ポガトフ少将がフェリケルザム少将の死を知るのは、海戦がおわって日本軍の捕虜にな ったときである。日本側から知らされた。この航海中もそしてその行きつくはての戦闘 の真っ最中でも、フェリケルザムの健在を信じて疑わなかった。なぜならば第二戦艦戦 隊の旗艦オスラービアにはずっとフェリケルザムの将旗がかかげられつばなしだったか らであり、ロジェストウエンスキーがその旗をおろすことをゆるさなかったからである。 戦場では、当然不測のことが多い。 司令長官であるロジェストウエンスキーの戦死も考えられることであった。その場合、 ただちに司令長官を代行する序列というものはきまっていた。第二戦艦戦隊司令官のフ エリケルザムがその代行者になる。それが生きている以上、第三戦艦戦隊司令官のネボ ガトフが序列を飛びこえてロジェストウエンスキーの代行をすることはできない。 ロジェストウエンスキーという人物は、自分の これまた信じがたいはどのことだが、 戦死をまったく考えていなかったかもしれないという形跡がある。ふつう、長官はその 次席以下の者に自分の戦略戦術の方針をよく伝えておき、自分が戦死した場合にすぐ代 行がっとまるようにしておくのだが、ロジェストウエンスキーは、フェリケルザムにも 一度もしなかったのである。 影ネボガトフにも、方針なり戦術なりのうちあわせをついに 艦ロジェストウエンスキーの置名幕僚の記録では、 初「司令官会議もなく、艦長会議もなかった」
かいぎやく 葉にはどこか諧謔があって、当番兵の綿貫までが口をおさえて噴きだすのをこらえた。 好古の巧妙さは、この段階になって猛烈な追撃運動に移ったことである。いま追撃す れば味方の小さな損害をもって敵の大きな損害を買うことができるはすであった。 秋山支隊は、さかんな北進運動を再開した。 好古は馬上、水筒をラッパ飲みしながらすすんだ。水筒のなかにシナ酒が入っていた。 当番兵の綿貫にとって好古ほど手のかからない上官はなかったが、ただ酒を用意して おくことだけは苦心した。好古は行軍中も飲む。そのため綿貫は自分の水筒にもシナ酒 をいつも詰めておいた。 好古は水筒が空になると、 「綿貫よ」 と、よぶ。 綿貫は心得ていてすぐ馬を寄せ、水筒をさしだそうとしたが、諸事安直な好古は自分 から綿貫の馬に馬を寄せ、やや後ろにまわり、馬上体をのばして綿貫の腰の水筒に口を つけ、飲むというより吸いあげてはのどに流しこむ。 戦これを砲弾の飛来するなかでやった。リ 言田官たちは好古の姿のこつけいさに笑いだして しまうのだが、 好古はかまわずのんだ。 会北へ進むに連れてロシア軍の層が厚くなり、その抵抗がはげしくなった。乃木軍主力 はそれに悩まされて運動が渋滞しがちだったが、好古は火力を豊富にそなえた騎兵集団
、 ) ぶし 1 伝授するのに的確であった。拳が破れるかわりに窓ガラスをぶちゃぶることができる。 ゃぶるについては用兵者および実施者は騎兵の全滅を賭さなければならないが、運用さ え妙をえればこれほど効果のある兵種はない。 好古は大尉、少佐のころから日本騎兵を育て、その用兵思想を陸軍幹部に説きつづけ てきたが、 ついにかれ自身は日露戦争という、大会戦の連続する戦役期間を通じ、その 思想とする冒険と襲撃をやったことがなかった。 この大房身の戦闘でもそうであった。 「勝っためには防御戦闘をしなければならない」 として、防御戦法に徹底した。 かれはかれの騎兵たちをみな馬からおろし、馬を後方にあつめて兵のみを防御陣地に 入れた。 防御陣地と火力をもって、前進してくるロシア軍をなぎたおすという方法である。こ の方法はロシア軍の得意とする戦法であり、急襲と奇襲をもって騎兵の本質と考えてい る好古の思想とはおよそ逆であった。 が、好古はみずからの思想を圧殺することによって、勝っための道をえらんだ。かれ の兵力はつねに微弱であり、敵の兵力はつねに大きかった。さらにはかれの支隊の置かれ かいらん ている全体のなかでの位置が、潰乱と敗北を賭けた冒険的戦法に出ることをゆるさなか った。もし秋山支隊が潰乱すれば、乃木軍の旋回 ( 繞回 ) 運動は一挙にくずれるのである。
と、児玉はこの錯綜した状況と混乱のみがつづく事態のなかにあって敵が見せるかも はたん しれない破綻をうかがいつづけ、それを勝機にしようとしたが、しかし容易にみつから なかった。とはいえ児玉は巨大な勝利などをねがっているのではなかった。 ( なんとかこの一戦で優勢の位置を占めたい ) というのが懸命な願望であり、戦局を優位でむすぶことによって講和気運を成立させ ようとし、かっ講和交渉をできるだけ有利に展開させうる基礎をつくろうとしていた。 ( この一戦で日本の戦力は尽きる ) ということを知りぬいている児玉は、講和のことについてはたえす東京の山県有朋と 連絡をしていた。 が、計画を練りぬいたかれの奉天作戦をもってしても、兵力の弱小という致命的な欠陥 ゅうゆう は覆うべくもなく、ロシア軍はその大兵力をもって悠々と応対しているかの観があった。 たとえば、 「敵の左翼 ( 東部 ) を衝く」 と称して繰りだした鵯緑江軍も、作戦の初動期こそ敵の前哨的勢力を駆逐して景気が よかったが、 クロバトキンが、東部戦線のレネンカンプ支隊に加えるに二個軍団という とはうもない新兵力を送ったため、鴨緑江軍の前進は馬群丹、救兵台あたりの高地を前 会にしてとまってしまった。以後戦機はわずかずっしか発展せす、乃木軍が前進している この時期にあっても、鴨緑江軍はむしろ敵の逆襲をかろうじてくいとめているのがやっ 戦 おお
ぎなうという一種華麗で酔狂な夢想ーー茶道の精神美にかようようなーーに酔いつづけ るというふしぎな伝統が属性としてこびりついてくるが、むろんこういう形而上的軍隊 観は日露戦争のころには存在しない。 言が、わきにそれた。要するに三十一年式野砲というこの貧しい機械をうんだ発想の もとは、鎮台から出発した日本陸軍の遺伝体質によるとしか考えられない。 この砲が、明治二十九年に輸入した各国の代表的な野砲を比較検討することから誕生 したということは、すでにのべた。明治二十九年を基準とすることでもすでに遅れてい る上に、それらの砲の長所をあつめて合成したというより、中庸をとった。 初速も平均の上で、四九〇メートルでしかない。野砲の生命とする射撃速度にかけて は、最低をとった。ふつう射撃速度は一分間六発から七発であるのに対し、三発でしか よ、。 この奇妙な限定は、 「日本は砲弾を豊富につかえないから、そうやたらと弾を早く射ち出してもしかたがな わいしよう という、おのれを矮小と考える自己規定からきたものらしい 日本の三十一年式野砲は機械そのものとしては精巧にできていたが、これとロシアの 会制式野砲をくらべると、新旧のちがいが歴然としてあった。 ロシアのそれは、世界の新式野砲のすべてがそうであるように、砲身後座式であった。 戦
ざんごう シア形の陣地の特徴として、山頂から山腹にかけて二重の塹壕をめぐらしており、要 所々々に側防火器が設けられている。ただそれだけのことであるのにこれが二〇三高地 に似ているとして兵士が口々にささやきあったのは、日本軍が陣地攻撃をするにあたっ てあいかわらす銃剣突撃をもってする型をくりかえし、そのためにかって二〇三高地に おいて払ったような犠牲をはらってしまったからである。むろん撃退された。 この銃剣突撃は、おどろくべきことに後備第一師団と第十一師団の全力をあげておこ なわれた。 ( またあれをやるのだ ) という兵士たちの絶望的な思いが、眼前のロシア軍陣地をもって「小旅順」ととなえ しめたのであろう。日本軍の師団参謀たちの頭は開戦一年余ですでに老化し、作戦の 「型」ができ、その戦闘形式はつねに「型」をくりかえすだけという運動律がうまれて しまっていた。「型」の犠牲はむろん兵士たちであった。 型といえば、元来、軍隊というのは型そのものであり、その戦闘についての思考は型 そのものであった。 ついでながら型をもっとも種類多く諳記している者が参謀官になるという習慣が、日 露戦争後にうまれた。日露戦争の終了後、その戦訓を参考にして作戦関係の軍隊教科書 が編まれ、陸軍大学校における作戦教育もそれが基調になった。その日露戦争の型をも
354 午後一時三十分、ロジェストウエンスキーは、 「今夜しばしば魚雷攻撃のあることを予期せよ」 という信号をかかげた。実際はその予想はあたらず、二十六日夜は日本艦隊のうちの 一艇といえども出現しなかった。第一、日本艦隊は二十六日夜においてはバルチック艦 隊をまだ発見するにいたっていないのである。 この日、夕方になって、海はおだやかになった。午後四時三十分、旗艦スワロフのマ ストに「戦闘準備」の信号がかかげられた。 かん ただこの間、各艦の無電室だけは、戦陳的な鼓動を聴きつつあった。艦隊の前方にお いて日本の哨戒艦らしい数隻が遊弋し、しきりに無電を交換しあっているのが、受信機 に響いてくるのである。傍受してもどういう内容であるかは、わからなかった。バルチ ック艦隊には日本海軍の暗号を解く能力も日本語を理解する能力もなかった。 「われわれは発見されている」 と、幕僚たちまで信じた。 この時期のバルチック艦隊の士気について特記すべきことは、長途の航海中に発生し けんたい た軍隊にとってもっとも忌むべき病気である倦怠と上官への反抗気分が、一挙にぬぐ 去られたことである。とくに旗艦スワロフの下士官や兵の精神の昂揚というのは、ヴァ ン・フォンにおけるこの艦隊とは別個の軍隊であるかのような観を呈した。ロジェス トウエンスキーの統帥に対して懐疑的であった匿名幕僚の手記においてさえ、
344 それほど悲嘆させられた彼女が、ちょっと信じられぬことだが二十九年後の昭和九年 まで、夫たちがあのとき何をしに行ったかについて、夫からもその仲間からも教えられ ずにすごしたのである。五人の若い漁夫たちは、出発にあたって島司から、 「これは国家機密だから、たれにても口外しないように」 と念を押されたことをその後も忠実にまもり、昭和九年、毎日新聞がこの事実を知っ て全国的に報道するまでその妻たちにも洩らさなかった。そのためこれだけの異様な事 実が、宮古島だけでなく日本中に知られることがなかったのである。 異常さは、かれらの決死のカ漕という記録的壮挙だけでなく、そのことを国家機密で あるとしてたれにも話さなかったということにもあるであろう。すでに変化してしまっ た社会からふりかえればむしろそのほうがはるかに異常であるかのようである。日露戦 争は日本人のこのような、つまり国家の重さに対する無邪気な随順心をもった時代にお こなわれ、その随順心の上にのみ成立した戦争であったともいえる。 かれらは海上十五時間という長時間を漕ぎつづけた。 五人とも出発のときにすでにトビウォ漁から帰ったばかりで疲れきっていたことを考 えると、この十五時間のカ漕は人間の体力の限度をとっくに越えたものであった。 この往きの場合は海もおだやかで、ときどき帆でとらえられる風も吹いてきた。そう いう風がくればすかさず帆をあげ、風が逃げてしまえば、それぞれ櫂を空中で煽って水 あお
道の兵員輸送能力が一日二千人として百日を要するというほどのものであり、もし他日 へいそく ロシア軍が決戦を再開するとしてもそれだけの期間は閉塞しつづけていなければならな 、刀学 / 、ったい奉天作戦は日本軍にとって勝利だったのかどうなのであろう。 さらに戦いにおいて「勝つ」ということはどういう基準で成立するのか。 日本側の総司令官大山巌は、この世界戦史はじまって以来の規模をもつ大会戦をおこ すにあたって、二月二十日各軍の首脳を煙台の総司令部にあつめ、この会戦の主題をつ ぎのように規定し、訓示した。 ぜんせんえき 「来るべき会戦は、日露戦争の関ヶ原なり。ここに全戦役の決勝を期す」 というのである。ついでな 日露戦争そのものをこの一戦で締めくくってしまいたい、 がらこの当時の軍隊用語は、その後の日本軍のような「敵ヲ殲滅」とか、猛攻、猛撃と いったたぐいの作文的な形容過剰主義の修辞法はいっさい用いられなかった。大山は、 画家が必要欠くべからざる線を、たとえばわずかに一線だけ引いて無限の量感を表わそ 却うとするように、この淡々とした実質的表現のなかに日本国家の運命という、名状しが こいほどに大きなものを盛りこんだ。 退さらに、かれはつづいて、金州・南山の戦いいらい幾度かロシア軍主力と会戦をかさ ねてきて、結局はロシア軍の陣地をうばったにすぎないという、この戦いの実相につい せんめつ
さらに同日、北進してきた乃木軍が法庫門城をおさえた。 こうしゆれい クロバトキンとその主力は、遠く公主嶺まで逃げざるをえなかったが、日本軍にはも はや新鋭の予備兵力がなく、さらに砲弾の貯蔵も底をついてしまったため、追撃してこ れを全滅させるまでにはいたらなかった。 「もし秋山支隊のごとき騎兵を主力とした混成兵団がもう二つばかり日本軍に温存され ておれば、クロバトキンを急追してかれを捕虜にすることができたであろう」 と、この会戦を指導した総司令部参謀のあいだでしばしばそのように言われたが、追 撃が鉄嶺付近にとどまらざるをえなかったのは、日本陸軍というより国家的体力の限界 というべきであった。 この会戦における日本軍の死傷は大きく、五万以上にのばった。 ロシア軍の損害は、その退却時においてもっともはなはだしかった。捕虜三万余をふ くめて損害は十六、七万人にのばり、日本軍の三倍強を算した。 「鉄嶺の線に退却して軍隊を整頓すべし」 としていわば積極的退却方針をとったクロバトキンの作戦は、ヨーロッパの軍隊と戦 う場合には十分通用した。が、日本軍は疲労と損害をかさねながらも猛攻の姿勢をゆる しつようついびはくげき めず、執拗に追尾搏撃したために戦史上の常識をはるかに越えた損害をロシア軍はこう むった。 ロシア軍の損害である十六、七万というのは、これを補充するとすれば、シベリア鉄