は外国人の応接を一手にひきうけていた。 英国陸軍の中将ィアン・ハミルトン卿は、各国からこの戦場にあつまってきて日露双 方に従軍している観戦武官のなかでも、もっとも階級が高く、年長でもあった。 かれは日露戦争がはじまって一月後に東京に着任した。そのあと、観戦武官として黒 木軍 ( 第一軍 ) に従って満州における戦いをつぶさに見たが、ふつう観戦武官といえば 大尉か少佐ぐらいの武官に任じさせるのに、英国がその陸軍においてもっとも華やかな 経歴をもったこの将官を送ってきたのは日英同盟による厚意というものであろう。 なんあ ハミルトンは、英国にとって典型的な帝国主義戦争として内外に悪評高かった南阿戦 争 ( 一八九九ー一九〇一 l) に従軍し、その参謀長をつとめた。 「軍人としての義務があるから私は最善をつくしたつもりだが、ああいう戦争はよくな と、ハミルトンは終生いった。 ついでながら南阿戦争というのは、イギリスが南アフリカに住むポーア人の国を武力 で強奪し、半ば成功した戦争である。 軍ポーア人というのは、十七世紀にオランダから南アフリカに移住してケープ植民地と 乃いう農業社会をつくったひとびとで、アフリカーンスと自称してつよい白人意識と宗教 心と連帯意識をもっ連中である。一八一四年に英国はケープ植民地をその版図に組み入
かれの自慢は、少年のころから外国航路の商船で下積みのしごとをしていたために、 ヨーロッパにおけるたいていの一一一一口語を話せることであった。 「じゃ、そのなかで何語が得意なんだい」 「ドイツ語なんです」 と、大まじめに答える青年なのである。かれは曾祖父の代にロシアに帰化した家の子 だが、それでもなお家庭ではドイツ語がっかわれていた。かれにとってドイツ語に自信 があるのは当然なのだが、それでもロシア帝国への忠誠心にかけてはたれにも負けない 彼にすれば、大まじめな意味でドイツ語は外国語なのである。ついでながら、ロシア人 はピヨートル大帝の西欧化政策以来、ドイツ人の医師や技師がロシアに帰化することを 歓迎してきたため、ドイツ系ロシア人にとっては暮らしやすい国であり、ドイツ人とい うだけで医師・技師といったふうの印象が一般化しており、かるい尊敬をさえうける立 場をもっていた。 このクルセリは商船のころ、何度も印度洋を経験していた。その航路はスエズからコ ロンポ ( セイロン島 ) にいたるのが普通で、その航路は各国の艦船にとって印度洋の銀 洋座とでもいうべきものであった。 度ところカノ丿 ま、ヾレチック艦隊はそれよりもはるかに南の新航路をとりつつあるのである。 印その理由は各国の艦船に出遭うことによって消息や所在を知られたくないためであり、 まして日本の同盟国である英国艦船に見つけられたくなかった。印度洋は「大英帝国の
「いまから七十年ほど前にニコライ一世が英国の議会を参観したことがある。ニコライ 一世が真に聡明ならこの英国式をロシアに導入すべき契機だったといえるのだが、しか しニコライ一世は議会という存在に対してきわめて不愉快な感情をもっただけだった。 その後のロシア皇帝も、このニコライ一世の感情から一歩も出ていない」 宇都宮は英国との接触が長かったために立憲主義をもってこの地上における最高の正 そうくっ 義であるとおもっており、その目からロシアの実情を見るとき不正義の巣窟のようにみ えるらしい 「ロシアには、不平が充満している。それをおさえつけているのは、皇帝の無制限の権 力と、そして秘密警察である。しかしそういう力による人民圧迫が、いつまでつづくも のであるか」 さらには、と宇都宮はいう。 「ロシア皇帝はその人民を私有しているがごとく、その属国に対しても鉄のタガをはめ ている」 属国とは、。、 ホーランドやフィンランドをさす。 両国ともたえず独立を悲願し、いっかはロシアの鉄のタガから解放されたいとおもっ 「一八三〇年のワルシャワの反乱が、その一例である。ポーランド人は大暴動をおこし て一時は独立政府もできたが、ロシアは大軍を送ってポーランド独立運動軍と戦い、ワ
が、このクラド論文の要旨が、艦隊の兵員にまでったわったとき、かれらの士気を大 いにくじいたことは、まぎれもないことであった。 技師ポリトウスキーの日常のいそがしさは、一一 = ロ語に絶するものがあった。 ていはくちゅう このノシベ碇泊中も、大小の艦艇から故障を訴えてくる。軍艦の内科医で外科医を 兼ねていたかれは、いちいちその現場に行って故障の状態をみねばならず、処方を指示 せねばならす、ときには修理現場でつきっきりの指揮をしなければならなかった。 この世界海軍史に類のない、 「ロジェストウエンスキー航海」 が、当初、各国の海軍専門家から、 とても、成功すまい とおもわれていたひとつの理由として、艦船が故障をおこした場合 ( たえず故障をお こすものだが ) それをどのように修理してゆくかということであった。 これが平和な状況での航海ならば、造船所や艦船の修理設備をもっ港へもぐりこんで 突しまえばそれで始末がつくのだが、しかしいまは戦時で、しかもロシアの敵である日本 の同盟国は海上王国である英国であり、英国はその属邦の港をロシア艦隊につかわせな 色 黄、だけでなく、フランスやドイツに間断なく苦情を申し入れて、その港をつかわせない よ , つにしている。
この時代、ヨーロツ。ハだけでなく世界じゅうの情報がロンドンに集まる仕組になって ちょうかん 英国が、ヨーロッパの政治的風景を海峡をへだてて鳥瞰できる地理的位置にあった ことと、さらには英国政府が何世紀もかかってその地理的利点にみがきをかけ、ロンド ンをもって豊富な情報の合流点にしたこともあるであろう。この時期の英国外交は、そ の豊富な情報の上に成立していた。 さらにこれを厳密にいえば、英国人の冷徹さが、その情報の処理とそこから事態の真 報相を見ぬくという能力にきわめて適合していた。 諜「英国の外務省を味方にしていれば世界中のことがわかる」 はやしただす 大と、この当時、駐英公使をつとめていた林董がいったが、そのとおりであったであ ろう。 大諜報
ためどの国のひとびとからも、 あの小さくそして気の毒なフィンランド国。 ということで、透明な同情を買うことができ、そのおかげでフィンランド志士という のはどの国にも出かけて行ってどういう相手ーーーたとえ相手が保守家であってもーー・の その心を得ることができた。これを逆の例で考えればわかるであろう。たとえばロシア 帝国の革命志士は、ます強大国のロシア人ということで、西欧圏のひとびとから不気味 がられ、もし革命がおこってロシア帝政が倒れればより強大なロシアが誕生するのでは ないかと思われたり、あるいは王制がすきな相手からはロシア人が帝政をたおすことに よってその影響が他の帝国や王国におよぶのではないかという警戒心がもたれた。その 点、トさなフィンランド地帯の人間に対しては、たれもが警戒心をいだく必要がなかっ さらにフィンランド人は、帝政ロシアよりも自分たちの歴史のほうがはるかにすぐれ ているという誇りがあった。より西欧的な文化をもっている上に、たとえば国家の進歩 の象徴というべき憲政においてもフィンランドは英国に次ぐ先進的歴史をもっており、 報それだけでもかれらは強国ロシアを軽侮し、つよい優越感をもち、それが現状について 諜の不満をいっそうに深めさせた。 ごんげ 大そういうフィンランド人の精神の権化のような男が、明石の同志になったコンニー シリヤクスであった。
256 れた。 ポーア人はこれをきらい、他に大移動してふたつの共和国をつくった。トランスヴァ ール共和国とオレンジ自由国がそれだが、イギリスはさらにこれを合併しようとし、後 世の政治史家がたれひとりほめる者のいない戦争をうかつにもはじめた。戦争はおもわ ぬ長期戦になり、悽惨な様相を呈した。 はじめは英国はらくらくと勝った。開戦後わすか四カ月ほどでポーア軍の主力をやぶ ったために戦争がそれでおわるかにみえた。戦争は主力同士の決戦的衝突によってカタ がつくという伝統的な考え方を当然ながら英国はもっていた。 ところが、ポーア人はその概念をやぶった。 Boers というのはオランダ語の百姓とい う意味だという。この百姓どもが、ありあわせの武器をとってゲリラ戦を開始し、事態 はその後泥沼に入った。英国はついにポーア人の全人口とほば同数の四十五万という大 軍を動員し、ポーア人をみな殺しにする作戦をとり、その家屋を焼き、その土地を焦土 にして、英国の財政そのものがへとへとの状態になったあげく、やっと条件つきの勝利 を得た。 ハミルトンはそのときの参謀長だけに、侵略戦争は民族戦争をやる相手に対して勝っ ことはほとんど不可能にちかいという原則をもつようになった。かれは東京に着任して、 動員のために東京にあつまってきている多数の日本軍兵士をみてかってのポーア人を連 想し、
284 ちゅうとん という寺院を兵舎として駐屯していた英国海軍歩兵第十番隊付の軍楽長ジョン・ウィ リアム・フェントンのことだが、偶然ながらかれは日本の海軍軍楽隊の最初の教師にな ったというだけでなく、このときから日本における西洋音楽の歴史がはじまるといって しいであろう。 薩摩藩が、西洋音楽に興味をもったのは、文久三年 ( 一八六三 ) 七月、この藩が鹿児 しま三笠に座 島湾において英国艦隊と戦った戦闘が契機になっている。この戦いでは、、 乗している東郷平八郎も父吉左衛門および二人の兄とともに、齢十七で参加した。かれ ばかま ったじ上うもん は五ッ蔦の定紋を打った陣笠をかぶり、ツッソデのブッサキ羽織にタチアゲ袴をはき、 両刀を帯し、火縄銃をもち、母親の益子の「負クルナ」という声にはげまされて家を出、 せんとうだんかせん 持ち場についた。英国艦隊は艦砲で尖頭弾と火箭を送り、薩摩藩は沿岸砲に円弾をこめ て応酬し、戦闘は結局は勝敗なしのひきわけといった結果になったが、この戦闘中、英 国軍艦の上では士気を鼓舞するためにしばしば軍楽が吹奏され、それをきいた薩摩藩士 たちは敵の身ながら感動し、戦後、 「あれはよかもんじゃった ということになって、いっか機会があれば藩にとり入れたいという相談があった。そ れが実現したのが明治二年の横浜派遣で、派遣された若者は二十九人であった。 ひょうぶしよう これが明治四年、兵部省付属になり、翌五年兵部省が廃止され陸海軍両省がおかれた ときこの軍楽隊が陸軍と海軍に二分された。
謀の松川敏胤大佐にも、多少弁解の理由がないでもなかった。「ロシア軍の大攻勢」と よしふる いう予兆が、現地にあっては秋山好古から騎兵情報が来るのみで、福島安正少将が統轄 ちしきフほうもう する戦場諜報網のほうにはひっかかって来なかったのである。 「現地の諜報と一致しない」 と、松川はそれで黙殺した。この点にかぎっていえば、この時期、戦場諜報よりも国 際諜報のほうにすぐれていたといえるであろう。 しばらく諜報活動について触れてみる。 日本はロンドンにおいて、 「情報集積所」 を置いた。その主任は駐在武官の宇都宮太郎中佐であることはすでにのべた。 宇都宮はヨーロッパに駐在する各武官と連絡をとりつつ、かれ自身は英国およびヨー ロッパの有力紙を懸命に読み、その記事の裏からロシアの政情および軍事上のうごきを さぐろ , っとした。 報さらに宇都宮は英国の陸海軍省に出入りしてその諜報をほとんど無制限に提供しても 諜らったため、軍事を通じてのヨーロッパ事情にこの当時の宇都宮ほど精通していた者は 大なかった。 あかしもとじ この宇都宮に対し、ロシアそのものに接して国内革命を煽動した者に、大佐明石元一一 としたね せんどう
益にしょ , っとしている、と・はい , つ。 くわだ 「このようなことを考え、かつやらせるなどは、とてもわがロシア人の企ておよぶとこ ろではない」 ということでポリトウスキーは妻にむかって憤 ロシアには計画性などはなにもない、 慨し、 「わがロシア帝国は、損失ばかりをしている。わが国には良質の海軍も良質の陸軍も存 これは遠大な計画性や先見の明がないからである」 在しな、。 と書いているが、ポリトウスキーというこの艦隊幹部のなかでは飛び抜けた科学知識 をもち、科学的思考法をもった若者からみれば、一事が万事、自国のやることがなさけ なく、つい自虐的な観察になるのであろう。この文章は多少は、その点を割りびかねば ならない。 しかしながらこのロジェストウエンスキー航海の困難は、一にも二にも石炭補給であ った。この補給に英国の外交的圧力が加わってくることで、いよいよ困難が倍加した。 ロシアが、洋上補給のいっさいをドイツのハンプルグ・アメリカン会社に請け負わせ ていることはすでにのべた。その会社へ英国が良質の英炭を売らなくなったことも、か 突 煙 って触れた。このためこの大艦隊は、カロリーのややひくい、濃い黒煙のあがるドイツ 黄炭などを艦隊に供給した。これが大問題になり、ロシア政府対ハンプルグ・アメリカン 会社の訴訟問題にまでなり、その訴訟もらちがあかず、結局は同社のマダガスカル駐在