪僧だ」 と、あとで宇都宮太郎に洩らしたところをみても、まともな人物とはおもっていなか 報ったらしい。大衆を蠱惑するような教祖的人物というのは、多分に催眠術師的であり、 あや 諜自分自身に対しても華麗な自己催眠をほどこしうる妖しさをもっているのであろう。 大一九〇三年春にガポンが右の団体をつくってからその人気が異常なほど高まった。結 成後一年半で会員が九千人になったという。
の進境は早く、七、八カ月で、日常会話に不自由しなくなった。 さらにこのロシアの大学生からロシアの不平分子の状況について多くを教えられた。 明石はどの国に行っても語学修業をやるとともに、その国の歴史を冷静な態度で把握 するという方法をわすれなかった。 さきに、ロンドンの宇都宮太郎中佐が明石に対し、 ロシア的専制の現実はこうとらえるべきである。 と、史的考察をまじえた現状分析をしてみせ、それについては明石は黙々と聴くのみ で自分の意見をのべなかったが、明石が着任から開戦までの短期間にとらえたロシア観 も、当時の日本人のロシア観のなかではずばぬけたものであった。かれは自分の観察を、 「露国史」 という題で、長文のエッセイを書き、それを参謀本部に送っている。ただし書いたの は日露戦がおわった明治三十九年である。簡潔な名文で、文章としてもこの当時の日本 では第一級のものであり、日本人の手によって書かれた最初の「ロシア小史」であり、 以後これほどすぐれたロシア小史は容易にみつからない。 報その冒頭は、 だいはんと 諜「世界に比類なき大版図を有する露西亜帝国は、復た世界に比類なき奇態なる歴史を有 大す」 という結論からはじまり、ロシア帝国の歴史が西ヨーロツ。ハ諸国のそれとはまるでち
0 明石が参謀官の養成所である陸軍大学校に入ったのは明治二十年一月で、好古より数 年おくれている。 このため戦術はメッケル少佐にわすかに教わっただけで、おもにメッケルの後任であ るウイルデンプルグ少佐に教わった。もっとも明石のころになると、教官は日本人が多 くなっていた。 明石のころの教官の陣容は、ウイルデンプルグのはかは日本人によって占められてお り、日露戦争の満州軍の作戦担当者が多い。 たとえば児玉源太郎が軍政学と編制学をおしえ、戦術は、のちに満州軍総司令部の主 任参謀になる井口省吾 ( 静岡 ) が担当し、ほかに日露戦争の第九師団長大島久直 ( 秋 おおさこなおとし きごしやすつな 田 ) 、第七師団長大迫尚敏 ( 鹿児島 ) 、第五師団長木越安綱 ( 石川 ) といった連中が教官 であった。 同期生は、八人である。つぎの期に、英国で諜報を担当した宇都宮太郎がいた 卒業後、明石はしばらく隊付をしたあと、参謀本部に出仕した。 この時代、好古が旧藩と縁が深かったように、明石もまるでなお福岡藩 ( 黒田家 ) 士 であるかのように、黒田家の屋敷のなかの御長屋をかりて住んでいた。 「変なひとだった。猫いっぴきを飼っていて、もどってくると帽子をそのあたりに投げ つける。すると猫が呼吸をのみこんでいてその帽子のなかで寝る。翌朝、その猫を追い