戦後、三笠が火薬爆発をおこしたときに艦と運命をともにした。 「演奏している私たちは、まだ若かったせいか、わけもなく涙がこみあげて仕方があり ませんでした」 と、河合氏は語っておられる。 佐世保港を出ると、やや浪が高かった。三笠は、一路、鎮海湾をめざした。 三笠には、その弾薬庫にある下瀬火薬とともに、もっとも誇るべきものとして三六式 無線電信機が、後部シェルターデッキの下にそなえられていた。 秋山真之が、戦後すぐ、この無線機の発明者である木村駿吉博士へお礼の電報をうち、 あとあとまで、 「通信戦に関するかぎり、日本海軍のひとり舞台だった」 と語っていたほどに、その性能がすぐれていた。この日露戦争の前、日本海軍が無線 の実用化のために払った苦心と努力はすさまじいはどのもので、日本は作戦と艦隊運動 の優越をもってロシアに対抗する以外になく、それを実際の海上で可能にするのは、優 秀な無線機であった。 湾この航海中、真之はよほど気になっていたらしく、しばしば後部シェルターデッキの 海下へ行って、この無線機の操作をみた。 鎮 佐世保を出た三笠は、白い航跡を曳きつつ西北へ針路をとった。
284 ちゅうとん という寺院を兵舎として駐屯していた英国海軍歩兵第十番隊付の軍楽長ジョン・ウィ リアム・フェントンのことだが、偶然ながらかれは日本の海軍軍楽隊の最初の教師にな ったというだけでなく、このときから日本における西洋音楽の歴史がはじまるといって しいであろう。 薩摩藩が、西洋音楽に興味をもったのは、文久三年 ( 一八六三 ) 七月、この藩が鹿児 しま三笠に座 島湾において英国艦隊と戦った戦闘が契機になっている。この戦いでは、、 乗している東郷平八郎も父吉左衛門および二人の兄とともに、齢十七で参加した。かれ ばかま ったじ上うもん は五ッ蔦の定紋を打った陣笠をかぶり、ツッソデのブッサキ羽織にタチアゲ袴をはき、 両刀を帯し、火縄銃をもち、母親の益子の「負クルナ」という声にはげまされて家を出、 せんとうだんかせん 持ち場についた。英国艦隊は艦砲で尖頭弾と火箭を送り、薩摩藩は沿岸砲に円弾をこめ て応酬し、戦闘は結局は勝敗なしのひきわけといった結果になったが、この戦闘中、英 国軍艦の上では士気を鼓舞するためにしばしば軍楽が吹奏され、それをきいた薩摩藩士 たちは敵の身ながら感動し、戦後、 「あれはよかもんじゃった ということになって、いっか機会があれば藩にとり入れたいという相談があった。そ れが実現したのが明治二年の横浜派遣で、派遣された若者は二十九人であった。 ひょうぶしよう これが明治四年、兵部省付属になり、翌五年兵部省が廃止され陸海軍両省がおかれた ときこの軍楽隊が陸軍と海軍に二分された。
が、このクラド論文の要旨が、艦隊の兵員にまでったわったとき、かれらの士気を大 いにくじいたことは、まぎれもないことであった。 技師ポリトウスキーの日常のいそがしさは、一一 = ロ語に絶するものがあった。 ていはくちゅう このノシベ碇泊中も、大小の艦艇から故障を訴えてくる。軍艦の内科医で外科医を 兼ねていたかれは、いちいちその現場に行って故障の状態をみねばならず、処方を指示 せねばならす、ときには修理現場でつきっきりの指揮をしなければならなかった。 この世界海軍史に類のない、 「ロジェストウエンスキー航海」 が、当初、各国の海軍専門家から、 とても、成功すまい とおもわれていたひとつの理由として、艦船が故障をおこした場合 ( たえず故障をお こすものだが ) それをどのように修理してゆくかということであった。 これが平和な状況での航海ならば、造船所や艦船の修理設備をもっ港へもぐりこんで 突しまえばそれで始末がつくのだが、しかしいまは戦時で、しかもロシアの敵である日本 の同盟国は海上王国である英国であり、英国はその属邦の港をロシア艦隊につかわせな 色 黄、だけでなく、フランスやドイツに間断なく苦情を申し入れて、その港をつかわせない よ , つにしている。
圧倒的に優勢なのである。 たとえば決戦兵力である主力艦の十二インチ砲というのは、日本は十六門しかないが、 ロシアは二十六門になる。次いで十インチ砲は日本は一門でロシアは七門、九インチ砲 は日本は皆無、ロシアは十二 門。ただ八インチ砲は日本ははるかに優勢で ( 日清戦争で の戦訓によるものだが ) 三十門もあり、ロシア側は八門しかない。以上は主力艦群の砲 の比較である。 これからみれば、 「九インチ以上の砲では、ロシア側がはるかに優勢である」 という結論がひきだせるのだが、しかしクラド中佐はそれをしなかった。その論文は せいち 決して精緻なものではなく、むしろことさらに悲観的結論を宣伝するために書いたとし かおもえない クラド中佐は、ロシア海軍の正規将校である。それが、自国の海軍について「警告」 のかたちをとっているとはいえ悲観的観測をするということについては、 「あれは海軍省が書かせたのだ」 という皮肉な見方をする者さえいた。もし負けた場合、海軍省の責任が追及されるわ 、その場合の官僚的な逃げ口上をあらかじめつくっておくためのものだ、という のである。これは多少うがちすぎているかもしれなかった。なぜならクラドはこの論文 のために結局は逮捕されたからである。
を通じてロシア帝国のすくいがたい患部を、体じゅうで知っていた。 右のことが幕僚室で話題になったとき、一人の士官が、 「海軍が忘れられている」 と、突如、怒りだしたのである。陸軍に行賞があって海軍に何の沙汰もないとはなに ごとであるか、という。かれのいう海軍とは、この戦役に参加した旅順艦隊 ( 第一太平 洋艦隊 ) のことである。あの艦隊の士官に対する行賞が無視された。これは皇帝の海軍 に対する重大な侮辱である、とその士官は演説するような口調で叫んだ。 それをきいてポリトウスキーは呼吸をわすれるほどにおどろき、その驚きは怒りに変 わった。 ( 旅順艦隊は何をしたのか ) と、叫びたかった。旅順艦隊は日本海軍とほばおなじ勢力をもちながら、その砲をも って日本海軍に対してカスリ傷一つおわせることなく海底に沈んでしまったではないか。 旅順艦隊が世界にむかって残したのは、単なる敗戦の記録ではない。史上空前の不名誉 をのこし、世界中から侮辱を買っただけではないか。 ポリトウスキーは、西欧技術を通じて西欧思想を知っていたが、しかしロシアの学生 突 煙 や兵士、労働者のあいだに浸透しつつある革命主義者ではなかった。かれは、ロシアと 黄海軍を愛した。愛するのあまり、その腐敗に対する憤りが深く、このばあいもほとんど 叫びをあげたくなったほどであった。
った。ときに全滅にちかい打撃をうけた。 ぎゅうきょ とくにひどい例は、牛居という村落を拠点にしていた千人ばかりの歩兵部隊は、朝 ′」かし になって気づいてみると、となりの五家子という拠点にいた友軍が居なくなっていた。 牛居拠点の指揮官は、伊東という中佐であった。 「連絡もせずに逃げてしまったというばかなことがあるか」 と伊東は憤慨したが、敵中で孤軍になった以上、伊東もこれ以上、拠点をまもるすべ がない。そのうち、前方で運動していた小部隊が退却してきたので、将棋だおしのよう なかっこうになって、相ともに後方の修二堡という大拠点まで退却するというしまつだ っ ? ) 0 日本軍ハ全線ニワタッテ崩潰ノキザシアリ。 と、シベリア第一軍団のもとで支隊をひきいるレイス大佐が、軍団長シタケリベルグ 中将に報告したほどであった。 ひとり、秋山好古の支隊のみが、黒溝台を放棄して後退した種田大佐の部隊をのそき、 一点も退却しなかった。 退却しなかったのは好古が開発した拠点防御主義のおかげであった。 「拠点防御」 などは、日本風の急襲主義とは相容れない考え方であったが、しかし弱い日本騎兵と しては、これ以外に敵と互角に戦える方法はなかった。この時期、海が移動するように
よろ ヨール、オスラービアは、それ以上に厚い装甲によって鎧われており、海軍最大の十二 インチ砲弾でさえこのように無力であれば、他の小口径の砲弾は意とするに足りない。 ポリトウスキーは、そ , つおもった。 が、その原因をポリトウスキーは知らなかった。右の艦を調査した各国の専門家も気 づかなかったことだが、じつはこの理由は装甲のつよさにあるのではなく、日本の徹甲 弾がある一点で不良だったためであった。 信管が、鋭敏すぎたのである。 そのため、敵の艦体に触れるやいなや爆発してしまい、装甲をつらぬく前に炸裂して しもせ しよういりよく 力が拡散されてしまったのである。ただ焼夷力の驚異的につよい下瀬火薬によって兵員 の被害が大きかったことが、この艦を右のような運命にひきずりこんだ。 青島の港内に横たわった旧旅順艦隊の戦艦ツェザレウィッチは、いわば世界中のさら しものになった。 が、同時に日本海軍の能力についても疑問がむけられた。 突「十二インチの主砲砲弾を十五発も命中させていながら、なぜ日本海軍はこれを撃沈す ることができなかったのか」 色 黄という疑問である。 バルチック艦隊に乗り組んでいる技師ポリトウスキーもこの点に疑問と前途への希望 てつこう
吉村昭 深海の使者 吉村昭 関東大震災 士ロ村昭 逃亡 庫本 吉村昭 春村 文亭主の家出 吉村昭 総員起シ 吉村昭 海軍乙事件 ( ) 内は解説者 第一一次大戦中、社絶した日独両国の連絡路を求めて、一鼕ロ国の 制海権下にあった大西洋に、数次にわたって潜入した日本潜水 T 艦の闘いを描いて、文藝春秋読者賞を得たドキュメント小説。 一九二三年九月一日、正午の激震によって京浜地帯は一瞬にし 一」地獄とな 0 た。朝鮮人虐殺など 0 陰惨な事件」よ 0 悲劇は 増幅される。未曾有の。ハニックを克明に再現した問題作。 軍用機を・ハラせーー男の言葉に若い整備兵は蒼ざめた。戦局日 に日に不利な海軍航空隊で苛酷な毎日を過ごす彼は、飛行機を 爆破して脱走する。戦争に圧しつぶされた男の苦悩を描く。 当年四十一一歳、中年の花盛りといいたいが、女房と子供には無 視され、メシすら満足に食わせてもらえない。これでは家出し たくなるのも当然。そこに現れたのが男のパラダイスだった。よ 沈没後九年で瀬尸内海から引揚げられた悲劇の潜水艦イの一 室から、″生けるが如き〃十一の遺体が発見された。表題作のほ か、「鳥の浜」「海の棺」「剃刀」「手首の記憶」を収める。 昭和十九年、フィリピン海域で飛行艇一一機が遭難。連合艦隊司令 長官機は行方不明、参謀長機は敵の手に。参謀長の機密書類は ? 7 他に「海軍甲事件」「八人の戦犯」「シンデモラツ。ハヲ」収録。 よー 1 ー 6 よー 1 ー 3
もたせる結果をうんだ。 日露双方の主力艦の質については、福井氏は、 「ともに一優一劣であって、まず同一のレベルといっていい」 と、 いっておられる。 以下、福井氏の研究から多くを得た。もし記述にあやまりがあれば、この稿の筆者の 責任である。 福井氏は、両国の戦艦を比較しておられる。その結論を借用すると、 「概して、日本の戦艦のほうが、個艦として優越している。排水量が大きく、速力も早 「ロシアの戦艦の大部分は自国の建造である。しかしフランス式の設計のものが多く、 なかには米国の建造艦もふくまれる。このため、艦型、性能、兵装が雑多である」 しまいかん 日本海軍は、山本権兵衛の海軍設計によって姉妹艦方式をとっているだけでなく、お なじ力をもった艦が足をそろえて行動できるようにいわばセット制になっているのに対 し、ロシア海軍はその点の配慮がわすかしかなされていない。 ロシア海軍は、その造艦設計においては多分に独創的であった例をいくつももってい るが、しかし他国の優秀な技術を導入する努力はそれ以上に払ってきた。 とくに、極東の風雲があやしくなりはじめた明治三十一年から同三十二年にかけて、 アメリカとフランスへそれそれ一隻ずつの戦艦を注文し、仏では「ツェザレウィッチ」、
跖「タイムズ」の調べによれば、 「ロシアの高官は、ウェールス炭 ( 艦船用の最良のイギリス炭 ) の値段を帳簿につけて、 粗悪な日本炭を買いこみ、巨富を得た者も多い」 という。日本炭がドイツの石炭会社を通じて買いあげられ、それがロシアの軍艦にも うもうたる黒煙を吐かせていたとすれば、商業というものの機能はいかにも奇妙である。 この大艦隊のゆくさきざきで石炭を補給してゆくということじたいが世界的規模の大 作戦であったということは、すでにふれた。 しかしそれがロシア人の頭脳で立案されたものか、その航海中の補給いっさいを請け 負ったドイツのハンプルグ・アメリカン会社の能力によるものか、そのあたりはよくわ からない。 ただ例の造船技師ポリトウスキーは、一月二十七日のかれの私記 ( 妻への手紙 ) に、 「ドイツ人はじつにおどろくべき実務家ばかりである。ドイツの石炭船には、船長のほ かに副船長というのが乗っている。それらはみなドイツ海軍の士官である」 そのドイツ海軍の士官たちが石炭補給についての実際の業務をやっているらしいカ ポリトウスキーはそうとはとらす、 「かれらはわれわれを見ているのだ」 と、書いている。ロシア艦隊のこの至難な航海の状況を視察して自国海軍の将来の利