戦における日本軍の重要な一翼をなしているというところに、日本の戦力枯渇が濃厚に あらわれていた。一翼をなしているどころか、奉天会戦の最初の火ぶたを切らされたの はこの後備師団であった。 この後備師団が、はじめて運動をおこしたのは、二月十九日である。 二月十九日といえば、煙台の総司令部に各軍の軍司令官が命令受領のために会同した 日の前日であり、後備歩兵第一師団の場合は、行動に不便な山間地帯を戦場にするため、 他よりも早く運動を開始したのである。 この後備師団は、二つの後備旅団から成っている。後備第六旅団は、旅団長が大佐 ( 草場彦輔 ) であった。旅団長は少将をもってあてられるのがふつうだが、大佐の旅団 長ということだけでも異例であった。 「後備旅団はことごとく用をなさず」 と、煙台の総司令部の参謀松川敏胤はその日記で頭ごなしに酷評している。 「清河城を攻撃すべし」 というのが、この二個旅団より成る後備第一師団にあたえられた任務であった。 この任務そのものが、過重すぎるといっていし 清河城は山地の西方の平野にある都会で、ロシア軍はその雄大な両翼の東端を清河城 会付近に置いていた。 「清河城支隊」 戦
のがこのありさまは何だ、と一喝すると、やっと正気に返ったもののごとく、彼は重々 その罪を謝して敗兵の収容に尽力した」 という状況である。 みぞう この潰乱敗走は、一個師団という大きな兵力単位でおこなわれたという点、未曾有の ちんだい ことであった。日本陸軍にあっては西南戦争の大阪鎮台が弱兵で、その後の兵制による 大阪の第四師団がもっとも弱いとされ、東京の第一師団がこれに次ぐとされたが、日露 戦争にあっては第四師団に問題はなく、第一師団がそれをやってしまった。 この原因は無数にあるにせよ、クロバトキンが歩兵七十二個大隊に砲百二十門という 大兵力をもって乃木軍を突破しようとしたところにあった。この攻勢のために乃木軍後 方の野戦病院までロシア軍の砲火で焼かれ、軍司令部参謀まで火の中にとびこんで傷病 兵を救いだすというさわぎがあり、さらには敗走する兵を師団参謀がかけまわってそれ を食いとめようとしたりした。 乃木軍の第一師団の潰乱敗走という強烈な事実は、日露戦争における日本軍の攻撃力 却の終末をよく象徴している。 やや詳述する。 退潰乱のスタートをなしたのは、総司令部から増援された後備歩兵第一旅団 ( 東京 ) で あった。旅団長はすでに老齢の少将である。この旅団は後備歩兵第一連隊 ( 東京 ) と後 いっかっ
112 くる兵士をみて、 「これが日本兵か」 と、かたわらの師団参謀長をかえりみてつぶやいたくらいであった。日本兵の質はす でにここまで低下していた。師団長みすから飛びだしてこの潰走兵のひとりをつかまえ て実情をきくと、 「仕方がねえんです」 と、真っ蒼になって繰りかえし、どこかへ逃げ去ってしまった。かれらのいうところ め・ゅ、つかほ、つ を総合すると、ばう大な兵力をもっ敵が劉家棚方面から襲来してきたため、これに対し て防戦したところ幹部はことごとく戦死して兵のみになり、命令する者もおらず、めい めいが必死で逃げたのだという。 大島自身の手もとにはわずかに護衛騎兵がいるだけであり、この師団最強の部隊であ いちのヘ る一戸少将の旅団はまだ到着しておらず手の打ちょうもなかった。 乃木希典はこの急報に接して大いにおどろき、永田砲兵旅団と歩兵旅団を大石橋へ急 行させた。 大石橋の惨戦を救ったのも、火力であった。永田砲兵旅団は現場につくや、師団砲兵 の右につらなって百五十門の野砲、山砲の放列を敷き、わずか二千メートルの距離で迅 速射撃をおこない、敵をようやく撃退した。 以後、連日このような状況が乃木軍を見舞いはじめた。
第九師団 ( 金沢 ) 一一四二八人 騎兵第二旅団一一三五人 野砲兵第一一旅団二〇九九人 というもので、秋山好古の騎兵第一旅団を主力とする支隊はこの作戦の途中で臨時に 乃木の指揮下に入ることになる。 乃木軍にとってこの作戦がいかに深刻なものであったかということは、作戦終了後の 損害をみてもわかる。損害 ( 死傷・秋山支隊をのぞく ) は、将校六百余人、下士卒一万 七千余人で、ざっと半分ちかくを失うといういわば損害からみれば敗北にちかい数字で あった。敵にあたえた損害はよくわからないが、遺棄死体一万五千、捕虜三千で、ロシ ア軍の損害も小さくはない。 しかしながらロシア軍の兵力の大きさからみれば、その打 撃はクロバトキンがどう感じたにせよ、客観的にはかならずしも大きくはない。 とくに激戦につぐ激戦を経た第九師団などは、ほとんど潰滅にちかい損害を出した。 将校のうち健全なものは三分の一以下になり、下士卒は三分の二をうしない、あわせて さばえ 損害六二四九人にのばった。この師団は金沢、富山、敦賀、鯖江の四つの連隊区の出身 兵をもって構成されているが、旅順攻撃ですでにさんたんたる損害を出し、そのあと本 国からの兵員補充をもってうずめてようやく師団の内容を復活した。しかしながらふた たび崩壊にちかい損害を出すにいたるのである。
備歩兵第十五連隊 ( 高崎 ) の二個連隊から成っており、「後備」の名称が示すようにこ とごとく応召の老兵そろいであった。 すでに日本は兵員の補充力をうしないつつあり、第一師団の予備として控置されてい る後備歩兵第十五旅団 ( 新発田 ) のごときは下士官と兵卒の平均年齢四十五歳という、 ほとんど戦闘運動に耐えられないほどの老兵部隊であった。 さらには、この後備歩兵第一旅団と協同して作戦している歩兵第二旅団 ( 東京・佐 倉 ) も、名目は現役部隊とはいえ、内実は応召兵が多く、戦争最初の日本歩兵の戦力に くらべてはなはだしく劣っていたといっていし その上、会戦十日目で、兵員の疲労は限度に達し、兵の運動動作のにぶさは悲惨なほ どであった。 かれらは七日、 八日と戦闘をかさね、歩兵第二旅団のごときは八日夜の戦闘で兵力は 四分の一に減じていた。 しかもその状況において、八日夜十時三十分、師団から夜襲命令がくだったのである。 協同している後備歩兵第一旅団に対してもおなじ命令がくだった。両旅団はたがいに 前進し、ウガンツンの敵陣地をめざしたが、後備歩兵第一旅団のほうは兵員の体力尽き、 夜襲に迫力を欠いた上に、かえって敵に逆襲され、死傷続出したため、第一師団司令部 は状況がこれ以上悪化することをおそれて夜襲の中止命令を出した。 ぎようあん その後、わずかに休養し、暁闇とともに攻撃を再開したが、ロシア軍の攻勢はいよ
いよさかんで、歩兵第二旅団の二つの連隊の損害ははなはだしく、将校の死傷が激増し た。後備歩兵第一旅団においてもこの状況はかわらない。 かれらを統轄する第一師団長は、中将飯田俊助で、参謀長は大佐星野金吾であった。 飯田・星野は第一線の惨況をみて、 「予備隊を出さざるをえない」 として、それを前進させた。この予備隊が、平均四十五歳という後備歩兵第十五旅団 である。 この平均四十五歳の老兵団は緩慢な戦闘動作をくりかえしつつウガンツンの敵前三百 メートルにまでせまった。 こうじん ときに突風が戦線に吹き荒れ、黄塵が視界をさえぎり、敵味方の分別さえできず、さ らには地理に暗かった上に、ロシア軍の肉弾突撃をうけてしまった。 い。たちま 潰乱の最初のいとぐちは、この平均四十五歳の老兵団からはじまったらし ち老兵仲間の後備歩兵第一旅団に波及し、たがいに風塵のなかをなだれをうって潰走し た。敵はそれを追撃した。 却比較的健兵の歩兵第二旅団までがこのまきぞえをくった。この旅団ははじめこそかろ うじてささえていたが、ついに大潰走した。 しった 退その後、師団長の叱咤により、午後になって退却をやめ、午後四時ふたたび敵にむか って出発したが、午後五時ふたたび大潰乱し、敗走した。事態は二度にわたった。
111 会 りスタートしたといっていし 乃木軍に対しては、第二軍司令官カウリバルス大将があたった。かれは歩兵だけで五 十個大隊というばう大な兵力を集中し、四日夜、ほばその部署をきめ、五日正午隷下諸 部隊に対して命令をくだした。 「主として攻撃の重点を敵 ( 乃木軍 ) の左翼に指向する」 というもので、この作戦が、乃木軍に対しときに潰乱の現象を呈するばかりの惨澹た る敗况に追いこんだ。 乃木軍左翼といえば、第一師団であった。五日夜までのその所在地は大石橋付近である。 「第一師団の前面の敵は、同師団に対し、抵抗力はきわめて薄弱である」 と、乃木軍司令部は見て、この方面に対してはほとんど顧慮していなかった。 あんど 当の第一師団長飯田俊助自身も安堵しきっており、大石橋についてはわずかの守備兵 へいらほ をのこし、六日朝その北方の平羅堡に前進したのである。 乃木希典も第一師団の前面の敵状についてはまったく注意を払わず、乃木軍の集団火 力である永田砲兵旅団をひきい、別方面の馬三家子にむかって前進した。 戦ところが、その日本軍の盲点である第一師団の大石橋守備隊に対し、カウリバルス大 将は大部隊をもって襲撃し、ほとんど一瞬でこれをくつがえしてしまった。 このときの大石橋における日本兵の潰乱ぶりというのは、日露戦争はじまって以来の ものであり、この現場に急行した第九師団長大島久直自身が、前方から三々五々逃げて さんたん
とかれらはよび、アレキセーフ中将が、その総指揮をとっている。その兵力は東狙撃 兵第五師団 ( 二個連隊欠 ) と歩兵第七十一師団 ( 師団長ェック中将 ) を主力とし、それ にバイカルコサック騎兵師団の大部分に、シベリア集成歩兵旅団、ほかに普通騎兵の連 隊や、砲兵、エ兵が多数混成されているという大兵団で、それらが清河城外の山野に半 恒久陣地を構築し、その有力な一部が山地のまわりに布陣しているという一大現実のな かへ、日本の北陸と南九州の農村からひきずりだされてきたわすか一万余の老兵がいど もうというのである。 後備第一師団の老兵たちは、東部戦線の山岳地帯をえんえんと歩いた。 召集将校のなかには、すでに四十をすぎた少尉や、五十代の大尉が何人もおり、かれ らのなかにはながい市民生活のなかから不意に戦場へひつばり出されたために、一日の 行軍がおわると、肩で息をするほどに疲労した。 その上、地図がなかった。 たまたま戦利品の地図・・ーーそれも略図程度のものーーが一枚、川村の軍司令部にあり、 その写しを連隊長や大隊長にくばってあったが、中隊長以下は磁針をもって大体の方角 をつかみつつ進むといった状態だった。 この方面は敵の兵力の過疎地帯とはいえ、それでもロシア軍の哨戒任務をもった小部 隊が山地のところどころに張り出していた。が、この師団は、「後備」ながらも一万余
「できるだけ敵 ( 秋山好古 ) に対する衝撃力を大きくすることだ」 と、強大な編制にとりかかった 攻撃は第二軍が担当するのだが、グリッペンベルグが辞表をたたきつけて帰国したあ と、ムイロフが代理でその司令官をつとめているのは心もとなかった。代理の軍司令官 にこの大事な大仕事をさせるわナこま、 そこで、第三軍司令官のカウリバルス大将を第二軍司令官にもってゆき、空席になる 第三軍のほうへは第十七軍団長ビリデルリング大将を昇格させて軍司令官にした。 ついでながら日本軍のばあいは、 軍↓師団↓旅団 という上下関係になるのに対し、ロシアは一段階多く、「軍団」というのが入る。 軍↓軍団↓師団↓旅団 となる。クロ。ハトキン案によれば、軍という最大の単位をもって一個旅団程度の敵を 攻めるということになり、その成功率は大きく、というより大地を打っ槌がはずれつこ ないはどの安全性の高い案といわねばならない。 クロバトキンは作戦の安全性を愛しすぎるところがあったが、かれはこの案の成功度 をいっそうに高めるために、もう一工夫した。 会突破用の第二軍の錐として、特別混成旅団を編成したのである。かれは第一軍と第三 てすぐ 軍から精強な小部隊を手選りにしてえらび、それをもって六個大隊をつくり、一個旅団 きり っち
119 会戦 じようかい 「乃木が一所懸命出ようとしとるんじゃ。なんとか繞回して奉天へ出てゆこうとしと るんじゃ。奉天の西方までとにもかくにもたどりつきおった。ところがお前、今日あた りから敵がどんどんふえてきおって、難戦もなにも話にならん。乃木をして奉天の側背 を衝かしめるかどうかがこの作戦の勝敗のわかれ目じゃ。乃木の荷を軽くしてやれ。野 津軍が一歩槍をふかく入れれば、そのぶんだけ乃木が一歩進める。そのために野津軍に どれだけの犠牲を出してもやむをえん。乃木が奉天の西方でつぶれてしまえば奉天会戦 はもうしまいじゃ。野津軍だけが生き残っても、日本はほろびるぞ」 この児玉の電話によって野津軍ーー第十師団はふたたび五日早暁から敵の堡塁群へ強 烈な大攻撃を再開した。 。しちいち描写するに堪えがたいものであった。第十師団のうち、 その戦闘の惨烈さよ、、 歩兵第十連隊 ( 姫路 ) と歩兵第四十連隊 ( 鳥取 ) は、ほとんど連隊のかたちをなさない までに潰滅した。たった一日の攻撃で損害千百人であり、前線の第八旅団長 ( 少将大谷 喜久蔵 ) とその隷下の両連隊とのあいだに相互に伝令が何度も出たが、ことごとく途中 で戦死するというありさまで、ついに夜に入って退却せざるをえなかった。 六日は攻撃休止。ところが七日になると、敵のほうが沈黙してしまったのである。不 可解ながらクロバトキンの命令によるものであった。 万宝山堡塁を攻めている第十師団の歩兵第二十旅団の状況も前記とかわらない。