自転車に乗った財部彪大佐が、高輪台町の山本権兵衛の大臣官邸に入ったのは、この 夜の八時ごろである。 山本は応接室で財部に要旨をきくや、即座に、 「これは、ならん」 と、その電報をさしとめた。山本の思想は若いころから晩年にいたるまでそうであっ たが、職務の管掌外のことにロ出しすることを異常なはどにきらった。 「対露作戦のすべては東郷にまかせてある。もしそれに対し後方から容喙するようなこ とがあっては戦さなどできるものではない」 と、「将、外ニアッテハ君命モ奉ゼザルアリ」という古い言葉をもち出して軍令部の 容喙を禁じた。が、財部は抗弁した。 「われわれ後方のほうが、事態の切迫感がより薄いために区々たる眼前の現象にまどわ されぬという利点をもっています。それに東京のほうが清報も多うございます。あるい さく はまた津軽海峡に対しては連繋水雷 ( 多くの機雷を索でつないだもので、真之が考案し、 影開戦後、実用化されていた ) を敷設してあるということは鎮海湾の連中は知りません。 原則は原則で、いまは非常の場合です」 艦「非常の場合であればこそ原則をつらぬかねばならぬ。ともかく今夜はよせ。あす役所 でもう一度話をきく」 そと
バルチック艦隊の主力は三つの戦艦戦隊から成り立っている。最優秀艦で編成された 第一戦艦戦隊は司令長官ロジェストウエンスキーみずから直率し、第二戦艦戦隊はフェ リケルザムがこれをひきいていた。その旗艦はオスラービアで、軍医が同少将の臨終を 告げると、その座乗艦オスラービアは、 提督ハ神ニ召サレタリ。 との暗号をかかげた。 ロジェストウエンスキーはすぐさま「その死を秘すべし」との命令を出した。ロジェ そそう ストウエンスキーは海戦をひかえて士気の沮喪することをおそれたのだが、しかし第二 戦艦戦隊の臨時司令官を選ぶこともかれはしなかった。オスラービア以下の第二戦艦戦 隊は死骸の司令官を奉じて戦場にむかわざるをえなかった。 事ここにいたっては、ロシア皇帝はロジェストウエンスキー中将を司令長官に選んだ ことを後悔すべきであった。 なぜならば、士気にかかわるとしてかれがフェリケルザム少将の死を秘匿したため、 影すでに触れたように、第二戦艦戦隊は司令官をうしなったまま運命にむかって進みはじ めたのである。指揮者のいない軍隊というものを思いついた史上唯一の人物がロジェス 艦トウエンスキーであった。 第二戦艦戦隊は、
させるべく、戦争継続を説きつづけてきたのである。 皇帝が沈黙したのは、ひとつには横にいる皇后アレクサンドラへの遠慮からであった。 ロシア皇帝は日本の天皇とはちがい、戦争をやめようとおもえば即座にでもその意志に よってやめることができた。アメリカのこの大使がこう提言したのに対して、たとえば、 「卿にまかせよ , つ」 と、言いさえすれば、アメリカは講和調停にむかってうごくのである。 ロシアの運命は、この専制皇帝の声帯から出る肉声にのみゆだねられているのである。 この日露戦争がロシア帝国にとっていかに不利なものであるかは、この帝国の前途を 憂える官吏のすべてがそうおもっていた。 想起すれば と明治調の言葉を使おうーー・あの旅順要塞の攻防戦において、ロシア 側のコンドラチェンコ少将は兵卒にもっとも人気のあった将軍で、しかも的確な防戦指 揮をし、日本軍があとでこの将軍のために戦死の場所に慰霊碑をたてたほどであったが、 この勇敢な将軍でさえ、 「この戦いはロシアのためにならない」 ということを思いつづけ、かれはその意見が皇帝のもとにとどくよう、上司のステッ セル将軍にまで上申したことがあった。ウィッテもこの事実をのちになって知り、以下 のようにその回想録に書いている。「わが旅順の英雄コンドラチェンコ将軍は勇をふる ってステッセルに哀願的な手紙を送り、事態を率直に上奏してロシアを大不幸から救う
と、好古はいった。 敵が攻撃を再興する場合、ロシア軍の常として兵力は今日の倍以上になるであろう。 それに戦術もより巧妙になる。なぜならば今日の戦闘で好古の兵力も部署もほば知って しまったからであり、より効果的にやってくるにちがいない。 逃げるに如かず。 というのが、好古の考えであった。身をかわして他へかくれてしまうはうがいし から ふんろこう この大房身の部落を空にして三キロから五キロ退却すれば、曹家屯および岔路ロとい かっこう う防御には恰好の部落がある。そこで今夜宿営して、無用の損害を避けるほうがよかった。 好古は、そのように決心した。 ただし戦国時代の合戦なら進退は主将の思いのままになるが、近代軍隊は上級司令部 の意向をうかがわねばならなかった。 好古は乃木軍司令部に電話をかけ、この案についての訓令をうけると、よろしいとい う返事があった。 好古は戦勝者であった。が、追撃せず、逆に退却した。このあたりの呼吸と戦闘指導 戦の柔軟さはほとんど名人といってもよかった。ここで余談ながら、この男は生涯、軍政 面や軍令面での陸軍官僚になることなくほとんどを部隊勤務で終始して陸軍大将にまで 会のばるという異例の存在になったが、そのことは、こういう「名人仕事」の積みかさね があったからであろう。
というものであった。もしこの命令が、最後の一兵まで秋山支隊と戦え、というもの であれば好古もその兵も命はなかったであろう。 が、ビルゲルはその命令に接しなかった。しかしみすからの敵情偵察で秋山支隊の進 出を知り、これに対して猛撃を加えようとした。 カその北進のスピードは、奉天のクロ。ハ 好古の秋山支隊はさほどの兵力ではない。、 トキンを狼狽させたほどに速かった。 なにしろかれの部隊を食いとめるべく三月二日には秋山支隊の右脇腹にまでロシアの トボルニン中将の主力がせまっていたのである。 が、好古はそれを見すてて進み、翌三日にはトボルニンの軍団をはるかにひきはなし てしまった。 ひきはなしても後方に不安をもっ必要がなかったのは、支隊には後続の友軍が前進し ていたからであった。好古の部隊もそうだが、後続の友軍もそれそれ縦隊をなしている。 その順序をいうと、 秋山支隊ーー第一師団ーー、後備歩兵第十五旅団・砲兵第一一旅団ーー第七師団 戦 というかたちになっている。トボルニン中将の軍団に対しては、これらが応対した。 しゅんそく 会好古は騎兵の本領をもって駿速に前進すればいし 三月三日、大房身に達した。
このときのロシア側の突如の砲撃は、ロシア騎兵がいかに軽快な運動能力をもってい るかについて象徴的であった。 ロシア側の資料でいえば、この騎兵の小部隊は、第二軍に属するグレコフ少将の支隊 の一部で、騎兵砲をもっていた。 りようせんじよう かれらは稜線上に目を出して四方を警戒しているうちに、乃木軍の前進を知ったの である。むろん騎兵の任務からいえば退却して報告すべきであった。それをやる前にか れらはひそかに騎兵砲の放列を敷き、たてつづけに速射して短切に射撃をやめ、さっさ と消えてしまったのである。猪熊中尉の日記によると、日本軍の砲兵もあわてて放列を 敷いたが、しかし射撃をしようとしたときにはすでにロシア軍の騎兵も騎兵砲もそのあ たりにいなかった。 乃木軍の迂回運動のなかにいる猪熊中尉は、 「兵の質が落ちた」 ということを具体的に書いている。 この第一連隊が旅順要塞の攻撃をやっていた初期のころは、ことごとく現役兵をもっ 戦 て編成されていた。。 : カ死傷が続出するにつれ、その補充として応召兵が組み入れられ 会てきた。とくに乃木軍が、旅順をおとして北進するにあたり、消耗した軍をたてなおす について大量に補充兵を入れた。
つも、それでも前進の意志をすてなかった。 前進の意志をすてないというのは、日本軍のときには悲惨といっていいほどの特徴で あり、しかしながら日露戦争を通じての陸戦のすべてをささえてきたのは、火力でも兵 力でもなく、ただこの一点だけであったともいえる。 清河城を陥落せしめたあと、軍司令官川村景明は、 「進んで馬群丹を占領すべし」 という意味の命令を発し、二十六日、第十一師団がまず馬群丹にむかって前進を開始 しかしながら途中、ロシア軍のエック中将の師団が構築している無数の防御陣地と格 闘せざるをえなかった。 同日夜八時、第十一師団の前面の高地群において、ロシア軍の大歓声がおこり、宿営 中の日本兵をおどろかせた。高地上の陣地に拠るロシア兵たちは、何度も、 「ウラア」 という声をあげた。鴨緑江軍の幹部のことごとくがその意味がわからなかった。 じつをいえば、このエック中将の師団に対し、クロバトキン総司令官が、その麾下に おける最大の機動部隊であるレネンカンプ支隊を援軍としてこの方面に急派することを、 会通告してきたのである。 東部戦線のロシア兵たちは、救われた。 戦
引司令官訓示というものをうけとっていた。 「この会戦においては、我はほとんど帝国陸軍の全力をあげ、敵は満州において用うべ き最大の兵力をひっさげてもって勝敗を決せんとす。この会戦において勝を制したる者 はこの戦役の主人となるべく、じつに日露戦争の関ヶ原というも不可なからん」 というものであった。 クロバトキンは完璧な答案を作成し、かれみずからが、ほば満足するまでに重厚な攻 撃準備を完了した。 「これで、あの微弱なる日本軍左翼 ( 秋山好古 ) はひっくりかえるだろう」 と、めずらしく景気のいい壮語を吐いたのは、よほど自信があったに相違ない。 その自信が、たった一つの警鈴が鳴ることによって崩壊してしまったのである。 しやか 以後、左翼とか右翼という位置表示のことばがかえって混乱するため、沙河戦のとき と同様、東部戦線、西部戦線という表示をつかいたい いうまでもなく口シア軍が北軍、日本軍が南軍である。双方、東西に大きくつばさを ひろげて対峙している。 クロバトキンは西部戦線 ( 日本軍左翼・秋山好古 ) にむかって一大攻勢をかけようと したところ、東部戦線の、それも東端のさらに東端からはるばると警報のベルが鳴りひ びきはじめたのである。
いったん動きだし 軍団が移動し、師団が前進し、砲兵隊が転属されて移動しつつあり、 た味方の運動を中止させるのは、ある意味では敵を攻撃する以上に困難であった。 「二月十九日」 という日は、大山・児玉にとって、奉天決戦の作戦計画を決定し、松川敏胤がそれに ついての各軍に下達する命令書を書きあげた日として記念的な意味をもっていた。その 翌二十日に、各軍司令官が、煙台の総司令部に招集されるのである。 が、この「二月十九日」は、クロバトキンが統帥するロシア軍にとっても重要な日で あった。おなじく作戦会議をひらくべく、クロバトキンは各軍司令官とその参謀長を招 集したのである。 両軍は偶然よく似たことをしていた。 ただちがうのは、大山・児玉は、一大決戦を強いることによってロシア軍を追い上げ ようとしているのに対し、クロバトキンもいったんは日本軍に一大決戦を強いようとし たものの、この日、軍司令官たちを招集することによって、 こういう実情だから、できれば中止したい。 戦 という意向をほのめかせようとする意図による招集であることだった。ただし、クロ 会バトキンもそれを露骨にはいえない。 この処世上の秀才は、軍司令官たちに実情を説明 することによって、軍司令官たちの側から、
船団を待つだけの間の抜けた時間のなかで、士官たちはふたたびロジェストウエンスキ ーの頭のなかを疑いはじめた。演習は結構であったが、結局は前進ではなく足踏みでは あるまい力。 そのあと同じ演習がもう一度くりかえされた。 あきらかな足踏み運動であることがたれにもわかるようになった。ロジェストウエン スキーは予想戦場に到着することを故意に延ばしているのである。 このままゆけば二十六日の深夜に対馬海峡に接近してしまうであろう。深夜予想戦場 に達すればかならす日本側の駆逐艦や水雷艇による魚雷攻撃がおこなわれる。かれら小 艦艇は白昼大艦に接近することを困難としているが、夜陰にまぎれて忍び寄り、魚雷を 発射して逃げる。ロジェストウエンスキーは戦場におけるその種の刺客をきらい、二十 七日の白昼対馬海峡を通過すべく二十六日において時間調整をしたのである。 夕刻、演習はおわった。艦隊は五ノットというゆるやかな速力ですすんだ。 かん ただこの間、ロジェストウエンスキーとその幕僚たちの神経をいらだたせたのは、戦 島艦ニコライ一世が、 古 ーー敵艦見ゅ。 宮との信号をかかげたことである。午後零時十五分であった。もっともこれは誤認だっ たが、誤認とわかったのは戦後で、このとき全艦隊が極度に緊張した。