と語り、戦後ただちに「坑道教範」をつくり、明治三十九年、小倉工兵隊において坑 道戦に関する最初の特別演習をやっている。 要するに、日本のエ兵技術の水準は、ほば右のようであった。 沙河対陣にあっては、エ兵 ( 一個師団に一個大隊のわりで配属 ) は陣地構築のために ひつばりだこで、つねに供給不足であった。このため、秋山好古の支隊の陣地の構築ま では手がまわらす、エ兵が技術指導して騎兵や歩兵が戦闘のあいまにその労力になって 自分の陣地をつくるといったかっこうであった。それでもなお、上原が開戦前二年半で 工兵の能力を一変させたため、ヨーロッパで発達した野戦築城が、まがりなりにも秋山 好古の支隊を敵の銃砲火からまもってくれることになったのである。 秋山好古が、ロシア軍の一大重圧が自分の支隊にのしかかってきていることを知った のは、一月二十五日のまだ暗いころである。 午前三時には、最前線の黒林台に出してある前哨 ( 約二個中隊 ) が、敵の大きな兵力 の夜襲をうけて退却のやむなきに至った旨の電話をきいたときから、好古は、 ( これは、想像以上の事態がおこりそうだ ) 台 溝と、直感した。騎兵という兵科は気象官のようなしごとであり、好古はこれによって 黒台風の襲来を予知した。その予知が正確なものになったのは、午前十時ごろである。砲 声と砲煙の炸裂音は、まったく天地をゆるがすほどであり、好古が司令部につかってい
理由はこうだ、と綿密に計画を話した。 「それは細工がこまかすぎるよ」 と、松川はいったが、結局は実施師団の宰領範囲のことでもあり、承知した。承知し た松川の気持の基礎に、ロシア軍の攻勢の過小評価があったことは否めない。すべて総 司令部の基本的過誤がつぎつぎに末端の過誤をうんでゆくようであった。 戦場にもっとも暗い由比光衛の、 「黒溝台一時放棄策」 が、このような経過で実施されてしまった。 命令系統がい力に混乱していたかといえば、黒溝台の種田騎兵大佐は、秋山好古の指 揮下にあるべきはすだのに、救援軍である立見師団司令部の案で、総司令部じきじきの 退却命令が出たのである。むろん、この方面のロシア軍の大攻勢をささえている主役の 秋山好古には、なんのあいさつもなかった。好古が知らぬまに、自分の前線の種田大佐 が、黒溝台をすてて退却してしまったのである。二十五日の日没後であった。 好古はこの立見師団由比参謀長の専断性のつよいこの一時放棄作戦について、きわめ て不満であった。戦いそのものをほろばすものであるとおもったが、しかしすでに事は おわってしまっている。 好古は、顔にも出さず、荒いことばも吐かず、ただ、砲弾の炸裂音のなかで、
と、参謀たちは溜め息をついた。 まったくのところ、ロシア軍は、 「面」 としてやってきた。 日本軍左翼にあって、李大人屯、韓山台、沈旦堡、黒溝台といった拠点々々をまもる 秋山支隊は、 として存在するだけにすぎない。たとえば海そのものが陸にむかって押しよせる大津 波のなかで、これらの拠点群は、点々と散在する岩礁のごとく泡立っ怒濤のなかで呑ま れ、まれに海面上に岩頭を出して、わずかになお存在していることを示すのみであった。 李大人屯の司令部にいる秋山好古は、自分の正面の怒濤に耐えつつ、各支隊の各拠占 の防御指揮をし、 「豊辺大佐の沈旦堡など、もう消えてしまったろうと何度おもったか知れない」 と、戦後語った。 この好古の拠点防御方式に最大の威力を発揮したのは、かれが各拠点に数挺すっ配置 した機関銃であった。 この当時の用語でいえば、 「機関砲」
して攻めてきたロシア軍に対し、日本騎兵を潰滅から辛うじてささえつづけたのは、 「ざんねんながら、土であった」 と好古は晩年、回顧している。騎兵のその特徴である運動性が日本騎兵を潰滅からま もったのではなく、いかなる砲弾でもびくともしない掩堆壕のおかげであるという意味 であった。日本騎兵は、穴ぐらにもぐって、コサック騎兵と絶対優勢なロシア砲兵と戦 いつづけた。 好古の騎兵第一旅団のほかに、日本軍は兵第二旅団という騎兵集団を持っているこ とは、すでにのべた。これがかっての本渓湖戦で繋駕機関銃 , ハ挺を準備していたおかげ でロシア軍を大いにやぶったこともすでにのべたが、この第二旅団が総司令部の命令で 秋山支隊よりもさらに左翼に移動したのは、この黒溝台戦の直前であった。しかし移動 早々で秋山式の陣地を構築する間がなかったため、二倍の兵力のコサック騎兵に攻めら れ、手も足も出なくなってついに退却につぐ退却をし、 「騎兵は逃げるのが専門か」 とまで総司令部参謀から罵倒されたほどであったが、それほどロシア騎兵は強く、日 本騎兵はその弱点をなにかでおぎなう たとえば火力とか陣地構築ーーー以外に対抗す 台 溝ることができなかった。 黒好古は、自軍の弱点を知りぬいていた。 「戦争は、勝つだけの工夫が必要だ」
川「不慮から出た」 といわれる黒溝台の悪戦ーー日本側にとってー・ーをこまかくながめてみたい。 その前に、秋山支隊の位置についてふれておく。 「支隊」 というのは、臨時に独立の戦闘能力をもたせた各兵種混合の集団をいう。秋山好古は 騎兵第一旅団長であったが、それに歩兵と砲兵などを加えてその指揮下に置いていたか ら、戦闘単位として旅団というより支隊なのである。ロシア側のミシチェンコの場合も 騎兵を中心に諸兵種が混成された臨時編成の独立戦闘力だったから、ミシチェンコ支隊 とい , つ。 好古は、 「李大人屯」 という部落に司令部を置いていた。その位置は司令部の位置としては変則なもので、 敵の前線にもっとも近く、かれの麾下の諸部隊の陣地からいえば、もっとも右翼にあた る。その右翼に奥軍がいる。つまり奥軍との連絡が便利なように、この男はこの位置に 司令部を置いたのだが、 敵の前線から五キロ弱しか離れてない。 ここに司令部を置くと いうこと自体、よほどの豪胆さを必要とするであろう。 しやか その後方に沙河が西南へ流れており、その前方はるかに渾河の流れがある。渾河の南 に、ロシア軍陣地がひろがっている。このあたりの地勢は渾河と沙河の氾濫や流れの変
「騎兵など無用の長物」 という声を放ってきている。しかも児玉源太郎にしても松川敏胤にしても騎兵集団で ある秋山支隊を防御につかうということをやってのけた。いわば、歩兵になってしまっ げんに豊辺騎兵大佐は、いま沈旦堡にあって歩兵として敵をふせいでいるのである。 馬だけは余分であった。 が、その余分であることを、いまわしが認めればどうなるか。 と、好古はおもうのである。最高司令部の無理解はともかく騎兵自身が、自分が騎兵 であるという意識が薄くなるのではないか。 好古は、このため反対した。 「騎兵はな」 と、つけ加えた。 「馬のねきで死ぬるのじゃ」 ねきというのは、そばという意味の伊予ことばである。 ( こいつは、むずかしいところだ ) と、横できいていた田村守衛騎兵中佐はおもった。田村もまた好古のいわば弟子だが、 しかしこの場合、馬をいたわったほうがいいのではないか。馬の補充は十分ではないし、 それに前線に繋いで馬を無用に死なせることはないであろう。
と、好古が晩年よく言ったのは、こういう戦況をさしている。 好古はすぐ、 「金山屯と荒地とを回復せよ」 と、韓山台の三岳中佐に電話で命じた。好古は参謀を持たなかったから、考えること も、手配することも、叱りつけることも、すべて一人でやった。 韓山台の三岳中佐はその準備にかかったが、兵力が足りない。好古は沈旦堡の豊辺大 佐を電話によびだし、 「三岳をたすけてやれ」 と、命じた。戦争は双方の錯誤の累積というが、好古がこの戦闘の初期において犯し た最大の錯誤は、 沈旦堡より、金山屯のほうが重大。 と見た点であろう。 このため沈旦堡をまもる豊辺新作大佐は、かれとしては大きな兵力を割かざるをえず、 いわば自分の村の火事よりも隣村の火事に走らざるをえなかった。 好古の処置にも、十分な理由がある。 台 敵はわが支隊の中央を突破しようとしている。 溝 黒という好古の判断に誤りがあった ( ロシア軍の本意は沈旦堡・黒溝台という秋山支隊の 左翼突破 ) にしても、その誤りの上に立てば、中央の韓山台をまもる三岳中佐の兵力は
というようなてれくさいことは好古は言ったことがなかった。それにかれは軍人のく せに血を見ることがどうにもきらいであった。 ところが、土が凍り、穴が掘れす、やむなく兵たちは雪をかきあつめてそれらをかく その夜、終夜烈風が吹き荒れた。 翌朝、好古は敵情を見るべく望楼へのばった。 その視野のなかに、ふたたび敵がいる。 と、好古はじつはおどろいたらし、 し。が、すぐそれらが死体であることがわかった。 昨夜の風で、かぶせてあった雪が吹っ飛んでしまったのであろう。 「清岡、あれをみい」 と、司令部付の大尉をふりかえった。 「敵のやっ、 いつのまにかああやって攻めてきて自分でああやって勝手に死んどるじゃ わけのわからぬューモアであったが、それがよほどおかしかったらしく風を食らうよ うにして笑った。清岡はそれがなぜおかしいのかわからず、戦後も、秋山さんは変な人 台 溝だ、と人に語った。 黒 この間、各小拠点による日本軍小部隊の退却が相ついだ。防げるような状態ではなか
であってもクロバトキンのような命令は出さないであろう。日本軍がロシア軍中央に攻 撃をしかけてくれば、逆にそれに対して攻撃をかければ、紙を突きやぶるような容易さ で日本軍の中央を潰乱させることができたのである。となれば、日本軍は自分の左翼へ 駈けつけさせた数個師団をよびもどさねばならず、それによって左翼の秋山支隊は全滅 いっしやせんり し、グリッペンベルグは一瀉千里の勢いで日本軍の本営を衝けるところであった。 黒溝台会戦は、ロシア軍が発動し、その主導によっておこなわれた。 その途中、ロシア軍は成功寸前の態勢を示しつつ、退却してしまった。 この会戦は日本軍にとって決して勝利とはいえない。総司令部の作戦上の甘さと錯誤 を、秋山好古や立見尚文の士卒が、死力をふるって戦うことによってようやく常態にも どすことができたというのが正確な表現であり、いわば防戦の成功であった。 使用兵力の一割の損害をうけたグリッペンベルグはなお九割の無傷な兵力を擁しつつ、 クロバトキンの奇妙な命令のために作戦を中止してひきあげざるをえなかった。 「あの男の真意はわかっている。わしの成功を怖れたのだ。わしがこの作戦に成功すれ ばあの男の地位があぶなくなる。ただそれだけの理由で、ロシア帝国の勝利をあの男は 大山に売った」 と、グリッペンベルグがこの夜、部下の将官たちの前でクロバトキンを罵ったという のは、むりもないことであった。 ののし
る民家は、まわりに砲弾が落ちるたびに、壁土が落ち、机の上の地図をなんど払っても すぐ埃がつもった。 くりかえして各拠点の関係位置をいうと、好古の支隊の隊形は、東西に横一線である。 その右翼に李大人屯 ( 好古の司令部 ) 中央に韓山台 ( 三岳騎兵中佐 ) やや左翼に沈旦堡 ( 豊辺騎兵大佐 ) 左翼に黒溝台 ( 種田騎兵大佐 ) というかたちになる。 あとでわかったことだが、秋山支隊に対して強圧を加えているロシア軍第十軍団 ( 軍 団長ツェルビッキー中将 ) の作戦では、日本軍右翼の李大人屯に猛烈な砲撃 ( 砲撃のみ ) を加えることによって、好古の作戦感覚を狂わせようとしたのであろう。ロシア軍は、 現地中国人による諜報によって、 「李大人屯に敵の司令部がある」 とい , っことを . 知 . っていた。 その李大人屯への猛烈な砲撃によって日本軍を牽制し、沈旦堡への攻撃を容易ならし めようとした。事実、好古は一時考えこんでしまった。 ( 敵の攻撃の重点はこの李大人屯にあるのではないか ) ということである。砲撃をすさまじくやるというのは、そのあとの歩騎兵の突撃を容