オストックを喪失することがあれば、回航中のバルチック艦隊はもぐりこむべき巣をう しなうことになるのである。 児玉は、滞京中、重臣たちのあいだを走りまわった。その説くところはただ一つであ 「この戦争をなんとかしろ」 、、もはや日本国家の陸戦能力は竭 ということであり、あとは政略で片付けるほかなし きょ , っとしている、とい , っことであった。 この意見は、満州煙台の地で野戦軍を統率している大山巌の意見とすこしもかわらな さんだい 。大山はもともと満州へ出征するにあたって参内したとき、 「かならずロシア軍を満州から駆逐してみせます。しかしながらそのあとのことはそれ がしの測りうるところではございませぬ」 と、奉答した人物である。その前後にかれが海軍大臣山本権兵衛に、「軍配をあげる ほうをよろしくねがう」と、戦況の進展とにらみあわせて講和交渉の政機をとらえるこ 却とをわすれるな、と念を押してから戦場にむかったということはすでにのべた。 児玉の報告をきいた参謀総長山県有朋はことごとく児玉の意見に賛成し、首相桂太郎 退に対し長文の手紙を書いている。その手紙は戦勝側の参謀総長の手紙ともおもえぬほど に苦渋にみちたものであった。 る。 っ
ざんごう シア形の陣地の特徴として、山頂から山腹にかけて二重の塹壕をめぐらしており、要 所々々に側防火器が設けられている。ただそれだけのことであるのにこれが二〇三高地 に似ているとして兵士が口々にささやきあったのは、日本軍が陣地攻撃をするにあたっ てあいかわらす銃剣突撃をもってする型をくりかえし、そのためにかって二〇三高地に おいて払ったような犠牲をはらってしまったからである。むろん撃退された。 この銃剣突撃は、おどろくべきことに後備第一師団と第十一師団の全力をあげておこ なわれた。 ( またあれをやるのだ ) という兵士たちの絶望的な思いが、眼前のロシア軍陣地をもって「小旅順」ととなえ しめたのであろう。日本軍の師団参謀たちの頭は開戦一年余ですでに老化し、作戦の 「型」ができ、その戦闘形式はつねに「型」をくりかえすだけという運動律がうまれて しまっていた。「型」の犠牲はむろん兵士たちであった。 型といえば、元来、軍隊というのは型そのものであり、その戦闘についての思考は型 そのものであった。 ついでながら型をもっとも種類多く諳記している者が参謀官になるという習慣が、日 露戦争後にうまれた。日露戦争の終了後、その戦訓を参考にして作戦関係の軍隊教科書 が編まれ、陸軍大学校における作戦教育もそれが基調になった。その日露戦争の型をも
が、乃木軍参謀も、この怒りをその隷下の第九師団参謀にたたきつけた。 「なにをばやばやしている」 と、伝令をもってどなりつけた。むりというものであった。第九師団は「軸」として 動かずにおれ、という命令を出したのは、乃木軍司令部なのである。 ところが、この日、第九師団の友軍である第七師団は躍進をかさねてはるかに西方へ 進みすぎ、状況上、第九師団との連絡が不可能になるまで離れてしまっていた。 こ , つい , っ場ムロは、 「第九師団司令部としては状況を判断し軍司令部からの命令がなくとも独断をもって前 進すべきではないか」 と、乃木軍参謀は、総司令部参謀からどなられた腹イセもあって、第九師団司令部に かれつ 八つあたりにあたったりした。戦闘が苛烈になるにつれ、この種のヒステリックな感清 的叱責が高級司令部から下級司令部にむかって容赦なく流れ、それに対して下級司令部 の参謀が「後方にいて状況がわかるか」とどなりかえすといった場面がたえずくりかえ された。 この日、午後三時、第九師団は、うごいた。 この師団のこの日の前進ぶりは、この時代の日本陸軍の質がどういうものであるかを よく象徴していた。 師団が運動すべき空間は、積雪におおわれた鏡のような平原で、高地に布陣するロシ
って滑稽なことながら太平洋戦争までやってのけるという、他のどの分野でも考えられ ないほどの異常さが、軍隊社会においてはむしろそれが正統であった。 「日本軍は奇妙な軍隊である。そのなかでもっとも愚かな者が参謀懸章を吊っている」 と、太平洋戦争の末期、日本軍のインバール作戦を先制的にふせいでこれを潰滅させ た英軍の参謀が語っているように、軍人というのは型のどれいであり、その型というの は、その軍隊と、それが所属する国家形態がともどもにほろび去るまでほろびない。さ らに例をあげれば、天才は型の創始者であり、戦術家としてのナポレオンは自分の編み だした型として存在した。かれはその型によってヨーロッパを席巻し、その型が敵に対 して通用しなくなったときに、リ 型とともにほろんだ。 ただこの清河城の東南陣地攻撃にあたって、「型」が敗北したとき、それに気づいた のは、精強なはずの第十一師団の参謀長斎藤カ三郎大佐ではなく、老兵師団としてばか にされていた後備第一師団の参謀長橋本勝太郎中佐であった。 「いつもの白兵突撃では犠牲が大きいばかりで効果がない」 と、かれは弱兵師団に属しているだけに、弱兵でも勝ちうる方法を考えようとした。 このためかれ自身が敵前まで進んで地形や敵陣地の偵察をし、とくに死角を見つけよ うと努力し、ほばその角度を発見した。 会突撃にあたっては砲兵力を十分に利用すべく、砲兵連隊長の山岡重寿中佐と援護射撃 についてのうちあわせを十分にした。 戦 せつけん
138 この第一師団の前線でおこった日本軍未曾有の大潰乱ーーそれも同日で二度もーー・を かろうじて全軍崩壊からささえたのは、師団参謀長星野大佐以下の参謀たちであった。 この二度目の敗走のとき、参謀長の星野は司令部からとび出て敗兵を叱咤したが、し かしロシアの追撃軍が眼前にせまっていたためそれどころではなくなった。かれはみず から砲兵陣地まで走り、砲兵の射撃指揮をとった。 、一うや しゃへいぶつ 前面は、一望の礦野である。遮蔽物もない。日本軍の歩兵の躍進法は地形地物を利用 したりして器用であったが、 ロシア歩兵のそれは不器用であった。かれらは全身を露呈 うんか しながらのこのこと押しよせてくる。それも地を覆って雲霞の数である。風塵が地をは くら らい、空へ巻きのばり、かろうじてその黄色い渦がロシア兵の姿を昏ませてくれる程度 であった。 星野大佐は、すぐれた参謀長ではなかった。しかしながら師団司令部の前方千メート ルまでやってきたロシア歩兵の大軍に対して、もはや作戦もなにもない。砲身に噛みつ くばかりの勢いで砲兵を叱咤する以外にない。 どの砲も、照準をあわただしく修正した。 砲身をぐっと水平にし、砲手たちは号令を待つよりもともかく目の前にいる相手に対 たま りゅうじよう し、弾を送り、弾をこめては竜縄を引くといういそがしい作業をくりかえした。 ′一う 轟っという発射音と、砲弾の爆発音が同時におこった。砲弾はことごとく命中した。 おお
たロジェストウエンスキーとその大艦隊について当然ながら豊富な知識をもっているは ずだったが、。ハ レオログがおどろいたことに、この大本営参謀はなにも知らなかったの である。 ハレオログが書いているところでは、話題がバルチック艦隊のことになったとき、 のんき 「煙草を吹かしながら暢気なドーパソフ ( このロシア参謀 ) は叫んだ」 「ああ、かの愛すべきジノヴェイ・ベトローウィッチ。彼はどうしているのだろう ? ・ : 今、彼の艦隊はどこにいるのでしよう」 ( 古野清人訳「犠牲の艦隊」 ) といって、フランスの外交官や海軍武官を唖然とさせたのである。この時期、フラン スは複雑な国際状勢のなかにあってロジェストウエンスキーの艦隊の立ちまわりさきの 面倒を、つぎつぎに見てゆかねばならない立場におかれていた。このためロジェストウ エンスキー艦隊の消息についてはフランス海軍および外務省の諜報機関が業務上知って 、た。しかしそれにしても、ペテルプルグからきたこの大本営高級参謀が、フランス人 から同僚 ( ロジェストウエンスキー ) の名をきいて懐しそうに声をあげ、 「かれはいまどこにいるのでしょ , つ」 ときいたのは、ひど い。が、専制国家にあっては官僚たちは専制者である皇帝の機嫌 をとっているだけでよく、艦隊がどこをうろついていようともかれらの重大な関心事で 会はない。クロバトキンにしても同様であった。 戦
と訓示したその砲弾は、追撃戦もろくにできなかったことでもわかるように使いはこ してしまっていた。かって遼陽会戦では十二万発の砲弾を射ったが、この会戦にあって は、各砲兵隊が手持のぶんと大山のいう予備のぶんとをあわせて三十五万発もっかって し士った。 「よくやったほうですね」 と、若い参謀が松川敏胤にいったとき、松川は不機嫌そうに沈黙していた。なるほど、 敵主力を逃がしてしまったし、クロバトキンを捕虜にすることもできなかった。もう十 万発の砲弾があったなら、松川にいわせれば満州におけるロシア軍は一兵たりとも生き て本国に帰れなかったであろう。 しかし若い参謀のいうことも一理はあった。陣地に拠る敵を攻撃する場合、攻撃側は 敵よりも三倍の兵力を必要とするというのが兵学上の常識であった。ところが逆に敵よ りもはるかにすくない兵力と火力をもって大胆にも敵を包囲しようとし、しかしながら 兵力という風呂敷が小さかったためにそれを包みきれす、逃がした。それでもなお世界 戦史上まれな大成功というべきではないか、と若い参謀はいうのだが、松川は苦い表情 却のままひとこともそれに対して答えなかった。 砲声がしずまったある朝、児玉源太郎はいつものように未明に起きて屋外へ出、暁闇 退のなかにたたすんで太陽の昇るのを待った。 そこに野砲があった。
302 表現から遠く、不安のエーテルのなかで思考の振子が戦慄しつづけているというぐあい であった。 二十日すぎになったころかれはついに、 「こうして鎮海にすわりつづけていては大事を逸してしまう。敵がどうにもわが哨戒 網にひっかかって来ないところをみると、おそらく太平洋へ迂回してしまったにちがい 。となれば航海に困難のある宗谷海峡は通るまい。津軽海峡を通るにちがいない。 いそぎ錨を抜き、鎮海湾を出て津軽海峡の出口で待ち伏せねばならない」 と、半ば思案を決定するにいたったのである。かれの上司である参謀長加藤友三郎は、 はやお 前任者の島村速雄から「つねに秋山に考えぬかせてその結果を採用するほうがよい」と 申し送られていたことでもあり、この意見をもって参謀長意見とした。 ここで、わすかながら混乱がおこる。 第二艦隊の先任参謀だった佐藤鉄太郎が、昭和五年発行の自著において、 「当時、連合艦隊幕僚の意見としては」 と、秋山真之の名を示さないまでも、そのように指摘しつつ、 「敵艦隊は、恐らく津軽海峡を通過するであらう。是非とも陸奥海峡に邀へて之を撃破 せねばならぬといふので、其結論としては、鎮海を去って北上するといふに帰着しよう としたのであった」 むか これ
「三笠艦上において会議」 といったふうの表現がこの当時の新聞や雑誌にしばしば出た。 東郷も参謀長の加藤も、あらたまった会議というものをひらかなかった。ただ意見の ある者が「三笠」にやってきてその所信を申しのべたり幕僚たちと議論したりするとい , っことはあった。 「格別な会議はひらかない」 ひさつね 真之が明言しているのを聴いたひともある。連合艦隊の次席参謀だった飯田久恒 ( の ち中将 ) などがそうであった。長官招集の形式ばった会議をひらいたところでいい工夫 が出てくるはすがないというのがその理由であった。ただし意見をもって三笠を訪ねて くる者には真之はよろこんで会ったし、さらには鈴木貫太郎の例でもわかるように、真 之自身が出かけて行くこともあった。陸軍は正規の手続きをふまずに意見具申をするこ とは禁じられていたが、 海軍の場合手続きすら必要なく、どういう上級職に対しても自 由に意見をのべることができた。 このような観測の混迷のなかで、方針の統一に多少の役割をはたしたのは、上村彦之 - 一ういち - 影丞がひきいる第二艦隊の幕僚団の意見具申だったといえる。同艦隊の参謀長は藤井較一 大佐であった。 艦藤井は、 ( どうも秋山たち連合艦隊幕僚は鎮海湾を去って北上するつもりでいるようだ )
引 2 余談ながら、真之が海軍兵学校のころ試験のヤマをかれから教えてもらったりした仲 うりゅうそときち の森山慶三郎中佐は、この時期、第二艦隊に属し、その第四戦隊 ( 司令官瓜生外吉中 なにわ 将・旗艦浪速 ) の参謀をつとめていた。 らいらく 森山はがらつばちといっていいほど、磊落な性格で、相手かまわず他人の欠点をずけ ずけ指摘したりする癖があったが、 そのかわりに自分の欠点や失敗についても隠しだて することがなかった。 かれは晩年、中将になってから当時を回顧して自分の不明を、以下のように正直な態 度でのべている。 「われわれ参謀連の多数は」 と、森山はいう。 「対馬海峡に居すわっていてはいかんと強調したものだ。僕もその説だったが、松井健 吉はそうではない」 松井は中佐で、第一艦隊第一戦隊 ( 司令官三須宗太郎中将・旗艦日進 ) の参謀であっ た。その松井はあくまでもバルチック艦隊は対馬コースをとるとし、会議ごとにはげし く主張した。 森山も応酬し、ついに賭けようということになった。勝ったほうがめしをおごるとい うのである。 結局は、松井の対馬コースが勝った。海戦がおわったとき、浪速に乗っていた森山が、 につしん