256 も追い立てを食って、また外洋に出、停止、微速でうごきまわるという動作をくりかえ して文字どおり漂泊した。 なんの目的もなく、全艦隊が足踏み運動をくりかえしているのである。軍艦をうごか けんたい している兵員たちにとってこれほど倦怠とやるせなさを誘う艦隊行動はなかった。 「いったい司令長官はなにをしているのだ」 と、口々にののしった。 やがてそれが同盟国フランスの冷酷で意地悪な仕打ちであることを知ると、攻撃型の 性格の者は、 「フランスは奉天会戦におけるロシアの敗北以後、手をひるがえしたように冷酷になっ へきち た。こんな僻地のしかも無名の湾を使うことさえこばんでいる。われわれは日本よりも フランスを憎むべきだ」 と言い、内攻的な性格の男は、 「われわれは世界中から嫌われた。最後の友人であるフランスからさえこのような仕打 ちをうけるようでは果たして戦争に勝てるのかどうか」 そそう と、士気を沮喪させた。 さらに不平派の兵員は、これらの不始末はすべてロシア帝国の無能、ひいてはロジェ ストウエンスキーとその分身である士官たちの無能によるものだと解釈し批難した。 とくにこの三番目の見方が兵員の大多数をとらえた。 きら
兵隊、というのは古めかしい用語である。明治初年では政府軍のことを兵隊といし 将校も下士官も兵卒もみな兵隊ということばでよばれていた。しかしその後「軍人」と いういかめしいことばができてから「兵隊」は死語になった。というより、兵卒のみを さすことばになった。児玉はわざわざその古い意味での兵隊ということばをここでつか って松川をからかった。 「私はただのヘータイで結構ですが」 と、松川はふくれつ面でいった。 「閣下はつまりただのヘータイじゃないとおっしやるんですか」 「ちがうな」 児玉は、大山もそうだが、幕末内乱の弾雨の中をくぐって日本国家があやうい基盤の 上にやっとできたのを体験のなかで見てしまったヘータイであるという。日本の足もと ま、かにもろいものであるかを知っているし、そのもろい国が、戦争という大冒険をつ いやってしまった。これ以上冒険をつづければ日本国はくずれ去るだろうという危機感 が大山にも児玉にもあり、それにひきかえ単なる軍事官僚として出てきた松川少将の世 却代にはその実感が薄かった。児玉はそのことをいったのである。 退出発間際になってから児玉もさすがにちょっとそこまでとは言い繕えないとおもい 2 「奉天大会戦の実況を奏上するために東京へゆく」 つら つくろ
というほどロシアの内務大臣にとって ( 陸軍大臣というよりも ) こまったことはなかっ 奉天会戦の前に、ロシア政府がクロバトキンに厳重な訓令を発し、 「内外の事清は、きわめて近い将来においてわがロシア軍の大勝利を必要としている」 といったのは、講和条件を有利にするという対外事情よりも、革命気分のもりあがり をおさえきれなくなっているという対内事情のほうが重かった。 奉天会戦のあと、陸軍大臣のサハロフは、 「われわれは負けたのだ」 とはじめて公言し、そのあとクロバトキンを解任してこれを第一軍司令官の位置に降 ろし、第一軍司令官のリネウィッチ大将を昇格して総司令官にした。この人事はロシア が戦敗をみとめた最大の証拠だが、しかし同時に、日本にとっておそるべきことはロシ ア帝国そのものがまだ戦意をうしなっていない証拠でもあった。なぜならばリネウィッ チは、クロバトキンとはまるでちがった攻勢主義の猛将で、将来における決戦をリネウ ィッチの積極生に託したのである。 却 「勝った」 退とい , っことについて、さらにふれる。 奉天会戦において日本軍は十分に勝っところまでゆかなかったかもしれないが、しか
に足もとがふらふらしていた。あとでわかったことだが、極度の疲労によるものであっ た。大男は防暑帽のふちに指さきをあてて挙手の敬礼をしていたが、そのあいだじゅう したた 下唇をだらりとあけ、大粒の涙を滴らせていた。この異様さも、酔っぱらいの証拠であ るとひとびとに思わせた。この時代の植民地居住者にはアルコール中毒患者が多かった。 酔っぱらいではなかった。 この漂流者はーー信じられないことだがーーーロシア帝国海軍の水兵だったのである。 ロシア兵の士気は衰えていた。 ということは全般的な観察としてはそうもいえたが、しかし多方面におよんでいる戦 線や戦闘単位を細部に観察すると決してそうではないという例が無数にあった。 たとえばこの水兵が、そうであった。 かれはウィャトスク県の農村の出で、ワシーリイ・フヨードロウィッチ・ ンといっこ。 かれは開戦のとき旅順にいた。 旅順艦隊 ( 第一太平洋艦隊 ) に属し、ウィーレン大佐を艦長とする一等巡洋艦バヤー ン ( 七七二六トン ) の機関兵であった。バヤーンはフランス製の新鋭艦で、旅順の戦い ではエッセン中佐のノーウィックとともにもっとも勇敢に戦った軍艦であった。 「バヤーンは、日本艦隊の港ロ封鎖作戦中においてしばしば猛犬のようにいどみかかっ ープシキ
し一方、ロシア軍の軍隊的内実をみると、おおうべくもない敗残の色があり、個々の兵 士の心情における敗北感はすさまじいほどのものがあった。・ もし、個々の兵士たちが、 「われわれは負けた」 そうしつ と実感して戦意を喪失し、軍隊秩序への服従心をうしなうまでにいたることをもって 戦敗であることの定義とすれば ( これが定義としてもっとも堅牢であるかもしれない ) ロ シア軍はあきらかに敗れた。 どころか、大敗した。この定義が、勝利としてもっとも妥当であるように思える。 奉天を退却して北上しはじめたロシア軍の大部分は、クロバトキンの命令によって徒 歩行軍であった。列車は高級司令部や病院の退却、または機材の輸送のためにつかわれ が、徒歩行軍の縦隊の軍紀はまったくみだれ、兵たちは進行してくる機関車や車輛に とびのり、車輛の連結部やデッキにダニのようにしがみつき、さらには列車のなかに押 し入って将校の制止もきかず、公然賭場を開帳する者もいた。 軍隊秩序が喪失することは、端的にいえば将校の権威が失墜することであった。その 現象は、無数の事件になってあらわれた。 たとえばある兵卒は、司令部用の車輛に押し入ろうとして一少将から注意された。少 将といえば旅団長職の階級であり、兵卒からみれば雲の上の存在であったが、この兵卒
本軍を阻止すべく全ロシア軍をうごかし、右往左往させたばかりではないか。渾河にも また強力な防御線があらかじめ構築されていた。ここで日本軍と決戦するというのは、 まだ決戦意志をすてていないことを十分証拠だてているのだが、奉天から七十キロ北方 の鉄嶺へしりぞくとなれば、要するに奉天をすてて逃げるということなのである。 「理由は」 と、クロ。ハトキンは、つこ。 兵力と材料の消耗がはなはだしくなってきたということが、そのひとつである。が、 戦争である以上その消耗は当然で、日本軍も同様の重傷を負いつっただ気力のみをさか んにしてロシアを追いあげようとしているだけであり、やがてその攻撃力も限界に達す るにちがいない。 : 、 カクロバトキンは恐怖体質の人間にありがちな完全主義者で、敵の 消耗はどうであれ、自軍がかれの精神を安定させるだけの兵力と材料を具備していなけ ればならなかった。 理由の第二は、奉天の北方および西方にせまりつつある乃木軍に対して過大な手当を してしまったため、奉天正面の防御力が弱くなり、いつ日本軍に突破されるかわからな 却い危険を感じはじめたことである。この危険は、クロバトキンみずからの作戦変更によ って生じたもので、作戦者であるかれ自身、当然これを含みとして見切っているはずの 退ものであるのにもかかわらず、部署変更が終了すると同時に、 どうも危険だ。
と、好古はいった。 敵が攻撃を再興する場合、ロシア軍の常として兵力は今日の倍以上になるであろう。 それに戦術もより巧妙になる。なぜならば今日の戦闘で好古の兵力も部署もほば知って しまったからであり、より効果的にやってくるにちがいない。 逃げるに如かず。 というのが、好古の考えであった。身をかわして他へかくれてしまうはうがいし から ふんろこう この大房身の部落を空にして三キロから五キロ退却すれば、曹家屯および岔路ロとい かっこう う防御には恰好の部落がある。そこで今夜宿営して、無用の損害を避けるほうがよかった。 好古は、そのように決心した。 ただし戦国時代の合戦なら進退は主将の思いのままになるが、近代軍隊は上級司令部 の意向をうかがわねばならなかった。 好古は乃木軍司令部に電話をかけ、この案についての訓令をうけると、よろしいとい う返事があった。 好古は戦勝者であった。が、追撃せず、逆に退却した。このあたりの呼吸と戦闘指導 戦の柔軟さはほとんど名人といってもよかった。ここで余談ながら、この男は生涯、軍政 面や軍令面での陸軍官僚になることなくほとんどを部隊勤務で終始して陸軍大将にまで 会のばるという異例の存在になったが、そのことは、こういう「名人仕事」の積みかさね があったからであろう。
報」というものをえていながら、 ことごとく後備師団、後備旅団にすぎない。 という清報のみを得ていた。情報が、片欠けになっていた。 この鴨緑江軍に、乃木軍の決戦師団ともいうべき第十一師団といういきのいい部隊が 参加しているという事実がぬけていたのである。ぬけていたために、クロバトキンの思 考は混乱した。 「わが背後に対し、雄大なるコースによる迂回 ( 繞回 ) 運動をもっておびやかそうとし ているのは、乃木軍にちがいない」 と、北京からの誤った乃木軍についての情報と、クロバトキンがみずから戦場諜報で 得た鴨緑江軍についての知識を、足したり掛けたりしてついにそういう想像に達した。 戦慄的な想像であり、こういう想像をするというのは軍人としての専門教養から発した ものではなく、ナマの性格によるものであり、そういう性格の者は、ペテルプルグの陸 軍省で役には立っても、野戦において現実に大軍を進退させるしごとにはおよそむかな かった。帝政ロシアの不幸は、こういう性格の者を総司令官にしてしまったところにも あった。 ( いそぎ、作戦を変更すべきか ) と、クロバトキンはおもったが、しかし、すでに日本軍左翼 ( 沈旦堡・黒溝台 ) を攻 めるべくすべての用意ができあがってしまっていた。軍司令官たちはその方針でうごき、
「あすは、伝令かね」 と、めずらしくやさしい調子でたずねた。かれは司令長官でありながら望遠鏡でもっ て水兵を殴ったりするような粗暴さもあったが、一面、水兵に対してロシア風の階級的 差別観念をはとんどもっていないというふしぎなところもあった。その理由はよくわか らなかったが、 かれが貴族出身の提督ではなく、市民出身の提督であるということと多 つら 少関係があるかもしれなかった。かれはこの長期の航海中、個々の水兵には辛くあたっ て無数の逸話をつくったが、しかし水兵一般という階層については理解があり、たえず かれらの給与や休養、衛生状態などに気をくばっていた。しかしそういう美点があるか らといって、旅順で戦死したマカロフ提督の場合のような人望の一要素になるというぐ よゝっこ。 かれが水兵の人望を得ていないのは、粗暴で怒りつばいということではなく、マカロ フ中将のように有能で捨て身の精神をもった提督ではないということを水兵大衆がその きゅうかく するどい嗅覚でかぎわけきっていたからであろう。戦場へひきだされてゆく水兵たち にとって自分の提督に期待するのは優しさでも愛嬌でもなく、ただひとっ有能であると い , っことだった。 「うちの提督はどうやら大丈夫ではなさそうだよ」 というささやきは、古参の下士官などのあいだで囁かれていた。このロシア海軍第一 等といっていい秀麗な容貌をもった提督は、その秀才としてのすばらしい履歴と皇帝の き ) さや
ゅうえん 「 : ・ : ・座して守勢を取るも、進んで攻勢を取るも、孰れにしても前途悠遠にして、容易 かい。ふく に平和を恢復し得るの望みなく・ : というもので、今後平和回復のために大いに考慮してもらわねばならない、と説く。 つづいて、 「 : : : 敵は未だ将校に欠乏を告げざるに反し、我れは開戦以来すでに多数の将校を欠損 あた し、今後容易に之を補すること能はざるなり」 ばくだい と書き、さらに奉天段階をすぎたあとは莫大な戦費と兵員を必要とする、と言い、そ の一例として、 ふせっしちょう 「奉天より哈爾賓に至る百余里の間に複線の鉄道を布設し輜重を便ずること」 ふせつ と、山県は補給作戦の一案を示しつつも、この複線鉄道の敷設にかかる費用に日本の 国力は堪えうるかどうかという苦痛をのべた。しかしながら山県としては、守勢にせよ 攻勢にせよ、戦争遂行のためにこれをやらざるをえない。 いえど 「 : : : 国民の負担は為に非常の重さを加ふべしと雖も是れ実に止むを得ざるの勢ひにし めぐ て、而して諸君 ( 内閣 ) の最も其の智慮を運らすべき所なりとす」 と、結んでいる。山県は軍令の最高責任者である以上、内閣に対して「講和をしても らいたい」とは露骨に書けないながら、「諸君の最も智慮を運らすべき所なりとす」と いう表現で、そのことを暗示したのである。 : 戦費のほとんどを、公債というかたちで外国から借りてきてまかなってい 余談だが、 ハルビン いず