こんが 渾河左岸にあっても、同方面をまもるクズネッオフ大佐の部隊は前夜数回におよぶ日 けんろう 本軍の猛襲をことごとく撃退し、その他全線にわたってロシア軍の戦線は堅牢であった。 ただ、奉天にある総司令官クロバトキンのみはその神経が堅牢でなかった。 かれは、諸報告にもとづき、 「新民ー奉天方面ノ日本軍ハ強大ナリ」 とみていた。乃木軍のことであった。乃木軍の戦闘行軍のすさまじさをみて、それを 実数よりも二倍以上に判断していた。 きようじん ただ七日の日没までは、クロバトキンは自軍の防戦力の強靭さに自信をもっており、 乃木軍からの心理的圧迫感はやや軽かったようにおもえる。 が、七日夜に入って急報された報告が、かれを大きく動揺させた。 「奉天北方一一十キロの地点に、日本軍約六千が進出」 という意外なものであった。 この報告の実態は、秋山好古の支隊三千のことである。好古は北方へ突出していた。 しかしながらありようは、強大なロシア軍を相手にして好古は積極的前進へ踏みきりか 却ねていた。かれは攻勢姿勢をとりつつ、前進陣地を防御的にかためることに心をくばっ ていた。 退しかしながらクロバトキンの神経は、そのようには感じなかった。 大きく震動した。
と、児玉はこの錯綜した状況と混乱のみがつづく事態のなかにあって敵が見せるかも はたん しれない破綻をうかがいつづけ、それを勝機にしようとしたが、しかし容易にみつから なかった。とはいえ児玉は巨大な勝利などをねがっているのではなかった。 ( なんとかこの一戦で優勢の位置を占めたい ) というのが懸命な願望であり、戦局を優位でむすぶことによって講和気運を成立させ ようとし、かっ講和交渉をできるだけ有利に展開させうる基礎をつくろうとしていた。 ( この一戦で日本の戦力は尽きる ) ということを知りぬいている児玉は、講和のことについてはたえす東京の山県有朋と 連絡をしていた。 が、計画を練りぬいたかれの奉天作戦をもってしても、兵力の弱小という致命的な欠陥 ゅうゆう は覆うべくもなく、ロシア軍はその大兵力をもって悠々と応対しているかの観があった。 たとえば、 「敵の左翼 ( 東部 ) を衝く」 と称して繰りだした鵯緑江軍も、作戦の初動期こそ敵の前哨的勢力を駆逐して景気が よかったが、 クロバトキンが、東部戦線のレネンカンプ支隊に加えるに二個軍団という とはうもない新兵力を送ったため、鴨緑江軍の前進は馬群丹、救兵台あたりの高地を前 会にしてとまってしまった。以後戦機はわずかずっしか発展せす、乃木軍が前進している この時期にあっても、鴨緑江軍はむしろ敵の逆襲をかろうじてくいとめているのがやっ 戦 おお
つも、それでも前進の意志をすてなかった。 前進の意志をすてないというのは、日本軍のときには悲惨といっていいほどの特徴で あり、しかしながら日露戦争を通じての陸戦のすべてをささえてきたのは、火力でも兵 力でもなく、ただこの一点だけであったともいえる。 清河城を陥落せしめたあと、軍司令官川村景明は、 「進んで馬群丹を占領すべし」 という意味の命令を発し、二十六日、第十一師団がまず馬群丹にむかって前進を開始 しかしながら途中、ロシア軍のエック中将の師団が構築している無数の防御陣地と格 闘せざるをえなかった。 同日夜八時、第十一師団の前面の高地群において、ロシア軍の大歓声がおこり、宿営 中の日本兵をおどろかせた。高地上の陣地に拠るロシア兵たちは、何度も、 「ウラア」 という声をあげた。鴨緑江軍の幹部のことごとくがその意味がわからなかった。 じつをいえば、このエック中将の師団に対し、クロバトキン総司令官が、その麾下に おける最大の機動部隊であるレネンカンプ支隊を援軍としてこの方面に急派することを、 会通告してきたのである。 東部戦線のロシア兵たちは、救われた。 戦
せるべく処置を講じはじめた。クロ。ハトキンはみすから積極的攻勢をやるについては病 的なほどに神経が過敏になるが、逆に敵の攻勢に対して受け身に立っ場合、別人のよう にひらきなおり、沈着で的確に手当を講するという性格をもっていた。 ともあれ、北上する乃木軍は、会戦三日目の三月一日になって戦況が激烈になった。 乃木は前進をあせったが、総司令部では、 「第三軍の前進速度がおそすぎる」 しった と、しばしば乃木の参謀に対して電話で叱咤してきた。旅順以来、総司令部の乃木に 対する能力評価がきわめてひくく、その督励ひとつでもかさにかかってくるような口調 があった。 たとえばこの日の電話で、 「第九師団はうごいとらんじゃないか」 という調子で乃木軍司令部を叱咤した。 乃木軍司令部にすれば、もともと第九師団を迂回運動の「軸」として据えおき、他の師 団が所定の前進位置まで進出してから動かそうとしていた。それに対して総司令部電話は、 戦 「巧妙すぎるきらいがある」 会と、けちをつけてくるといった状態で、総司令部に従順な乃木もこの電話のやりとり をあとできいて、めずらしく色をなした。
ということで、地をどんどん捲りあげて敵の本陣へ踏みこめばそれで勝ち、というこ とになっている。乃木軍はそのために前進した。とくに第九師団は敵の血しぶきとおの れの流血のために血みどろになり、師団ぜんぶがまるで幽鬼のようになりながらも前進 することだけはやめなかった。 三月二日、乃木軍の右にいる奥軍は難戦のあげく、やっと前面の敵を撃破することが できた。砲兵は終日ロシア軍に砲弾の雨をふらせ、ともすればロシア軍の砲兵は圧倒さ れるほどであり、とはいえ日本の歩兵が前進すればロシアの砲兵は活況を呈して一瞬で 日本兵を二百余人も吹っ飛ばしたことがあった ( 第四師団ーー大阪ーーーの北台子付近の戦 闘 ) 。それでもなお工兵までが手投げ爆弾をかかえて敵壕の中へ突入し、日本兵が爆弾 を投げれば壕内のロシア兵も爆弾を投げ、ついにはこがいに短剣をかざして格闘すると いう惨況まで呈した。 この激闘の結果、ロシア軍は遺棄死体五百余をのこし、降雪にまぎれて退却したが、 日本軍総司令部にあってはこの奥軍の戦果を拡大しようとし、乃木軍をしてロシアの退 却部隊の退路を断つべく命じた。 いや、命じようとした。 が、乃木軍への電話が通じなかった。 会「乃木軍をよびだせ、まだ出んか」 と、総司令部参謀はわめきちらしたが、電話が不通になっている以上、仕方がなかった。
きいる野砲兵第二旅団は呉家崗子へといったぐあいに、それぞれの前進目標にむかって すすみはじめた。 ただこの困難な迂回運動をおこなうにあたってもっとも大きな犠牲を出した第九師団 は迂回運動の軸になるために動かず、その位置において戦闘準備をととのえた。 以後、連日、ロシア軍の前哨陣地に対し、小規模な戦闘がつづいた。 会戦第三日目の三月一日朝、東方にあたって地軸がゆらぐほどの砲声がおこった。こ の日、全日本軍の攻勢がはじまったのである。東部にあっては鴨緑江軍が攻撃をつづけ、 黒本軍がそれを支援しつつ正面攻撃を開始し、野津軍と奥軍の砲兵が、全力をあげてそ れそれの正面の敵陣地を砲撃しはじめた。 乃木軍は、運動をつづけた。 午後二時すぎから相当規模の戦闘があり、しだいに敵の壁は厚くなってきた。 すでにこの日、ロシア軍にあってはこの西部戦線の異常さに気づき、この方面を担当 する第二軍が、やっきになって手当をしはじめたのである。 奉天にいるクロバトキンも、かって東部戦線を刺戟した鴨緑江軍を乃木軍であると錯 覚し、大きな兵力移動を東部にむかっておこなったのだが、ほんものの乃木軍が、逆の 西部戦線から突き出てきたことを知った。 「ノギのありかがわかった以上、おそるるに足りない」 とし、こんどはすこしも狼狽せず、東へもって行った戦略予備軍の多くを西へ転換さ
ア軍からみればこの白い平原にネズミがいっぴき走ってもすかさす視線でとらえること ができた。 ところが第九師団一一四二八人は、よく照準されたロシア軍の銃砲火をあびつつも、 あたかも練兵場をゆくように整々とすすんだ。 とくにこの師団の第九山砲連隊の前進に対してはロシア軍の砲弾が集中した。かれら は敵との距離四キロの地点から敵にむかって前進を開始し、二キロ半すすみ、予定陣地 オカこの間、宇治田という連隊長の体をつらぬいて砲弾が炸裂し、閃光と砲煙 こ入っこ。、、 、 ' 、すぐさま他の者が指揮 が消えたとき、宇治田は人馬もろともに消えてしまってしたが、 を代行し、隊列はすこしもみだれることなく前進した。 この稿のたてまえとして、戦闘の描写はひかえている。 が、二三、筆者として奉天会戦の気分を得たいため、点描したい。 まず、兵士の手帖。 にたぐんかめだけ 島根県仁多郡亀嵩村の出身である陸軍工兵二等卒飛田定四郎 ( 農業 ) は、昭和十七年 十一月二十四日、 , ハ十歳で死去。満二十歳で岡山のエ兵大隊に入営し、早々に出征した。 明治三十七年四月二十日大連港に上陸し、以後その手製の小さな手帖に、エンピッで 会克明に従軍日記を書いている。 学歴は村の小学校を出ただけだが、その文章に骨太さと野趣があり、この時代の若い
というものであった。もしこの命令が、最後の一兵まで秋山支隊と戦え、というもの であれば好古もその兵も命はなかったであろう。 が、ビルゲルはその命令に接しなかった。しかしみすからの敵情偵察で秋山支隊の進 出を知り、これに対して猛撃を加えようとした。 カその北進のスピードは、奉天のクロ。ハ 好古の秋山支隊はさほどの兵力ではない。、 トキンを狼狽させたほどに速かった。 なにしろかれの部隊を食いとめるべく三月二日には秋山支隊の右脇腹にまでロシアの トボルニン中将の主力がせまっていたのである。 が、好古はそれを見すてて進み、翌三日にはトボルニンの軍団をはるかにひきはなし てしまった。 ひきはなしても後方に不安をもっ必要がなかったのは、支隊には後続の友軍が前進し ていたからであった。好古の部隊もそうだが、後続の友軍もそれそれ縦隊をなしている。 その順序をいうと、 秋山支隊ーー第一師団ーー、後備歩兵第十五旅団・砲兵第一一旅団ーー第七師団 戦 というかたちになっている。トボルニン中将の軍団に対しては、これらが応対した。 しゅんそく 会好古は騎兵の本領をもって駿速に前進すればいし 三月三日、大房身に達した。
132 は眼前にロシアの大軍がいる。いよいよその兵力はふえてきている。それをやぶって奉 天後方に出て鉄道遮断をやるには全力をあげてもなお足りない。 が、乃木軍司令部は、総司令部の督促があまりにはげしいために、 「秋山にやらせよ , つ」 とい , っことになった。 秋山好古の隊は、騎兵を主力として歩砲をもあわせた混成集団である。機動力も戦闘 力もあったが、しかし兵員の数にすればわすか三千にすぎない。三千をもって正面十万 のロシア軍のなかをわけ入ってゆくことはむろん不可能である。 が、乃木軍としては、形だけをととのえねばならない。高級司令部の命令に対して、 成功の見込みがないままに形式だけをととのえるという、日本軍がかってそれをやった ことがない悪しき事例がここにうまれた。 ( 行けというなら、しかたがない ) と、好古もおもった。 しかしながら、秋山支隊の戦闘前進も遅々として進ます、かといって乃木軍主力とま ったく離れて孤軍突出して敵中で玉砕潰滅すれば乃木軍そのものが崩壊するおそれがあ り、いすれにしても煙台の総司令部の期待のようには戦況が進展しなかった。 好古は、軍命令と現実との調節を、なんとか現場でこなした。かれは無理な突出をせ ず、なるべく前進するごとに防御工事をほどこして確保し、着実に敵に近づこうとした。
あはつだい 唖叭台 ( 韓山台 ) にむかわしめ、この間、精強できこえたレネンカンプ騎兵集団を走ら しめて遠く日本軍の側背をおびやかす。 一方、第三軍は、第二軍の沈旦堡攻撃の援助運動をし、第二軍の第十軍団による李大 人屯 ( 好古の本部のある村 ) 攻撃がはじまるとともにそのまわりの脆弱な秋山陣地 ( 瓜 しょだいさんかし 且台、三家子など ) を攻める。 というようなことが骨子であったが、この間、秋山好古にはむろんロシア軍の意図な どはわからなかった。もしこれがおこなわれていたとすれば、好古は四十七年でその生 涯を閉じなければならなかったであろう。 李大人屯にいるかれを救ったのは、大山・児玉の積極攻勢計画であった。かれはクロ バトキンがその計画を何度か再考したり、中止したり、ついに実施を決断したりしてい るあいだに、総司令部の命令によってあらたな攻勢運動を開始しつつあったのである。 やすかた かれはこの時期もなお第二軍司令官の奥保鞏の隷下にあったが、しかしあらたに日本 軍左翼からロシア軍右翼にむかって運動しようとしている乃木軍に対しても有機的連絡 をたもつように命ぜられているため、両属のような状態にあった。 好古が奥軍司令部からうけとっていた命令書によると、 「第二、第三軍の間の連絡に任じ、かっ第二軍の左翼を掩護し、つとめて軍の前進を容 会易ならしむべし」 こんが というもので、遠く渾河の右岸まで前進することを命ぜられた。好古はすでに大山総 戦 かん えんご ぜいじゃく