ロシアの在外公館はほとんどあてにならなかった。ロシアは世界で最も濃厚な官僚国家 であるくせに、官僚機構そのものは銹び腐ってなんの役にも立たなかった。 ネボガトフの航海は沈黙の航海というべきものであった。国際的な事件もおこさす、 艦隊にあってはかれは大声ひとつ出したことがなかった。 「ロジェストウエンスキーに合流せよ」 という命令はうけていたが、かんじんの本隊がどこにいるかは誰も教えてくれなかっ た。五月一日マラッカ海峡に入り、同四日払暁シンガポール付近に達した。 この日の午後一時、艦隊の前方に汽艇が近づいてくるのを発見した。艇の上で白い服 し を着た男がしきりに両手をふっており、艦隊としてはそれを黙殺してもよかったが、 ぜんしよう かしネボガトフはなにごとかを直感した。かれは信号兵に命じて旗艦の前檣に黒い球 をあげさせ、全艦隊に機関をとめさせた。 艦隊はとまった。 汽艇はおびえるようにときどき針路を変えた。やがて旗艦ニコライ一世に近づいてき て横付けになった。コルクのヘルメットをかぶった大男があがってきた。 やけど へ艦上にあがると、かれは軍人式に敬礼をした。あごのあたりに火傷のあとがあり、右 眉にも傷あとがあった。 東 ( 酔っぱらいの水夫ではないか ) と、ネボガトフの幕僚たちがおもったほど、かれは立っているのがやっとというほど
みていた。 「ネボガトフ艦隊が待つに価いする艦隊なのかどうか」 ということについても、世界中の専門家は否定的であった。 とはいえ、ロジェストウエンスキーがみずから好んでこの道化芝居をやっているわけ ではなく、かれにそれをやらせているのは皇帝ニコライ二世とその皇后アレクサンドラ であった。さらにいえば皇帝に絶対的専決権をもたせてしまっているロシアの体制その ものがそれをやらせているわけであり、もしこの国の国民と将兵がこの一大愚行から抜 け出そうとするなら革命をおこすしか手がなかった。ロシアの専制体制は、ヴァン・フ オン湾の三海里沖合でゆきつくところまできてしまっているという観があった。 しかも専制国家の官僚機構というものがいかに機能性をうしなうものであるかという ッとは、 「ネボガトフ艦隊が、いつどのあたりを通って、およそ何日ごろにヴァン・フォン湾付 近に達するか」 ということが、かんじんのロジェストウエンスキーとその幕僚の耳にはすこしもとど へいていないことである。かれらは何もしらされていなかった。 ロジェストウエンスキーが自分の環境を理解する上でいかなる情報ももっていなかっ 東た正拠に、 「ネボガトフはスンダ諸島かポルネオあたりで日本海軍に攻撃されるだろう」
「相当の時機まで敵艦を見ないときは艦隊は随時に移動する」 という電文は、「鎮海湾を去り、北上し、北方での待ちぶせ態勢に切りかえる」とい う意味をふくんでいる。 むろん大本営の作戦班の山下源太郎たちはそのように解釈した。 もっとも事の真相は、秋山真之らの艦隊幕僚の側において多少相違していた。真之ら がこの電報を東京へ打ったのは東郷の意思を通告するためのものではなく、かれら艦隊 幕僚が大本営幕僚である山下らとのあいだに意見交換をしたいといういわば意見電報で、 貴官たちはどう思うか。 という意味がこめられていた。これが幕僚間の意見交換の電報であったことは、真之 らが東郷の許可を得ていないことでもわかる。 ところが東京の山下らは「通告」とうけとった。 「これは重大な事態だ」 と、山下は財部彪大佐をよび、相談した。大本営は軍令部長伊東祐亨、同次長伊集院 五郎以下すべてが、 影「敵は対馬海峡へやってくる」 という判断のもとに動揺はしていなかった。ただ十に一つ、津軽海峡へ来るかもしれ ふせつ 艦ないということを想定して機雷を敷設してある。もっとも機雷のことは鎮海湾の連合艦 隊には報らせていなかった。
トウエンスキーは自分の艦隊のすべての艦の煙突を黄色く塗らせていた。この黄色煙突 ほど、東郷艦隊の射撃にとってプラスになったものはなく、日本側としてはこのおかげ で敵味方の識別の苦労はまったくなかった。 かれは幕僚たちに、 「そのよ , つに指一小しておくよ , つに」 と、命じた。ロジェストウエンスキーが、これは信じがたいことであったが作戦につい てネボガトフ少将に命じたり打ちあわせたりした事項は、ただこれだけだったのである。 やがてネボガトフ少将とその幕僚が、旗艦スワロフにのばってきた。 げんてい 舷梯の上で、ロシアの国運を背負う二人の提督が抱擁し、接吻をかわした。この劇的 な光景を全艦隊の乗組員が注視していた。 やがてロジェストウエンスキーは、ネボガトフとその幕僚を長官室に招待し、シャン ペンのグラスをあげた。スワロフの幕僚たちも同席した。そのあと、食事になった。 食事中、 航海はいかがでした。 というたれかの質問に答え、ネボガトフは簡潔に答えた。かれの三カ月にわたる航海 は、老朽艦をひきいているわりには完き成功であったといってよく、艦の故障もなく、 修理を要すべき傷をどの艦ももっておらず、いますぐでも戦場に入ることができた。 しかもネボガトフは、夜間は燈火を消して航海したのである。ロジェストウエンスキ まった
「しかもすぐ移動せよとは申しておりません」 と、佐藤はいった。佐藤によればいま移るべきではない、 しかし二十六日にいたって というのである。 もなお敵の消息が不明の場合、隠岐島に移るほかない、 「すると、さしあたっては移動はいかんという点では私と同意見だな」 「、かにもそうです」 「よろしい。では第二艦隊の意見として移動不可説を連合艦隊の幕僚部にさしだしても 異存はないな」 と藤井はこの下僚の秀才に念を押し、その応諾を得、「三笠」を訪れたのである。 この日、鎮海湾付近は小雨模様であった。藤井較一大佐の汽艇が三笠に近づいたとき、 煙雨のなかにカッターが一隻あらわれた。「どなたか」と藤井がきくと、その艇の水兵 が、「島村閣下です」と答えた。 第二艦隊第二戦隊司令官の少将島村速雄のことである。島村はごく最近まで東郷の参 謀長をつとめていたが、いまは加藤友三郎に後をゆずって戦隊司令官になっている。 影藤井は、島村のカッターに移った。 「私はこういう意見具申をするつもりです」 艦とその説をのべると、島村は「ちょうどいい」とひどくよろこんだ。島村も同意見で、 それを具申するために三笠を訪ねようとしているのである。
322 小笠原長生がこの時期、東京の大本営幕僚であったことはすでにふれた。かれは東郷 のもとからきた例の電報も東京の現場において知っていたのである。このため不審が残 った。それほど東郷の決意が固いのならなぜ「鎮海湾から移動したい」というような電 報を東京に打ったのか。 そのことを後年、小笠原は東郷にきいた。 東郷の回答は簡単だった。 「おれはそんな電報を送らぬ」 と、あれだけ大本営などを騒がした電報の一件を当の東郷はまったく知らなかったの である。結局は、前線の幕僚と東京の幕僚とのあいだの幕僚同士の意見交換電報にすぎ なかったということがわかったが、 東郷自身はあくまでも敵が対馬海峡から来ると信じ ていた。 この東郷の観測は、後年、かれが安部真造という質問者に対してあげたように、三つ の理由によるものであった。 一に、北の宗谷海峡あたりは霧がふかく、大艦隊の航海が容易ではない。第二に、 バルチック艦隊は長期の航海をつづけているために艦底にカキなどがくつついて船足が にぶっており、うつかり太平洋をまわったりすれば足の速い日本艦隊に追っつかれるだ けのことであり、このことは敵も知っているはすだ、ということ。第三に東郷があげた のは燃料のことであった。石炭をいかに各艦が満載しようとも限度があり、その石炭を
「三笠艦上において会議」 といったふうの表現がこの当時の新聞や雑誌にしばしば出た。 東郷も参謀長の加藤も、あらたまった会議というものをひらかなかった。ただ意見の ある者が「三笠」にやってきてその所信を申しのべたり幕僚たちと議論したりするとい , っことはあった。 「格別な会議はひらかない」 ひさつね 真之が明言しているのを聴いたひともある。連合艦隊の次席参謀だった飯田久恒 ( の ち中将 ) などがそうであった。長官招集の形式ばった会議をひらいたところでいい工夫 が出てくるはすがないというのがその理由であった。ただし意見をもって三笠を訪ねて くる者には真之はよろこんで会ったし、さらには鈴木貫太郎の例でもわかるように、真 之自身が出かけて行くこともあった。陸軍は正規の手続きをふまずに意見具申をするこ とは禁じられていたが、 海軍の場合手続きすら必要なく、どういう上級職に対しても自 由に意見をのべることができた。 このような観測の混迷のなかで、方針の統一に多少の役割をはたしたのは、上村彦之 - 一ういち - 影丞がひきいる第二艦隊の幕僚団の意見具申だったといえる。同艦隊の参謀長は藤井較一 大佐であった。 艦藤井は、 ( どうも秋山たち連合艦隊幕僚は鎮海湾を去って北上するつもりでいるようだ )
と言いだす若い参謀もいた。 なるほど能登半島なら敵が北へまわろうが南から来ようが、ちょうど真ン中になって 両端いずれに駈けてゆこうとも便利である。 が、それには致命的欠陥があった。海戦の時間がみじかくなるということである。敵 が対馬からくる場合、ウラジオストックまでのあいだ、七段の構えで合戦 ( 戦闘・海軍 用語 ) をくりかえし、敵を全滅させるという目的の達成が不可能になる。能登半島から 出発すればせいぜい一回か二回の合戦しかできないのである。 「かならず敵は対馬からくる」 という信念を堅持したのは東京の大本営と、第二艦隊の幕僚、または第四駆逐隊司令 の鈴木貫太郎らいわば作戦中枢から遠い場所もしくは岡目八目というその岡目の位置に いた連中で、そういう位置にいるために客観的判断も可能であり、物事を巨視的にみる こともでき、さらには小さな現象に心をおびえさせる度合がよりすくなくて済むのであ る。東郷のそばにいる幕僚たちはそうはいかなかった。決定は東郷がするにせよ、かれ ら幕僚の判断によって国家の存亡がきまってしまうという心理的重圧感が、かれらを羅 影針盤の針のようにこまかくふるえさせつづけていたのである。 艦ロジェストウエンスキーが対馬コースをとるのか、それとも太平洋まわりの航路をと るのか、これをめぐっての日本側の推測の話題をつづける。
330 ジェストウエンスキーが二兎を追うためにその行動原理がきわめてあいまいになってい ることを指摘している。 「ロジェストウエンスキー提督がその目的の一つをウラジオストックへの遁走においた ことはべつに悪くはない。 しかしその実現は確実に可能かといえば当時の状況からみて プロバビリティ 蓋然性は存在しなかった。途中での戦闘は不可避であった。戦闘が不可避である以上、 同提督としては途中の戦闘を想定し、すべての軍艦に対し、戦闘の邪魔になるものはあ る時期に捨ててしまっておくべきであった。しかし同提督は遁走と戦闘の二兎を追うが ためにそれすらしなかった」 前記のことばをやや解説風に述べると、戦闘のためには艦の運動性をよくしておかね ばならない。そのためには遁走用の満載石炭 ( 旗艦の司令長官室にまで石炭を積んでい た ) を適当にヘらし運動性の軽快さをとりもどさねばならなかったのに、同提督はそれ きっすい をせず、このためどの艦も石炭を積みこみすぎて吃水が異常にさがっていた。たとえば 馬鈴薯を詰めこんだ袋を全身にしばりつけてリングにのばってゆく拳闘選手のようなも ので、戦闘を目的とする軍艦としては自殺行為にちかいものであった。 もっとも、戦後ロジェストウエンスキーを弁護しつづけたかれの幕僚 ( 作戦幕僚では なく、記録文学を書くための幕僚 ) セミョーノフ中佐はこの点を否定し、これらの事実 指摘を中傷であるとし、「わが各艦が石炭を過載したままッシマの海戦に臨んだという 説 ( 乗組士官たちの ) があるが、かれらはなんという鉄面皮のウソッキであることか」
かもしれない。 「乃木閣下もこまったものだ」 という声が、総司令部で憎悪をこめて毎日ささやかれつづけ、さらに若い参謀までが、 「第三軍の幕僚はいつまで下手ないくさをするつもりか」 と、旅順での不手際をもふくめてののしったりした。総司令部の幕僚のたれもが、乃 木希典がのちに世間から日露戦争の功績を一身にになうほどの象徴的存在になるとは、 不覚にもおもってもいなかった。 総参謀長児玉源太郎は、九日のタ、松川敏胤をつかまえて、 「このまま既定の作戦をつづけていいか」 と、問うた。 まの実情で 既定の作戦では乃木が西方から奉天に飛びこむということであったが、い はとうていそのことは望み薄になった。それよりも中央に位置している第四軍の野津軍 を猛進させて乃木軍と相重なりつつ奉天北方に出てクロバトキンの退路をおびやかすほ うがよいのではないか、と児玉はおもったのである。 却「閣下も」 そうお思いでしたか、と松川が血色のわるい顔にめずらしく血の色を映えさせたのは、 退かれもそのことを考えていたからであり、さらに松川という男は相当な自信家ではあっ たが、直感力においては児玉のほうがはるかにまさっていると思っていた。かれは自分