日本人には、元来防御の思想と技術がとばしい 日本戦史はほんの数例をのそいては、進撃作戦の歴史であった。 防御戦における成功の最大の例として、戦国末期、織田信長の軍団を数年にわたって ささえつづけた石山本願寺 ( いまの大阪城付近 ) のそれが存在する。本願寺は戦闘では 最後まで戦闘力をうしなわずに戦勢をもちこたえたが、結局は外界の外交事情が不利に なり、和睦した。 このいわゆる石山合戦の場合でも、防御戦のための工学的な配慮や物理力が存在した わけではなく、物理力といえば、 ひとえ 「堀一重、堀ひとめぐり」 というかばそいものであった。この合戦の本願寺側の防御力をささえたものは、門徒 たちの信仰の力しかない。 この点、徳川初期の島原ノ乱におけるキリシタン一揆もおな じ事情である。 日本人のものの考え方は、大陸内での国家でなかったせいか、物理的な力で防御力を 構築してゆくというところにとばしく、その唯一の例は秀吉の大坂城ぐらいのものかも しれない。秀吉はかって自分が属した織田軍団が、あれはど石山本願寺の防御力に手こ 台 溝すったことを思い、おなじ石山の地に大坂城という一大要塞を構築したが、その規模の 黒大きさは城内に十万以上の兵士を収容できるもので、それ以前の日本史ではとびぬけた ものであった。
ばるのに、長い時間がカカった ろたん もし、この初対面のシリヤクスが露探であったとすれば、登りつめたところに死が待 ちうけているかもしれないという可能もあるわけだが、明石は「面貌愚のごとし」と いうそのふだんのままの表情で、のこのこ付いてきた。どうみても日本の敏腕な高級将 校というより、山奥からはじめて都会へ出てきたダッタン人といった感じであった。シ リヤクスは、自分の先輩のカストレンに対し、あれは信頼できる、だから会ったほうが 、とすすめた自分の判断がいよいよ正しかったということを、明石のぜんたいのふ んい気から確認しこ。 もっとも明石は、日本と日本人についての一個の世界的な通念のおかげでとくもして いた。日本人が日清戦争や北清事変を戦ったとき、軍隊につきものの掠奪事件は一件も おこさなかったということが、世界じゅうのおどろきを誘った。さらには戦時国際法に 馬鹿まじめすぎるくらいに忠実であったということも、あるいはまたヨーロツ。ハの知識 人のなかにあるサムライ伝説というものも、明石の信用を援助した。 いんきょ カストレンは、一見、富裕な家の温厚な隠居といったふうの老人で、たえす微笑をし、 ) いろう 多一くはらない 。この老人が帝政ロシアの高等警察から豺狼のようにおそれられている 人物とはとてもおもえなかった。 明石は、カストレンそのひとよりももっと驚いたのは、この秘密の部屋にかかってい る写真についてであった。
文春文庫 司馬遼太郎の本 司馬遼太郎 翔ぶが如く ( 全 + 冊 ) 司馬邃太郎 木曜島の夜会 司馬遼太郎 歴史を考える 司馬遼太郎対談集 司馬遼太郎・陳舜臣 対談中国を考える 司馬遼太郎 ロシアについて北方の原形 司馬遼太郎 手掘り日本史 ( ) 内は解説者 明治新政府にはその発足時からさまざまな危機が内在外在して 9 いた。征韓論から西南戦争に至るまでの日本をダイナミックに し 捉えた大長篇小説。 z 大河ドラマ原作。 ( 平川祐弘 ) オーストラリア北端の木曜島で、明治初期から白蝶貝採集に従 事する日本人ダイ・ハーたちがいた。彼らの哀歓を描いた表題作 他「有隣は悪形にて」「大楽源太郎の生死」「小室某覚書」収録。 日本人をつらぬく原理とは何か。千数百年におよぶわが国の内 政・外交をふまえながら、三人の識者、萩原延壽、山崎正和、 綱淵謙錠各氏とともに、日本の未来を模索し推理する対談集。 日本と密接な関係を保ちつづけてきた中国を的確に理解してい るだろうか。両国の歴史に吐罷頏の深い両大家が、長い過去をふ まえながら思索した滋味あふれる中国論。 日本とロシアが出合ってから一一百年ばかり、この間不幸な誤解 を積み重ねた。ロシアについて深い関心を持ち続けてきた著者 が、歴史を踏まえて、未来を模索した秀逸なロシア論。 私の書斎には友人たちがいつばいいるーー史料の中から数々の 人物を現代に甦らせたベストセラー作家が、独自の史観と発想 の核心について語り下ろした白眉のエッセイ。 ( 江藤文夫 ) し し一 1 ー 49 し一 1 ー 50 し一 1-58
「ロシア海軍の軍人は、日本人をつねにあなどって猿と呼んでいた。猿とよぶことによ ごうまん ってみずからを高くし、その傲慢の結果が旅順艦隊の滅亡をまねいた。さらにわれわれ の第二艦隊 ( バルチック艦隊 ) は各艦に貝ガラや海草をびっしりくつつけて極東へおも むこうとしている。日本人は掃除も修理もゆきとどいた艦艇をもってわれわれをむかえ るであろ , っ : : : 」 と、ポリトウスキーは「われながら益もない愚痴をくりかえすようだが」とことわり つつもこの艦隊の前途についての悪材料が、その艦底にもあることを指摘している。 事実、東郷は旅順ロの長期にわたる封鎖作戦中、艦底がよごれてゆくことを気にしつ づけていた。バルチック艦隊の東航までにまずやっておきたいことは各艦艇の掃除であ った。それをやれるだけのゆとりを欲した。そのために旅順が一日でも早く陥ちること をのそみつづけていたのである。旅順の陥落は東郷の艦隊に、修理と掃除の時間を獲得 させた。 かん この間、日本側はバルチック艦隊の動静をさぐるためにあらゆる手を打った。 突諜報活動以外に、遠く南海へ艦船を派遣して偵察させた。 その最初のこころみとして旅順がまだ陥ちていないころ、東郷は数隻の仮装巡洋艦に 色 黄その任務をあたえて行動させている。 ほんこんまる 香港丸と日本丸がそうであり、この両艦は十二月十三日佐世保を出港し、同月二十二
ランの冒険よりも困難な冒険をやってしまったのであろう。 「ロシアの皇帝、ロシアの教会、ロシアの軍隊がなくならないかぎり、われわれコーカ サス人の生存はありえません」 と、青年は目を見開いたまま語りはじめた。戦線では、コーカサス人がかならす危険 な場所にやられ、まっさきに死ぬことを強制されつつある。ポーランド人もそうです。 ロシア皇帝はわれわれ異民族の血でその身を守り、その野望を遂げようとしています、 と語った。 「ロシア皇帝は極東に野望をもち、日本人をもわれわれコーカサス人とおなじようにそ れを奴隷にすべく圧迫しました。日本人はそのおそるべき運命から脱出すべく銃をとっ て立ちあがりましたが、 本来、運命を共同しているはずのコーカサス人が同志である日 本人を相手に戦わねばならぬというのは、悲惨の極であります。そういう非人間的行為 をわれわれに強要する皇帝を、神がゆるし給うでしようか」 「君は、神を信じているのか」 とうやらマルクス主義者ではなく、 ときくと、小さな声で、信じています、と答えた。・ 報激越な民族主義者なのであろう。 諜この青年は、明石に、 大「私になにか命じてください」 と、懇願した。二十そこそこのこの青年にとっては、脱出するエネルギーはあっても、
の進境は早く、七、八カ月で、日常会話に不自由しなくなった。 さらにこのロシアの大学生からロシアの不平分子の状況について多くを教えられた。 明石はどの国に行っても語学修業をやるとともに、その国の歴史を冷静な態度で把握 するという方法をわすれなかった。 さきに、ロンドンの宇都宮太郎中佐が明石に対し、 ロシア的専制の現実はこうとらえるべきである。 と、史的考察をまじえた現状分析をしてみせ、それについては明石は黙々と聴くのみ で自分の意見をのべなかったが、明石が着任から開戦までの短期間にとらえたロシア観 も、当時の日本人のロシア観のなかではずばぬけたものであった。かれは自分の観察を、 「露国史」 という題で、長文のエッセイを書き、それを参謀本部に送っている。ただし書いたの は日露戦がおわった明治三十九年である。簡潔な名文で、文章としてもこの当時の日本 では第一級のものであり、日本人の手によって書かれた最初の「ロシア小史」であり、 以後これほどすぐれたロシア小史は容易にみつからない。 報その冒頭は、 だいはんと 諜「世界に比類なき大版図を有する露西亜帝国は、復た世界に比類なき奇態なる歴史を有 大す」 という結論からはじまり、ロシア帝国の歴史が西ヨーロツ。ハ諸国のそれとはまるでち
この一件は明石はさすがに手にあまるとおもい駐英公使林董に相談して一任した。 林も、おどろいた。 しかし日本軍のポーランド部隊が、ロシア軍のポーランド系兵士に投降をすすめれば 大きな効果があるだろうとおもった。 林は、これらを東京へ報告した。 が、大本営は、一笑に付した。 「日本軍がいかに兵力が払底していようとも、外国人の手は借りたくない。借りれば、 後世の戦史に汚点をのこす」 という大本営参謀もいた。この時代の日本人というのはあくまでもスタンド・プレイ を好み、投降勧誘の文書すらっくらなかった。が、それでもなおこの報告によってロシ ア軍内部の重大な疾患を日本側は知ることができた。 「不平党大連合」 というスローガンをかかげてシリヤクスと明石が南欧方面を転々としていたとき、ロ 報シア革命前期における最大の指導者の一人ともいうべきチャイコフスキーから手紙をも 諜らった。 大「これは純露人にして偉大なる革命家なり」 と、シリヤクスは感動のあまりフィンランド語で叫び、明石の右手をその大きな掌で
司馬遼太郎 幕末 司馬遼太郎 夏草の賦 ( 上下 ) 司馬遼太郎 義経 ( 上下 ) 司馬遼太郎 春【遼 文 日本人を考える 【司 司馬遼太郎対談集 司馬遼太郎 殉死 司馬遼太郎 余話として ( ) 内は解説者 歴史はときに血を欲する。若い命をたぎらせて凶刃をふるった 3 者も、それによって非業の死をとげた者も、ともに歴史的遺産 し だ。幕末に活躍した暗殺者たちの、いわば列伝である。 戦国時代に四国の覇者となった長曾我部元親。ぬかりなく布石 し、攻めるべき時に攻めて成功した深慮遠謀ぶりと、政治に生 きる人間としての人生を、妻との交流を通して描いた長篇。 牛若丸としての少年時代から、義経となって華やかに歴史に登 場したこの武将は、軍事的な天才ではあったが、あわれなほど に政治感覚がなかったため、ついに悲劇的な最期に至った。 梅棹忠夫、大養道子、梅原猛、向坊隆、高坂正堯、辻悟、陳舜 臣、富士正晴、桑原武夫、貝塚茂樹、山口瞳、今西錦司の十一一 氏を相手に、日本と日本人について興味深い話は尽きない。 戦前は神様のような存在だった乃木将軍は、罷ゆえに日露戦 争で多くの部下を死なせたが、数々の栄職をもって晩年を飾ら れた。明治天皇に殉死した彼の人間性を解明した問題作。 アメリカの剣客、策士と暗号、武士と言葉、幻術、ある会津人 のこと、『太平記』とその影響、日本的権力についてなど、歴史 小説の大家がおりにふれて被露した興味深い、歴史こぼれ話。 し一 1 ー 38 し一 1 一 24 し一ト 36 し一ト 26 し一 1 ー 37
200 帝政ロシアを倒してくれるかもしれない日本人を殺すことは民族のために有害でさえあ った。そのことはポーランドにおけるすべての反露運動家がそう信じていた。 明石は、そういう背景のもとに、 「ポーランド人をこそこの大会にひき入れねばならない」 とおもっていたが、しかしすでに触れたようにポーランド反露諸派のなかには、ロシ アの弾圧をおそれるあまり、この大会に参加すまいという動きがあることも事実であっ 九月のはじめ、明石はストックホルムからロンドンに転じた。 そのとき、ロンドンの日本公使館にポーランド社会党の首領のヨードコーとその幹部 数人がたずねてきたのである。 「こんどの大会について、一部に疑念がある」 と、ヨードコーがいった。ヨードコー自身はこの大会に賛成であったが、その傘下の 亠名〔」は、 背景に日本のスパイの明石がいる。 ということで不参加を主張する者があり、ヨードコーとしてそれをおさえきれない、 というのである。 明石は、即座にいった。 「この大連合を立案し、推進させているのは、あくまでもフィンランド人のシリヤクス ) んか
160 知らない。そういう人物から書状をうけとる理由もない。なにかの人ちがいではない ( 釣り落したか ) 明石はそうおもっただけで、落胆はしなかった。釣り場もしらべず、案内人もなしに、 ゆきあたりばったりに鉤をなげこんだところで、おもうように魚が寄ってきてくれるは ずがない。 書記官の秋月左都夫だけが、明石のやっていることがどういう内容のものであるかを 知っていた。 「失望しないよ , つに」 と、明石のそばにきてささやいた。明石は失望などはせん、とつぶやいた。 「日本人にとっても、フィンランド人にとっても、敵はあの陰惨きわまりないロシア帝 政である。カストレンはそれを知っているはずだ。私の書状をうけとって、心は波立っ たにちがいない」 秋月はこの一一一一口葉に感動した。そのとおりであった。さらには、この戦争に負ければ、 日本は朝鮮とともにフィンランドやポーランドの悲運におち入るのである、といった。 「日本の心や立場がもっとも理解できるのはフィンランド人だろう」 と、秋月はいった。 明石はカストレンに接触することには失敗したが、その反応は別の方角から出た。タ