286 があったという形跡がない。 瀬戸口はこの作曲に熱中し、つくりあげて「軍艦」という題にして明治三十年に発表 すいこう したが、 それが気に入らす、一年ほど推敲をかさねて「軍艦行進曲」を仕上げ、明治三 十三年四月三十日、神戸沖観艦式ではじめて演奏された。 このころの「軍艦行進曲」はハ長調で、その後のものとはすこしちがっている。その 後、歌うのに高すぎるということで、明治四十三年、ピアノ編曲で出版されるとき瀬戸 口がこれをト長調にあらためた。 以上の次第であるために、この時期、三笠乗組の軍楽隊がもっていた楽譜はハ長調の ものであった。 さらには、文久三年の薩英戦争のときに、薩摩藩士の記憶では戦闘中の英国軍艦の上 で軍楽が吹奏されていたというが、その後の日本海軍にあっては、戦闘中に軍楽が吹奏 されることはなかった。 河合太郎氏が語るように、戦闘中は軍楽隊員は戦闘のメンノ ヾーに組みこまれた。 河合太郎氏よ、 : 。しさ戦闘の場合、十二インチ主砲の砲塔の伝令で、無線助手を兼ねる ことになっていたし、他の隊員は信号助手として艦橋に配置される予定になっていたり、 あるいは負傷者運搬員になるべく任務づけられていた。それらはいすれも敵の砲弾がも っとも多く集中し破裂する場所であり、軍楽隊員の死傷率がもっとも高いであろうとい うことは予想されていた。
こよこの日露戦争の時期でもなお薩摩人が多く、 このため、海軍軍楽隊のメンバーし。 「軍艦行進曲」の作曲で有名な瀬戸口藤吉も薩摩うまれで、明治十五年海軍軍楽隊生徒 マ ) よっこ。 「父が音楽というものにはじめて接したのは、海軍に入ってからです」 と、その子息の瀬戸口晃氏 ( 東京都世田谷区奥沢町一ー一八 ) が語っておられる。 瀬戸口藤吉が、准士官相当の軍楽師になったころ、当時の軍楽長中村祐庸がかれをよ 「外国には、国歌のつぎにその国を代表する歌があるが、ざんねんながら日本にはな、。 おまえ、作曲してみないか」 といって、華族女学校の先生である鳥山啓という人のつくった「軍艦」という歌詞を 示した。もっとも瀬一尸口にこれをすすめたのは、中村祐庸でなく先輩の軍楽師の田中穂 づみ 積というひとだったともいう。 いずれにせよ、国民的な歌唱の主題として「軍艦」がえらばれたというのはいかにも 湾明治国家らしく、ある意味では象徴的なことであった。 海鳥山啓の歌詞は、はじめ「此の城」という題がついていた。瀬戸口に示されたときは、 鎮すでにべつな曲もついていて、明治二十六年発行の伊沢修二編「小学唱歌」巻六に掲載 されていた。この当時著作権などはやかましくなく、どうも鳥山啓へ海軍からあいさっ
ち明石を無視し、かたわらのロシア士官とドイツ語で非常な機密を語りはじめた。明石 はその会話をことごとく記憶した。 その翌明治三十五年、陸軍は明石に駐露公使館付を命じているから、陸軍がかれに期 待しているところはどうやら諜報にあったらしいことがわかる。 露都ベテルプルグでの明石は、独仏でのかれと同様、着任早々は下宿の戸を閉じて語 学習得に没頭した。 ときに日露の関係が険悪になり、開戦か避戦かという議論が、やかましくなった。 明石はこのとき、詩を作っている。 耳を掩う他家の和戦論 な 門を鎖して唯読書の人と作る 徐ろに期す大業晩成の日 先ず祝す今年四十の春 この詩は明治三十六年元旦の作で、このとしかれは四十になったのである。 かれはこの詩でもいっているように、時局についての議論から遠ざかり、ひたすらに ロシア語を学んだ。かれのロシア語教師は、大学生のブラウンという青年であった。そ おもむ ま おお とざ ただ
バリ会議に加わらなかったレーニン所属の党もいちはやく行動をおこし、主として労 働者を煽動した。 当時の日本の新聞はこのうごきについてきわめて情報感覚を欠いていた。明治三十七 年の十一月から十二月にかけてのロシアの社会不安にもっと鋭敏であるべきであるのに、 明治三十八年一月二十五日になってから、ようやく各紙がこのうごきについて報じはじ めた。 ほうかあが 「突如、露京に革命の烽火揚る」 という大見出しの記事が、当時の代表的新聞である東京朝日新聞の一月二十五日付に 出ている。わき見出しに、 極東の戦禍に悩み深き今、幾十万の貔貅 ( 兵士のこと ) の犠牲もあたら犬死 と、ある。 この見出しをみれば、当時の日本の新聞記者というものがいかに国際感覚に欠けてい たかわかるであろう。まず、 報「突如」 もし日本がヨーロ 諜ということはこの当時のロシアの革命気運にかぎってありえない。 大ツバ的水準の国ならば、日露開戦前後に、新聞記者がロシアの政情と社会について多く の情報とその分析を提供しておくべきであった。しかし日本の新聞社はまだ海外特派員 ひきゅう
218 をおくほどの財政的ゆとりをもっていなかった。それにしても敵国の状態について不勉 強すぎるであろう。 そういう無知が、この見出しの感覚にも出ている。この見出しは、ロシア皇帝に対し て同情的であり、革命勢力に対して多分に反感をもっていることがうかがえる。この見 出しをつけた編集者は、日本の天皇制とロシアの皇帝制とを同質のものだとおもい、革 命勢力に対し、 「脳み多き極東の戦局をもかえりみざる不忠者」 というとらえかたをしていた。その革命の火が、日本の天皇制にもおよぶことをおそ れている風がある。 ツアーリズム 帝政ロシアの皇帝制と明治日本の天皇制を同性質のものとしてとらえる把え方の無知 については、この明治三十八年一月二十五日付の記事の見出しをつけた編集者をわらう ことができない。その後、昭和期にいたり、さらにこんにちなお、一部の社会科学者や 古典的左翼や右翼運動家のなかに継承されているのである。 かれつ ロシアの皇帝制社会の存在そのものが、いかに人民に対して苛烈なものであるかとい うことは、ヨーロッパにおいてはほとんど常識であった。その常識が、交戦国である極 東の日本の新聞記者にはまったくといっていいほど理解されていなかったのである。 いかにそれが常識であるかという一例をいえば、シリヤクスがこのバリ会議のあと、 とらかた
122 ているという道理がすこしもくずれていなかった。この点、ロシアと比較してみごとに たいせきてき 対蹠的であるといっていし 「ロシアの極東侵略は異常に急速度になっている。いずれ日本との衝突は必至であろ という判断が一般的になったのは明治二十七、八年の日清戦争終了後であった。海軍 の場合、明治二十九年、対露海軍力の建設 ( 第二次拡張計画 ) のために十カ年計画で予 算一億一千八百万円という案が国会を通過し、三笠以下の戦艦四隻、八雲以下の装甲巡 かさぎ 洋艦六隻、笠置以下の二、三等巡洋艦 , ハ隻といった東郷艦隊の骨格が、きわめて計画的 につくられるにいたるのである。 それらの軍艦ができあがっても、ロシアのようにすぐ戦場でつかおうとするのは無理 であり、使いこなせるまでの「練度」が必要であった。日本海軍の理性はこれらの新品 軍艦の「練度」の期間まで計算に入れたことであり、この計算も要素になって開戦の日 が決定されている。「皇帝の気分」によって侵略の火あそびと戦争が決定されるロシア とはおどろくべきちがいがあった。 要するにバルチック艦隊は、軍艦はうごかせてもそれを使いこなせるまでの練度にお いてきわめて欠けている。致命的な欠陥のひとっといえるであろう。 その理由はくりかえしていうが、 「皇帝がいそがせた」
282 るため、たとえば去年 ( 明治三十七年 ) の八月十日の黄海海戦のときには軍楽隊員のな かから十数名の負傷者や戦死者が出ている。 軍楽師 ( 准士官 ) 丸山寿次郎が、この隊の指揮官であった。かれは音楽のほうはあま り上手ではなかったようだが、 戦士としての軍楽手の名誉にたえず気をつかい、 「戦闘になれば水兵に負けるな」 と、隊員に言い この航海中も、救護や伝令の訓練をしていた。 隊員は、丸山以下二十七人で、このなかに、三等軍楽手になったばかりの河合太郎氏 ・カ二し学 / 河合氏は明治十七年うまれで、旧海軍軍楽隊の長老であり、このとき三笠の軍楽隊に にしあたご あってコルネットを吹き、いまも広島県呉市西愛宕町六ノ六でかくしやくとしておられ る。 しようほんちょう 「丸山さんというのは軍楽長というより、掌帆長といったような元気なひとでした」 と、河合氏はいう。 航海中、軍楽隊としての日常的な任務が毎日二度あった。軍艦旗が午前八時にあげら れ、日没時におろされる。そのつど軍楽隊は「君が代」を演奏するのである。あとは水 兵と一緒に甲板をかけまわって訓練をうけた。 筆者はこの稿を書くについて、この早春 ( 昭和四十六年 ) 呉の河合氏に会っていただ きたいとおもっていたが、せつかくご承諾をえたのに当日風邪をひいてゆけす、サンケ
138 福岡藩の出身で、かれの士官学校同窓の牧野清人が語りのこしているところでは、 「当時の士官学校生徒といえば、地方の貧乏士族の子弟の逃亡者であった。学費など国 もとから送ってくるような境遇の者はいなかった」 という点、秋山好古、真之の場合とおなじである。窮迫のあまり、生活費から学資ま で無料という士官学校や海軍兵学校に逃げこんだ秀才少年がほとんどで、厳密にいえば はたして軍人になることが好きであったかどうか、その全員について疑問であった。さ らにいえば、かれらが秀才であったかどうかについても、その入学試験および選考の状 態から考えて、疑問であった。すくなくとも日本の諸体制は日露戦争後に確立し、官立 の諸学校は全国の秀才をよりどりに選抜することができたが、明治初年では、 士官学校というものがあるそうな。 という情報を知ったわずかな者だけが受験した。自然、その選抜はゆるやかで、入学 した者のなかには、学力だけでなく人交わりの適合性を欠いた者も多かった。 明石元二郎も、そのひとりかもしれない。 かれが士官学校を卒業したのは明治十 , ハ年十二月で、その在学中の一時期の席次をみ ると、フランス語の成績が二十七人中の一番であり、漢学と算術もほば上位だったが、 図学というのが悪い。しかし実際には明石の才能でもっともすぐれていたのは絵画およ び用器画で、その構想力とその描法の精緻さは常人の域を脱していた。 「もっともすぐれた間諜は、もっともすぐれた構想力のもちぬしである」
284 ちゅうとん という寺院を兵舎として駐屯していた英国海軍歩兵第十番隊付の軍楽長ジョン・ウィ リアム・フェントンのことだが、偶然ながらかれは日本の海軍軍楽隊の最初の教師にな ったというだけでなく、このときから日本における西洋音楽の歴史がはじまるといって しいであろう。 薩摩藩が、西洋音楽に興味をもったのは、文久三年 ( 一八六三 ) 七月、この藩が鹿児 しま三笠に座 島湾において英国艦隊と戦った戦闘が契機になっている。この戦いでは、、 乗している東郷平八郎も父吉左衛門および二人の兄とともに、齢十七で参加した。かれ ばかま ったじ上うもん は五ッ蔦の定紋を打った陣笠をかぶり、ツッソデのブッサキ羽織にタチアゲ袴をはき、 両刀を帯し、火縄銃をもち、母親の益子の「負クルナ」という声にはげまされて家を出、 せんとうだんかせん 持ち場についた。英国艦隊は艦砲で尖頭弾と火箭を送り、薩摩藩は沿岸砲に円弾をこめ て応酬し、戦闘は結局は勝敗なしのひきわけといった結果になったが、この戦闘中、英 国軍艦の上では士気を鼓舞するためにしばしば軍楽が吹奏され、それをきいた薩摩藩士 たちは敵の身ながら感動し、戦後、 「あれはよかもんじゃった ということになって、いっか機会があれば藩にとり入れたいという相談があった。そ れが実現したのが明治二年の横浜派遣で、派遣された若者は二十九人であった。 ひょうぶしよう これが明治四年、兵部省付属になり、翌五年兵部省が廃止され陸海軍両省がおかれた ときこの軍楽隊が陸軍と海軍に二分された。
文春文庫 司馬遼太郎の本 司馬遼太郎 翔ぶが如く ( 全 + 冊 ) 司馬邃太郎 木曜島の夜会 司馬遼太郎 歴史を考える 司馬遼太郎対談集 司馬遼太郎・陳舜臣 対談中国を考える 司馬遼太郎 ロシアについて北方の原形 司馬遼太郎 手掘り日本史 ( ) 内は解説者 明治新政府にはその発足時からさまざまな危機が内在外在して 9 いた。征韓論から西南戦争に至るまでの日本をダイナミックに し 捉えた大長篇小説。 z 大河ドラマ原作。 ( 平川祐弘 ) オーストラリア北端の木曜島で、明治初期から白蝶貝採集に従 事する日本人ダイ・ハーたちがいた。彼らの哀歓を描いた表題作 他「有隣は悪形にて」「大楽源太郎の生死」「小室某覚書」収録。 日本人をつらぬく原理とは何か。千数百年におよぶわが国の内 政・外交をふまえながら、三人の識者、萩原延壽、山崎正和、 綱淵謙錠各氏とともに、日本の未来を模索し推理する対談集。 日本と密接な関係を保ちつづけてきた中国を的確に理解してい るだろうか。両国の歴史に吐罷頏の深い両大家が、長い過去をふ まえながら思索した滋味あふれる中国論。 日本とロシアが出合ってから一一百年ばかり、この間不幸な誤解 を積み重ねた。ロシアについて深い関心を持ち続けてきた著者 が、歴史を踏まえて、未来を模索した秀逸なロシア論。 私の書斎には友人たちがいつばいいるーー史料の中から数々の 人物を現代に甦らせたベストセラー作家が、独自の史観と発想 の核心について語り下ろした白眉のエッセイ。 ( 江藤文夫 ) し し一 1 ー 49 し一 1 ー 50 し一 1-58