この兵器を世界でもっとも早く陸軍の制式兵器としてとりあげたのはロシア軍である。 フランス陸軍が日露戦争の戦訓によって明治四十年 ( 一九〇七 ) に、ドイツ陸軍が同四 十一年に正式採用したことをおもえば、ロシア陸軍の性格が、火力においていかに積極 性をもったものであるかがわかる。ロシアの機関銃はいずれも輸入品で、マキシム式と レキガー式の二種類が装備されていた。 その威力の大きさは、旅順攻防戦において乃木軍がさんざんに知らされた。旅順要塞 の堡塁にそなえつけられた機関銃のために死傷した日本兵の数はかそえきれぬほどであ じよう」う り、長岡外史の表現をかりれば、かれらはむなしく敵の城壕の理め草になった。この 兵器についてはたとえば軍司令官の乃木希典でさえ、最初、その異様な連続音をきいた ときは、その正体が想像できなかったほどであった。 ただ日本軍においては例外として、秋山好古の献策によって騎兵旅団だけがこれを装 備していた。好古の騎兵旅団が、世界最強のコサック騎兵に対してなんとか互角にたた かい、つねにコサック騎兵に対してわずかの差で優勢を保ったのは、機関銃のおかげで あったともいえる。ついでながら奉天会戦の段階においてはロシア騎兵は刀数 ( 騎兵の へかぞえ方 ) において一万を越えるのに対し、日本は三千でしかなかった。。 : カロシア騎 天兵は騎兵砲をもっていたが、機関銃の装備はうすく、この点、日本騎兵はわずかに有利 奉であった。 日本軍は、機関銃の威力にめざめた。なにしろ旅順攻防においてだけでなく、野戦に くさ
である。数え方は挺ではなく門であった。 この新兵器についてはロシア軍のほうは十分装備しており、野戦軍は馬二頭に曳かせ し力しキ ) た繋駕式の砲架を用いていたが、旅順要塞の場合はそれを各堡塁にそなえつけ、シャワ ーのように弾を噴出させて日本兵を薙ぎたおした。 まれすけ ついでながら旅順攻撃を担当した乃木希典は、要塞攻撃の初期、ロシア堡塁からきこ えてくる連続射撃音をきいて、 「あのポンポン言う音はなんじゃ」 と幕僚にきいたところ、あれはマキシムであります、と幕僚が答えた。ある種の機関 銃が、サー・ヒラム・マキシムの発明によるため、マキシムとよばれていた。 「ああ、あれがマキシムか」 と、乃木ははじめてその音をきいたが、秋山好古はすでに十年前、中佐のころ ( 乗馬 学校長当時 ) からこれを騎兵に装備することを進言しつづけ、ついに日露戦争の開戦直 前、かれの騎兵第一旅団と同第二旅団にだけ「機関砲隊」が設置されることになった。 車輪をつけて馬でひつばる繋駕式のもので、陣地に据えつける場合は三脚を用いる。こ の騎兵旅団の機関銃が、機関銃をもたない日本陸軍にとって例外的なものであり、好古 台 溝にすれば、肉体的に劣差のある日本騎兵の弱点をこの火力によって補おうとしたのであ 黒る。 この時期、「点」にあって「面」にかこまれてしまっている各拠点が、かろうじて潰
将にもなれなかった。 ハミルトンは黒木軍とともに敵弾を浴び、遼陽会戦も沙河の激戦も観戦するのだが、 やがて旅順が陥ちてから旅順の戦闘経過を現地でみるために一月十八日、他の外国武官 とともに旅順に入ったのである。 ハミルトンは、旅順であれほど戦った乃木軍が、こんどは北方の戦野にむかうべく、 あたらしい集結地の遼陽にむかって送られてゆくのを、その目でみた。 かれは、柳樹房にある乃木軍の司令部で数日起居した。粗末なシナ家屋の一隅が、に わか普請で幾部屋かに仕切られた。ハミルトンは将官であったため特別に一室をあたえ られた。ただし大男のハミルトンにとっては動物のオリのような、やっと身動きできる ヒ方の野 かれはそれでも感謝しているくらいに」 程度の小さな空間でしかなかったが、 戦の生活はひどかった。 到着した翌日、他の外国武官とともに乃木希典に紹介された。 乃木について、ハミルトンは以下のような印象を書きしるしている。 ( 松本泰氏訳 ) 耙まず、はじめて会った日。 軍「せいのすらりとした気品のある白髯の老将軍で、顔をあわせた瞬間に、明達という感 乃銘を受けた」 三日後の二十二日 、ハミルトンが旅順の市街から柳樹房にかえってくると、ローマ字 はくぜん
「ロシア海軍の軍人は、日本人をつねにあなどって猿と呼んでいた。猿とよぶことによ ごうまん ってみずからを高くし、その傲慢の結果が旅順艦隊の滅亡をまねいた。さらにわれわれ の第二艦隊 ( バルチック艦隊 ) は各艦に貝ガラや海草をびっしりくつつけて極東へおも むこうとしている。日本人は掃除も修理もゆきとどいた艦艇をもってわれわれをむかえ るであろ , っ : : : 」 と、ポリトウスキーは「われながら益もない愚痴をくりかえすようだが」とことわり つつもこの艦隊の前途についての悪材料が、その艦底にもあることを指摘している。 事実、東郷は旅順ロの長期にわたる封鎖作戦中、艦底がよごれてゆくことを気にしつ づけていた。バルチック艦隊の東航までにまずやっておきたいことは各艦艇の掃除であ った。それをやれるだけのゆとりを欲した。そのために旅順が一日でも早く陥ちること をのそみつづけていたのである。旅順の陥落は東郷の艦隊に、修理と掃除の時間を獲得 させた。 かん この間、日本側はバルチック艦隊の動静をさぐるためにあらゆる手を打った。 突諜報活動以外に、遠く南海へ艦船を派遣して偵察させた。 その最初のこころみとして旅順がまだ陥ちていないころ、東郷は数隻の仮装巡洋艦に 色 黄その任務をあたえて行動させている。 ほんこんまる 香港丸と日本丸がそうであり、この両艦は十二月十三日佐世保を出港し、同月二十二
を通じてロシア帝国のすくいがたい患部を、体じゅうで知っていた。 右のことが幕僚室で話題になったとき、一人の士官が、 「海軍が忘れられている」 と、突如、怒りだしたのである。陸軍に行賞があって海軍に何の沙汰もないとはなに ごとであるか、という。かれのいう海軍とは、この戦役に参加した旅順艦隊 ( 第一太平 洋艦隊 ) のことである。あの艦隊の士官に対する行賞が無視された。これは皇帝の海軍 に対する重大な侮辱である、とその士官は演説するような口調で叫んだ。 それをきいてポリトウスキーは呼吸をわすれるほどにおどろき、その驚きは怒りに変 わった。 ( 旅順艦隊は何をしたのか ) と、叫びたかった。旅順艦隊は日本海軍とほばおなじ勢力をもちながら、その砲をも って日本海軍に対してカスリ傷一つおわせることなく海底に沈んでしまったではないか。 旅順艦隊が世界にむかって残したのは、単なる敗戦の記録ではない。史上空前の不名誉 をのこし、世界中から侮辱を買っただけではないか。 ポリトウスキーは、西欧技術を通じて西欧思想を知っていたが、しかしロシアの学生 突 煙 や兵士、労働者のあいだに浸透しつつある革命主義者ではなかった。かれは、ロシアと 黄海軍を愛した。愛するのあまり、その腐敗に対する憤りが深く、このばあいもほとんど 叫びをあげたくなったほどであった。
参謀たちは出かけて行った。 乃木は、停車場に残った。 「一時間後に煙台までゆく列車が参ります」 という連絡があったから、かれはそれに乗って総司令部にあいさつにゆくつもりであ った。もっとも若い参謀の津野田是重が随員として乃木のそばにのこった。 列車は、時間どおりにきた。 乃木と津野田はそれに乗って煙台へゆき、総司令部を訪問した。 この日、あたかも負けいくさ一歩前ともいうべき黒溝台会戦がはじまりつつあったと きであり、参謀たちは殺気立っていた。乃木閣下が来られると縁起がわるい、とささや いていた参謀もあった。 が、大山巌と児玉源太郎は心からうれしそうに乃木を迎え、歓待した。 乃木軍司令部は遼陽であたらしい司令部を設営したものの、兵隊が来ない。 かいめつ 日本軍の左翼一帯は、グリッペンベルグ大将指揮の大軍南下のために潰滅寸前の危機 にあった。 車乃木は、煙台の総司令部で大山や児玉と歓談しながら、気が気ではなかった。 乃かれの麾下の各師団や旅団は、かれよりずっと以前に旅順を出発しているのだが、列 車不足のためにほとんどが徒歩行軍しており、まだ遼陽城に入っていないのである。
「主なる軍艦には無線電信の設備がある」 「水雷防御網をもっている」 「潜航艇はもっていない」 「工作艦、水雷母艦、病院船を同伴している。それに給炭と給水用の船ももっている」 この艦隊がマダガスカル島についたということも知ったが、その後うごく様子がない ということについて当然ながら疑問をもった。 東京の判断ではおそらくすぐマダガスカル島を出発するだろうとみていた。そのまま マレー群島方面に直航し、かれらが台湾海峡付近に達するのは、 「おそらく一月上旬だろう」 と、計算していた。 旅順陥落後、東郷艦隊が艦艇の修理をいそいだのは、この理由によるものであった。 呉と佐世保の二つの軍港では、昼夜兼行の作業がつづけられた。 この計算は、ロジェストウエンスキー自身もはじめそのように考えていた。かれは、 「マダガスカルには二週間ぐらいとどまることになるだろう」 突 煙 とみていた。給炭のこともあったが地中海まわりのフェリケルザム少将の支隊と合流 黄するにはそのくらいの期間が必要だろうと思っていた。 ところが入港してほどなく旅順の陥落と「第一太平洋艦隊」である旅順艦隊が海底に
った。このあと乃木に接触する米人記者スタンレー・ウォッシュバンなどは、はとんど さんぎよう 神のようにかれを崇拝し、のち「乃木」という全編、鑽仰の文字で埋まった書物を書 ハミルトンもウォッシュバンも、進行中の旅順攻撃を見ておらず、その作戦上の推移 も概括的に知っているだけであるという点で一致していた。旅順は乃木の人格によって 陥されたのではなかったが、結果から見れば、旅順の百倍の敵でさえ陥すかもしれない 神秘的ななにかを乃木の人格はもっていた。日露戦争の象徴的な人物として、大山や黒 木、児玉よりも、乃木がつよい印象を世界にむかってあたえたのはそういう機微による のであろう。 戦争がおわればなにをしたいか。 という問いに対し、乃木は、 「もし生きて帰れるなら、故郷の長州に帰って隠退するつもりです」 と答えた。おなじ問いをハミルトンが第一軍の黒木に発したとき、黒木は「故郷の薩 進 摩に帰って」とはいわなかったが、「なるべく世間からひっこんで邪魔にならぬように 軍暮らします」 乃と、乃木と似たようなことをいった。さらに黒木は、 「この戦争に勝てば世間は軍人をもてはやすでしよう。しかし世間というものはすぐ忘 おと
しつつ敵の予備隊 ( 持ち駒 ) をこの方面に吸収してしまう。 「右を突く」 というしごとは、旅順から北進してきてあらたに戦線に加わった乃木軍にやらせる。 このため、乃木軍を日本軍最左翼に置く。その乃木軍のさらに左翼を守らせるため、秋 まれすけ よしふる 山好古の騎兵旅団を、奥軍 ( 第二軍 ) から乃木希典の隷下におく。 乃木の役目は、重大である。単に左から突いて出るというだけでなく、輜重もなにも 置きすてるほどのいきおいで前進して敵の右翼を突くだけでなく、その背後にまわらせ、 おびや 敵の背後を脅かしめる。さらにそれによって、奉天西北部に控置されているとおもわれ る敵予備隊をひきつけておく。 右 ( 鵯緑江軍 ) 左 ( 乃木軍 ) という両端攻撃運動が成功したと見きわめたとき、総司令部は中央にひかえさせてい る奥軍と野津軍に猛進を命じ、これに満州軍総予備隊 ( 微弱な兵力でしかないが ) を加 えて、この作戦案の主題である中央突破を敢行させ、一挙にロシア軍主力をくつがえし へてしま , つ。 天児玉の承認をえた松川敏胤は、二月十八日、深夜までかかってこの大攻勢に関する命 奉令を起草した。 一、鴨緑江軍ハ勉メテ強大ナル兵力ヲモッテ ( 強大なる兵力などはなかったが ) 城廠 っと かんしよう
% 「ロシアの人民の汗と血をもって建造したわが旅順海軍はいまどこにあるのだ。かれら はいささかでもロシアの名誉を発揚したか。旅順海軍の高級士官の胸にはふんだんに勲 章がぶらさがっていたが、しかしそのような胸の勲章に値いする努力や行動をすこしで もしたか」 と、ポリトウスキーは身もだえするような思いでおもった。 艦隊は、このノシベという無名の漁港に居すわりつづけている。 「この南海の星の数と位置をことごとくおばえた。われわれはそれほどに退屈である」 と、国もとへ書き送った水兵もいる。 この退屈というのは、多少の註釈が要る。 ロジェストウエンスキー提督は水兵が退屈するほどのひまを決してあたえす、たえま しようかい なく射撃訓練をさせ、外洋に出ては艦隊運動の演習をし、夜は夜で哨戒勤務を厳重に ばっぴょう 課した。が、この艦隊がいっここを抜錨するのか、抜錨して極東へゆくのか、あるい は故国へーー次第に衰えつつある希望的観測とはいえーー帰るのか。たれもみずからの けんたい 運命の位置と方角を知らなかったため、焦燥と倦怠が全艦隊をおおっていた。方角をう しなった日常ほど退屈なものはないであろう。 ロジェストウエンスキー中将は、かって旅順で艦とともに沈んだマカロフ中将の百分 の一はどの好感も兵員からうけていなかったが、しかしかれが有能な提督であることを、