230 ちこんでゆくための原体質を、この戦勝報道のなかで新聞自身がつくりあげ、しかも新 聞は自体の体質変化にすこしも気づかなかった。 戦後、ルーズヴェルトが、 「日本の新聞の右翼化」 という一一 = ロ葉をつかってそれを警戒し、すでに奉天会戦の以前の二月 , ハ日付の駐伊アメ リカ大使のマイヤーに対してそのことを書き送っている。「日本人は戦争に勝てば得意 になって威張り、米国やドイツその他の国に反抗するようになるだろう」というもので あった。日本の新聞はいつの時代にも外交問題には冷静を欠く刊行物であり、そのこと は日本の国民性の濃厚な反射でもあるが、つねに一方に片寄ることのすきな日本の新聞 とその国民性が、その後も日本をつねに危機に追い込んだ。 ルーズヴェルトは日本に対して好意をもった世界史上最初の外国元首であったが、か れがいかに政治的天才であったかということは、日本が近代国家として成立して三十余 年しかたたないのにその原型の本質を見ぬききっていたことであった。かれは日本のた めにアメリカ大統領であることの限界を越えてまで好意をみせつづけたが、しかし同時 にかれのおそるべきことは、マイヤーに出した手紙にでもわかるように、戦後米国は日 本から脅威をうけるだろうと予言し、米国の存在のためには海軍を強大にしなければな らないと説き、しかも「わが海軍は年々有力になりつつある。この優秀な海軍力が、日本 その他の国との無用の紛争を未然にふせいでゆくであろう」という意味のことをいった。
包囲されようとした。これほどの危険はなかった。 もしこの段階において、日本軍がこの戦役の初期にそうであったように機関銃をもっ ていなかったとすれば乃木軍は左翼から崩壊し去ったであろう。この危機を救ったのは、 高等司令部の戦術でもなく、士卒の勇敢さでもなかった。乃木軍の最左翼がもっていた 五挺か六挺の機関銃が、銃身が熱くなるまで火を噴きつづけたことによって、クロ。ハト キンの大機動軍 ( 歩兵三十個大隊 ) が、退却したのである。この場合は日本軍機関銃の威 力のためにくずれたというより、その発射音におどろき、ロシア軍はこの大逆襲を断念し、 退却した。機関銃のおそろしさが、日露両軍ともにそこまで骨身に沁みていたのである。 ともあれ、大山・児玉がやってのけた奉天包囲作戦というのは、日本軍としてはやむ をえない冒険であったにせよ、危険きわまりないものであった。 こんが たとえば奥軍が乃木軍につづくべく北進運動をして渾河の右岸まで出てしまったとき、 くうげき それまでたがいに連繋して作戦していた隣りの野津軍とのあいだに大きな空隙ができた。 この空隙は、ロシアの捜索騎兵の兵力の大きさをもってすれば当然発見できたはずで あった。しかしながらロシア騎兵は捜索能力において日本騎兵よりも格段の差で劣って 戦いた。このことはこの当時におけるロシア国民の民度に原因があると戦後論評された。 もしたとえその空隙をロシアの捜索騎兵が発見し、それをクロバトキンに報じたとし 会ても、攻勢についてはより乏しい弾力性しかもっていないクロバトキンは、これを戦機 として攻勢転移に出たかどうかは疑わしい
あった。 「非常にけっこうなものだ」 ということが砲兵会議の一致した感想であったのは、明治十年代前半の陸軍には対外 侵略戦争という思想がすくなかったからでもある。 「結構」といわれたこの青銅野砲の初速は四二〇メートル、最大射程はわずか五〇〇〇 メートルであった。これとおなじ口径 ( 七五ミリ ) をもっドイツのラインメタル式の野 砲が初速七〇〇、最大射程一四〇〇〇であることをおもうと、おもちゃのようなもので あった。この青銅野砲でもって日清戦争を戦った。 この奇妙な、いかにも明治的の合理主義が生んだ青銅野砲は、日清戦争においては十 分に役に立った。 清国の砲兵が劣弱な砲をもっていたわけではなかった。清国砲兵は世界でもっともす ぐれた砲とされたクルップ砲で装備されており、日本の青銅砲にくらべて比較にならぬ りゅう ほどすぐれていたが、。 とういうわけか、清国兵は、日本の青銅砲から吐きだされる榴 さんだん 霰弾の威力を大きく評価し、 「天弾」 会と称して畏怖した。この理由はよくわからない。あるいは、この火砲が、明治二十一 年に日本陸軍が開発した強力な無煙火薬をつかっていたせいであるかもしれなかった。 ふ
156 と、かれがおもったのは、満州という土地についてであった。かれは皇帝側近の策謀 家たちが、 満州こそ、東洋における乳と蜜の流るる地である。 と皇帝にささやきつづけ、さらに鵯緑江の山林地帯の材木と、朝鮮南岸の港がいかに 大きな幸福をロシアにもたらすかということを教えて今世紀初頭における最大の規模を もった侵略を開始したとき、クロバトキンは開明家のウィッテとともに短兵急な武力侵 略が決してロシアに幸福をあたえないことを説きつづけた。当時クロバトキンは日本の 力いしゅういっしよく 戦力というものを軽視しきっていたし、たとえ日本と戦ったところでこれを鎧袖一触 で粉砕できるとおもっていたが、しかし大兵力を極東に送ることによってヨーロッパに おける他の列強とロシアとの陸軍力の比重がくずれることを極度におそれていた。クロ ハトキンはロシアにおけるアジア派ではなく、ヨーロッパ派であった。そのクロバトキ ンが、政略家としてのかれ自身が望まなかったこの極東の戦場において軍人として戦わ ざるをえない運命のなかに立ちつづけている。 しかも、戦いはつねにかれの思うようには運ばなかった。かれはその罪を、この満州 という気味のわるい土地になすりつけようとした。 ( この黄塵もそうだ ) とおもうのである。 いまひとつは、かれがもっとも頼りにしていた満州の酷寒期が、ロシア軍に対してさ
この無煙火薬は青銅砲に用いることは物理的な無理があり、威力がつよすぎてしばしば 無事砲口をとびだしたばあいには敵に対する威力も大きか 砲腔を破裂させたりしたが、 ったにちがいない。 しかしクルップの砲弾よりすぐれているということはいえず、「天 えんせん 弾」として清国兵が畏怖したのは、この砲より清国兵の厭戦気分に原因していたとみる べきかもしれない。当時の清国兵は、漢民族にとって異民族である満州朝廷に対する忠 誠心はもてず、なんのために戦場で死なねばならないのか理由にくるしんでいる集団で あった。 日清戦争で咆哮したこの青銅製の野砲が廃止されるのは、明治三十二年に制式野砲と して制定された「三十一年式速射野砲」が出現してからである。 日露戦争の主力野砲になったこの三十一年式野砲は、もっとも優秀とされる各国の野 砲を購入して比較検討したところから誕生した。 その各種野砲は、初速だけでもずいぶんちがっている。五五〇メートルというのもあ ればドイツのクルップのように四四〇メートル程度にすぎないものもある。五五〇メー トルのものは信管機能がわるく、閉鎖機の機能もよくない。クルップは初速こそ劣って いるが射撃速度は一分間七発でもっとも迅速であり、信管機能も閉鎖機の機能もいい けんでん 明治初期の段階では世界中にその威力を喧伝された英国のアームストロング野砲はその 後改良をかさねているが、射撃速度はわずか三発にすぎず、各国の優秀砲のなかではも っとも遅かった。 ま、つ - ) う
234 ときにルーズヴェルトは旅行中で、ワシントンにはいなかった。タフトはすぐルーズ ヴェルトの出先まで手紙を書いた。 ルーズヴェルトはそれを読み、 ( 意外なことだ。日本海軍はその程度なのか ) と、おもった。かれは日本海軍の実力についてそれまで高い採点をしていたのだが、 この高平発言以後、見方を変えた。 ルーズヴェルトはたしかに、日本海軍の実力を高く評価していた。 かれは日露戦争がはじまるや、日露両国の戦力の実態をつかむべく、陸軍関係の調査 を参謀本部のチャップ少将に命じ、海軍関係のそれをニューヨークの海軍大学校に命じ てそれぞれ詳細な報告をえていたため、たとえば金子堅太郎や高平小五郎よりも軍事面 からみた日本をよく知っていたのである。 海軍については、当初ルーズヴェルトは、 「ロシア海軍に勝つだろう」 と、金子堅太郎にも語っていた。かれは金子とおなじく法科出身で弁護士あがりであ 力しレ ったが、その海軍知識の該博さはなみはずれたもので、金子がそのことにおどろいてみ せると、君、忘れてくれてはこまるなあ、私は以前海軍省の次官をしたことがあるんだ よ、と K った。
じたため、鴨緑江軍はかろうじて全滅をまぬがれた。 鵯緑江軍 黒木軍 野津軍 奥軍 乃木軍 というぐあいに日本側は部署されている。鴨緑江軍と乃木軍がそれそれ遠く迂回し、 敵の両翼の外側をまわってその背後をつく勢いを示すあいだに、中央の黒木、野津、奥 の三つの軍が正面攻撃をやるというものであったが、ロシア軍の優越した兵力と火力、 さらに要所々々がはとんど永久工事されている諸陣地の強固さなどからみて、常識とし てはとうてい勝てそうにない決戦であった。 、作戦指導の強気と大量流血を覚悟するということによってのみ、あるいは結果が 優勢勝ちになるかもしれないというきわどいもので、 ( この会戦にうまく勝ったところで、在満野戦軍の戦力は尽きてしまう ) と、大山も児玉も覚悟していた。このためこの会戦をもって日露戦争の決着が、講和 会という外交のテープルに移されるよう、児玉源太郎は大戦略としてそのように考え、つ ねづね東京の要人たちにその点でぬかりのないように依頼していた。要するに血でもっ
332 がら薩摩藩の軍艦「春日」の砲術士官として幕府海軍と戦った。当時、東郷は阿波沖海 戦 ( 幕府の「開陽」と「春日」が戦った近代日本史上最初の海戦 ) に参加し、さらに奥州 ) ) りようかく 宮古湾においては旧幕府軍艦「回天」と交戦し、函館および五稜郭攻撃では艦砲射撃 ま - っとう・ をもって陸上の敵軍と戦った。日清戦争では「浪速」の艦長として従軍し、とくに豐島 海戦の花形というべき役割をはたした。かれは維新早々、軍人よりも鉄道技師になるこ とを希望していたといわれているが、しかしその半生は砲火と砲煙のなかでつくられた といってよく、しかもほんの一時期鎮守府司令長官をしていたことをのぞいてはつねに 海上にあり、艦隊勤務者として終始したというめずらしいほどの経歴であった。そうい うかれの半生の経験が、かれ自身に対し、「やるだけの準備をととのえた以上、ばたば たしても仕方あるまい」という玄人だけがもちうる心境ーーー・第二艦隊司令長官の上村彦 之丞は東郷のそういう人柄を男性的信仰家ということばで表わしていた , ーーに達してい たのかもしれない。 一方、ロジェストウエンスキーはその東郷とはできれ遭、 。、したくはなかった。遭うに しても、ごく短時間であることを希望した。 ロジェストウエンスキーが、 「対馬へ」 という運命的な針路を艦隊にとらしめたのは、二十五日午前九時、細雨のなかにおい てであった。艦隊は五ノットの低速ですすみ、ときに八ノットになることもあったが、 くろうと
ざんごう シア形の陣地の特徴として、山頂から山腹にかけて二重の塹壕をめぐらしており、要 所々々に側防火器が設けられている。ただそれだけのことであるのにこれが二〇三高地 に似ているとして兵士が口々にささやきあったのは、日本軍が陣地攻撃をするにあたっ てあいかわらす銃剣突撃をもってする型をくりかえし、そのためにかって二〇三高地に おいて払ったような犠牲をはらってしまったからである。むろん撃退された。 この銃剣突撃は、おどろくべきことに後備第一師団と第十一師団の全力をあげておこ なわれた。 ( またあれをやるのだ ) という兵士たちの絶望的な思いが、眼前のロシア軍陣地をもって「小旅順」ととなえ しめたのであろう。日本軍の師団参謀たちの頭は開戦一年余ですでに老化し、作戦の 「型」ができ、その戦闘形式はつねに「型」をくりかえすだけという運動律がうまれて しまっていた。「型」の犠牲はむろん兵士たちであった。 型といえば、元来、軍隊というのは型そのものであり、その戦闘についての思考は型 そのものであった。 ついでながら型をもっとも種類多く諳記している者が参謀官になるという習慣が、日 露戦争後にうまれた。日露戦争の終了後、その戦訓を参考にして作戦関係の軍隊教科書 が編まれ、陸軍大学校における作戦教育もそれが基調になった。その日露戦争の型をも
外れにしてしまおうとすべくフランス外交筋が暗躍している、と信じている。妄想であ った。皇帝の妄想であるとルーズヴェルトが判断したのは、アメリカ自身の清報網がこ さどう の時期十分にヨーロツ。ハにおいて作動し、フランスその他にその底意がまったくないこ カイゼル とを知りぬいていたからであった。ルーズヴェルトのこの書簡によれば、皇帝の妄想の 内容はさらにものすごく、 「この日露戦争を機会に、英国はドイツを攻撃し、建設中のドイツ艦隊を撃破し、さら カイゼル には英仏同盟をやってのけてドイツを死地に追いこもうと計画している、と皇帝は信じ こんでいる」 と、書き送っている。いずれも四月二十四日付の国務長官への書簡である。 カイゼル この皇帝の妄想による「活動」は、当然ながら日本の外務省の情報網にもひっかかっ ていた。小村寿太郎は、 カイゼル 「皇帝ならやりかねない」 カイゼル として疑心暗鬼をおこしたのは、皇帝自身がこの戦争の講和段階で介入してきて、日 本に与えられるべき土地を横取りするかもしれないということであり、そのことはかっ 却て日清戦争のあと、独露仏の三国が日本と清国との交渉に干渉して「日本は清国からも らった遼東半島を清国にかえせ」と強請し、それを日本に返させたあと、かれらが遼東 退とその付近の土地を分けどりしてしまったことがあったからである。こんども皇帝はそ れをやるであろうと日本の外務省が疑ったのもむりはなかった。