イ新聞の影山勲氏に行ってもらった。 河合氏はことし八十七歳になられる。 「中背で、ほっそりしておられます。話される内容はわかわかしく、おどろくほど合理 的で、耳も遠くなく、ぜんたいに機敏な感じで、潮風で鍛えられた知性という感じをう け寺 ( した」 と、影山氏は私におしえてくれた。 とうきち 写真でよく知られている瀬戸口藤吉翁に似ておられる、という。げんに、若いころよ くまちがえられたということであった。 氏は老夫人と二人暮らしだが、呉の海上自衛隊の軍楽隊長が三日にあげず身辺の見舞 をつづけているということで、このことをきいた影山氏は「海軍の伝統というのでしょ うか」と、ひどく感動したようであった。 三笠が航海しているあいだに、海軍軍楽隊について考えておきたい。 最初に軍楽隊を創設したのは、維新前後にもっとも開明的な藩であった薩摩藩であり、 すけつね 湾海軍軍楽隊初代軍楽長の中村祐庸の「遺稿」によると、 海「明治一一年、鹿児島藩ニテ、藩士鎌田新平ヲ楽長トシテ、三十余名ノ青年ヲ横浜ニ派 鎮出シ、英国海軍軍楽隊長フェントンニ就キ、軍楽ヲ伝習セシム」 と、ある。フェントンとは、当時横浜の英国公使館護衛の名目で、横浜北郊の妙光寺
284 ちゅうとん という寺院を兵舎として駐屯していた英国海軍歩兵第十番隊付の軍楽長ジョン・ウィ リアム・フェントンのことだが、偶然ながらかれは日本の海軍軍楽隊の最初の教師にな ったというだけでなく、このときから日本における西洋音楽の歴史がはじまるといって しいであろう。 薩摩藩が、西洋音楽に興味をもったのは、文久三年 ( 一八六三 ) 七月、この藩が鹿児 しま三笠に座 島湾において英国艦隊と戦った戦闘が契機になっている。この戦いでは、、 乗している東郷平八郎も父吉左衛門および二人の兄とともに、齢十七で参加した。かれ ばかま ったじ上うもん は五ッ蔦の定紋を打った陣笠をかぶり、ツッソデのブッサキ羽織にタチアゲ袴をはき、 両刀を帯し、火縄銃をもち、母親の益子の「負クルナ」という声にはげまされて家を出、 せんとうだんかせん 持ち場についた。英国艦隊は艦砲で尖頭弾と火箭を送り、薩摩藩は沿岸砲に円弾をこめ て応酬し、戦闘は結局は勝敗なしのひきわけといった結果になったが、この戦闘中、英 国軍艦の上では士気を鼓舞するためにしばしば軍楽が吹奏され、それをきいた薩摩藩士 たちは敵の身ながら感動し、戦後、 「あれはよかもんじゃった ということになって、いっか機会があれば藩にとり入れたいという相談があった。そ れが実現したのが明治二年の横浜派遣で、派遣された若者は二十九人であった。 ひょうぶしよう これが明治四年、兵部省付属になり、翌五年兵部省が廃止され陸海軍両省がおかれた ときこの軍楽隊が陸軍と海軍に二分された。
が、このクラド論文の要旨が、艦隊の兵員にまでったわったとき、かれらの士気を大 いにくじいたことは、まぎれもないことであった。 技師ポリトウスキーの日常のいそがしさは、一一 = ロ語に絶するものがあった。 ていはくちゅう このノシベ碇泊中も、大小の艦艇から故障を訴えてくる。軍艦の内科医で外科医を 兼ねていたかれは、いちいちその現場に行って故障の状態をみねばならず、処方を指示 せねばならす、ときには修理現場でつきっきりの指揮をしなければならなかった。 この世界海軍史に類のない、 「ロジェストウエンスキー航海」 が、当初、各国の海軍専門家から、 とても、成功すまい とおもわれていたひとつの理由として、艦船が故障をおこした場合 ( たえず故障をお こすものだが ) それをどのように修理してゆくかということであった。 これが平和な状況での航海ならば、造船所や艦船の修理設備をもっ港へもぐりこんで 突しまえばそれで始末がつくのだが、しかしいまは戦時で、しかもロシアの敵である日本 の同盟国は海上王国である英国であり、英国はその属邦の港をロシア艦隊につかわせな 色 黄、だけでなく、フランスやドイツに間断なく苦情を申し入れて、その港をつかわせない よ , つにしている。
戦後、三笠が火薬爆発をおこしたときに艦と運命をともにした。 「演奏している私たちは、まだ若かったせいか、わけもなく涙がこみあげて仕方があり ませんでした」 と、河合氏は語っておられる。 佐世保港を出ると、やや浪が高かった。三笠は、一路、鎮海湾をめざした。 三笠には、その弾薬庫にある下瀬火薬とともに、もっとも誇るべきものとして三六式 無線電信機が、後部シェルターデッキの下にそなえられていた。 秋山真之が、戦後すぐ、この無線機の発明者である木村駿吉博士へお礼の電報をうち、 あとあとまで、 「通信戦に関するかぎり、日本海軍のひとり舞台だった」 と語っていたほどに、その性能がすぐれていた。この日露戦争の前、日本海軍が無線 の実用化のために払った苦心と努力はすさまじいはどのもので、日本は作戦と艦隊運動 の優越をもってロシアに対抗する以外になく、それを実際の海上で可能にするのは、優 秀な無線機であった。 湾この航海中、真之はよほど気になっていたらしく、しばしば後部シェルターデッキの 海下へ行って、この無線機の操作をみた。 鎮 佐世保を出た三笠は、白い航跡を曳きつつ西北へ針路をとった。
引 2 ひどい神経痛に襲われていた。 や かれの精神を病ませている敵は艦隊の乗組員のすべてであったが、かれには他にも敵 。、、た。ペテルプルグの海軍省であった。かれにいわせれば、海軍省というのは詐欺漢 のあつまりであり、その日ぐらしのおべつか使いや、愛国心をおきざりにした保身家た ちの集会所であった。 海軍省は、かれに勝つべき態勢をつくることになんの手助けもしてくれないばかりか、 石炭問題という国家的な規模での外交を必要とする問題でも、 「現地で解決せよ」 といってきているだけであった。この小皇帝でさえ、諸善の根源を皇帝に置きつつも、 諸悪の根源をロシア官僚組織のおそるべき腐敗と無責任と非能率にもとめざるをえない のである。 さらにロジェストウエンスキーの神経を病ませていたのは、 「ロジェストウエンスキーはウラジオに着くとともに他の提督と交代せしめられるだろ という、ロシア海軍省筋からまた聞きしたかとおもわれる新聞報道であった。その他 の提督というのはシベリア鉄道でウラジオへおもむく予定だという。これが事実だとす れば、ロジェストウエンスキーというのはただこの大艦隊をひつばってゆくだけの労し かロシアの海軍省から買われていないことになる。
吉村昭 深海の使者 吉村昭 関東大震災 士ロ村昭 逃亡 庫本 吉村昭 春村 文亭主の家出 吉村昭 総員起シ 吉村昭 海軍乙事件 ( ) 内は解説者 第一一次大戦中、社絶した日独両国の連絡路を求めて、一鼕ロ国の 制海権下にあった大西洋に、数次にわたって潜入した日本潜水 T 艦の闘いを描いて、文藝春秋読者賞を得たドキュメント小説。 一九二三年九月一日、正午の激震によって京浜地帯は一瞬にし 一」地獄とな 0 た。朝鮮人虐殺など 0 陰惨な事件」よ 0 悲劇は 増幅される。未曾有の。ハニックを克明に再現した問題作。 軍用機を・ハラせーー男の言葉に若い整備兵は蒼ざめた。戦局日 に日に不利な海軍航空隊で苛酷な毎日を過ごす彼は、飛行機を 爆破して脱走する。戦争に圧しつぶされた男の苦悩を描く。 当年四十一一歳、中年の花盛りといいたいが、女房と子供には無 視され、メシすら満足に食わせてもらえない。これでは家出し たくなるのも当然。そこに現れたのが男のパラダイスだった。よ 沈没後九年で瀬尸内海から引揚げられた悲劇の潜水艦イの一 室から、″生けるが如き〃十一の遺体が発見された。表題作のほ か、「鳥の浜」「海の棺」「剃刀」「手首の記憶」を収める。 昭和十九年、フィリピン海域で飛行艇一一機が遭難。連合艦隊司令 長官機は行方不明、参謀長機は敵の手に。参謀長の機密書類は ? 7 他に「海軍甲事件」「八人の戦犯」「シンデモラツ。ハヲ」収録。 よー 1 ー 6 よー 1 ー 3
圧倒的に優勢なのである。 たとえば決戦兵力である主力艦の十二インチ砲というのは、日本は十六門しかないが、 ロシアは二十六門になる。次いで十インチ砲は日本は一門でロシアは七門、九インチ砲 は日本は皆無、ロシアは十二 門。ただ八インチ砲は日本ははるかに優勢で ( 日清戦争で の戦訓によるものだが ) 三十門もあり、ロシア側は八門しかない。以上は主力艦群の砲 の比較である。 これからみれば、 「九インチ以上の砲では、ロシア側がはるかに優勢である」 という結論がひきだせるのだが、しかしクラド中佐はそれをしなかった。その論文は せいち 決して精緻なものではなく、むしろことさらに悲観的結論を宣伝するために書いたとし かおもえない クラド中佐は、ロシア海軍の正規将校である。それが、自国の海軍について「警告」 のかたちをとっているとはいえ悲観的観測をするということについては、 「あれは海軍省が書かせたのだ」 という皮肉な見方をする者さえいた。もし負けた場合、海軍省の責任が追及されるわ 、その場合の官僚的な逃げ口上をあらかじめつくっておくためのものだ、という のである。これは多少うがちすぎているかもしれなかった。なぜならクラドはこの論文 のために結局は逮捕されたからである。
298 敵にむかって送りだしたのである。 ペケナムはすぐこのことを英国海軍省に対して報告したが、きわめて偶然なことに、 英国海軍にあってもはば同時期にバーシー ・スコットという海軍少将がこれを創案し、 Broadsides firing ( 一斉打ち方 ) として、すでに実施の段階に入っていた。 加藤寛治はこの黄海海戦のあと海軍大臣副官として陸へあがってしまうのだが、その こ、これについての研究報告書を書き、 「八月十日の黄海海戦において、砲火の指揮に関し得たる実験要領」 という題で東郷に提出した。 東郷は一読して感心し、これを真之ら幕僚にはかり、各艦の砲術長にも検討させて、 きたるべきバルチック艦隊との決戦にはこの砲戦指揮法を用いることを決定したのであ る。 ただこの場合、砲術長の命令に応ずるように各砲台分隊長を訓練せねばならぬことが 重要であった。さらには鳴りはためく砲声と砲火のなかで砲術長の声をよく聴きわける 伝令が必要であり、この点では三笠の場合は軍楽手を伝令にしたために重宝だったとい , っことになる。 東郷艦隊の砲術訓練について、外腑砲射撃をやったかどうかについて筆者に多少不安 まゆずみ があり、海軍砲術の権威である黛治夫氏に問いあわせてみたところ、
278 タヴューを申し入れてくれば、たいていこれに応じた。 なにしろこの国の国民が、超歴史的な貧窮の代償としてつくりあげた艦艇が海軍にま かせられている。それによって勝利をうけあうというのが、いわば国民と海軍とのあい もつけい だに成立している自然な黙契のようなものであり、海軍としては国民が知りたがってい ることを、作戦の機密に属することをのぞいてはできるだけ知らせるという気分をもっ てした この一月の東京滞在中に、真之が海軍省で一新聞記者のインタヴューに応じたときも、 ずいぶんおもいきったことをいっている。 、バルチック艦隊はマダガスカル島にまだいる。その心境は、行こかウラジオ、 帰ろかロシア、ここが思案のインド洋、といったところだろう」 この時期、ロシアに、革命前夜をおもわせる重大な社会不安がおこっているというこ とを、真之はむろん知っている。 真之は、ロシア皇帝の立場になって考えるに、バルチック艦隊を極東にむかって放っ よりも、むしろ国内の治安のためにクロンシュタット軍港にもどすほうがより有効な使 用法なのではないかという考え方も成立するとおもっていた。 「ここが思案のインド洋」 というが、実際ロシアはその判断に迷っているのにちがいない というのは、革命さ わぎによって戦争どころではなくなっており、帝政の寿命をのばそうとおもえばここで
を通じてロシア帝国のすくいがたい患部を、体じゅうで知っていた。 右のことが幕僚室で話題になったとき、一人の士官が、 「海軍が忘れられている」 と、突如、怒りだしたのである。陸軍に行賞があって海軍に何の沙汰もないとはなに ごとであるか、という。かれのいう海軍とは、この戦役に参加した旅順艦隊 ( 第一太平 洋艦隊 ) のことである。あの艦隊の士官に対する行賞が無視された。これは皇帝の海軍 に対する重大な侮辱である、とその士官は演説するような口調で叫んだ。 それをきいてポリトウスキーは呼吸をわすれるほどにおどろき、その驚きは怒りに変 わった。 ( 旅順艦隊は何をしたのか ) と、叫びたかった。旅順艦隊は日本海軍とほばおなじ勢力をもちながら、その砲をも って日本海軍に対してカスリ傷一つおわせることなく海底に沈んでしまったではないか。 旅順艦隊が世界にむかって残したのは、単なる敗戦の記録ではない。史上空前の不名誉 をのこし、世界中から侮辱を買っただけではないか。 ポリトウスキーは、西欧技術を通じて西欧思想を知っていたが、しかしロシアの学生 突 煙 や兵士、労働者のあいだに浸透しつつある革命主義者ではなかった。かれは、ロシアと 黄海軍を愛した。愛するのあまり、その腐敗に対する憤りが深く、このばあいもほとんど 叫びをあげたくなったほどであった。