188 の敵軍 州 し だ の在 し野と と松児と敵はにと な き た お 、だ野満 : 参 や戦 、川玉でを潰 、ぜ 児 は見滅加不ら 軍いそ はいよ は での ロ野 し満 、なす . 玉 . し ね つん ク ) シ戦 いてたてそば総たな 0 ま フ ' な参 自 ア軍 。て わ っ ン し、 タ でら謀 と 分 軍し と松総け る イ あ川参で軍あな長 を のを と と ス攻 は謀は ノ、 ついた し タ 撃て を 、長 なのたんる て 。で閣 ッ し あそ たい し は は ご講す下 , っ さ け、 っ る フ お 、い者目 と和 づし が の も つが下でを けあ っ し た 戦 、は促 ちてた な ろ ロな進 松 。場 ぜ し、 川れて を し、 さ そ シ と 敏ば関 去ア ん 胤よ連 る軍政る な ろ 政 は略た な の ど公のめ 略 だ の つ あ 、主 部し けです る 関 そ嶺類政 は あし、 や 洩る っ に府 す い近 属の る です尻 っ 馬戦るを と 鹿線 と し げを た わ と か た整 で き し こ頓はに さ わ は た れ と しな だ 東 カ : いく つ 松 の な つか ま ば て り しは は で タ も戦 ら イ
やがて陽が傾きはじめたころ、ロシア軍は攻撃を断念し、大房身北部の倉庫に火を放 ち、その黒煙にまぎれて退却を開始した。退却戦にかけては世界でもっともすぐれた軍 でんぐん だけに、殿軍をのこしては逐次兵をひき、退却中も殿軍は火力を衰えさせす、その運 動は重厚で整然としていた。 「さすがは、ロシア軍だ」 と、好古は眼鏡に映る敵の運動をみて感嘆の声をもらした。戦術の常識でいえば、こ こで好古は追撃戦に移って、戦果を拡大すべきであった。 しかし好古はそれをひかえた。かれはこれだけの激戦をやっていながら、かれの戦法 のおかげで味方はほとんど損害をうけていない。い、 ま追撃すれば、ロシア軍は心得てい てーーロシアの退却戦の常道だがー・・ー押しかえしてきて逆に日本軍を包囲殲滅するにち 、、、、、よゝっ ? ) 0 好古は、砲兵のみを前進させた。砲兵にはこれを擁護するため機関銃隊を分属させた。 要するに好古は騎兵や徒歩兵という傷つきやすい兵種をもって追撃戦をやらせず、砲弾 と機関砲弾をもって激しく敵を追撃した。 戦ロシア軍はこれがために大潰乱をおこし、ついには死傷者を収容することもできず、 東北方にむかって逃げた。このときの打撃のためにビルゲル中将の支隊はついに奉天会 会戦の主力決戦に参加することができなかった。 せんめつ
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戦 おなじく中央を担当する奥軍、黒木軍の各正面の攻撃も強力な防御陣地にはばまれて しんちよく ほとんど進捗せず、総司令部の空気はしだいに重苦しいものになった。 「なけなしの砲弾」 ということばが、総司令部ではよくつかわれた。この戦役を通じて大山・児玉が心労 したのは、砲弾の集積量をみては作戦を決定してゆかねばならないことであった。いわ ば弾庫の底をのぞきこみつつ減ってゆく弾量に肝をひやしつつかれらは作戦を遂行した。 日露双方の弾薬の消費量を比較すると、まず小銃弾からいえば、遼陽会戦ではロシア が三倍以上であった。つまり日本九百万発、ロシア三千万発。沙河戦では日本九百万発、 ロシア二千四百万発。奉天会戦にいたっては全期間を通じて日本は二千万発という日本 軍としては空前の弾薬を消費した。これに対しロシアはその四倍の八千万発であった。 砲弾は、遼陽会戦では日本は十二万発をつかった。ロシアは十四万発である。ひきわ ロシアはこれに比してめずらしく けの難戦をした沙河会戦では日本は十万発をつかい、 すくない。六万発であった。 奉天会戦にあっては、日本は冬営中に本国から送ってくる砲弾を貯めに貯めた。これ によって三十五万発というこの戦役を通じて最大の消費をした。これに対してロシアは 五十四万発であった。 「なるべく戦闘を避けつつ敵の側背へ出る」
「それよりも、沈旦堡をもう一度押そう」 いわれて、サハロフはおどろいた。さきにグリッペンベルグ大将がそれをやったとき に、クロバトキンはきわめて消極的な態度をとり、その作戦に呼応すべき時機に呼応せ ず、ついにそのために作戦が失敗し、グリッペンベルグは怒って辞表をたたきつけて欧 露へ帰ってしまった。 が、クロバトキンの本音をいえば、 ( グリッペンベルグの作戦はよかった。ただしそれをグリッペンベルグがやることは自 分は好まない ) ということであり、あらたにいわばグリッペンベルグ計画を盗用してみようというの であった。 グリッペンベルグが欧露へ帰ってしまったあと、空席になった第二軍司令官の職を、 クロバトキンは自分がかねて可愛がっていた第八軍団長ムイロフ中将に命じてあった。 ただし代理である。 クロバトキンは、すぐさまこの大仕事にとりかかった。まずムイロフ中将に命じて、 日本軍左翼である沈旦堡方面の偵察を命じた。 その方面には、相変らず秋山好古の騎兵旅団が、砲兵と歩兵を混成させて陣地をまも 会っていたが、さきの黒溝台戦でやってきた増援部隊は去りつつあった。 クロバトキンはその報告を得、 戦
よりも長所に戦陳恐布するところがあり、そういう意味では悪しき経験といえた。 将帥という者の世界では、かならすしも経験の古い者をもって貴しとするわけにはい かない。経験には悪しき経験と善き経験があり、そのことは古今の名将といわれる者の 多くが、かならすしも百戦の経験者ではなく、むしろ素人にちかい経験のすくない者で あることをおもえば、クロ。ハトキンの経験の誇示がいかに無意味なものであるかがわか るであろう。 かれは日本軍が包囲作戦に出たとき、 「こ , つい , つばかなことはあり , んない」 と、素人常識として考えるべきであった。 日本の人口や国力から考えて、在満日本軍の兵力をほば割り出すことができるはすで あるし、その日本軍が包囲作戦に出るなどよほどの無理をしていると見るべきであった。 戦術の原則として、小部隊が大部隊を包囲するということはありえないのである。 ところが、大山・児玉はその戦術原則を無視してそのことをやってのけた。 クロバトキンがもし素人であったら、 大山は無理をしている。 そら とみることができたであろう。が、戦術原則を諳んじている秀才であったためにその 会玄人常識のほうにとらわれた。 「大山が包囲作戦に出た以上、よほど大きな予備隊を隠しているにちがいない」
シア捕虜をとびきり優しくとりあっかったというよりむしろ優遇した。 その収容所は各地にあったが、松山がもっとも有名であり、戦線にいるロシア兵にも よく知られていて、かれらは投降するということばをマッヤマというまでになり、 「マッヤマ、マッヤマ」 と連呼して日本軍陣地へ走ってきたりした。好古が、「あいつはマッヤマか」といっ たのは、そういう意味であった。 げんに好古の故郷の松山の旧城下町は、町ぜんたいが捕虜のための遊歩場のようにな っており、町のひとびともかれらに親切で、捕虜侮辱といったような事件は一件もおこ っていなかった。 好古は、騎兵の襲撃を愛した。 騎兵というのは元来襲撃のための兵種であり、高級司令部の用兵さえ妙を得れば、戦 機をつかみ、騎兵をうごかし、これをもって一大襲撃兵力たらしめ、全般の戦況を一変 させることもできた。 戦 騎兵とは、これじゃ。 げんこっ というなり、好古がかたわらの窓ガラスを拳骨でぶちわり、こぶしから血が流れるの 会もかまわす「わかったろう」といい、講義をつづけたという話が陸軍大学校で語りった えられている。たしかに拳固でガラスを割るという動作がもっとも騎兵の本質を後輩に
に命令を厳守する点では尊敬に値いする。ただし、欠点もある。鈍重であることと、肉 弾血戦をつねに回避するという二点である」 と、書かれている。騎兵だけでなく一般に日本軍がロシア軍にわずかの差で優越する のは、戦術能力と渡部のいう肉弾血戦だけであったかもしれない。 この不期遭遇戦は、日本の騎兵史上、大房身の戦いということで記録的な戦闘になる のだが、当の好古は晩年になってもあまり語りたがらす、強いてきかれると、 「あれは、逃げなんだから持ちこたえたんじゃよ」 と、松山なまりでいった。 この当時、第二軍参謀だった河野恒吉は少将になって日露戦史の編纂を命じられた。 このため各局面での状況や処置をその当時の関係者にきいてまわったが、好古だけは、 「たれか知っとるじやろ , つ」 といって相手になってくれず、弱ったらしい この大房身の戦いの場合もそうであった。河野はやむなく好古の部下に会っていろい ろきいたが、好古の処置のみごとさに驚嘆したという。さらに河野が発見したことは、 戦線における各連隊長の性格がそれそれの任務にいかにも適合していたことであった。 会河野がそのことをあらためて好古に問いただすと、好古は手を振るようにして、 「オマイ、そんなことはないよ」 戦
162 惨戦に次ぐ惨戦をくりかえすのはこれがためであった。 以上の入念な計画により、クロバトキンは、整然たる退却をやってみせるつもりであ 「日本軍も疲れているはすだ」 という計算もあった。 たしかに日本軍はクロバトキンの想像以上に疲労していただけでなく、この会戦のた めに貯めこんでいた砲弾はほとんど尽きようとしていた。 煙台にある大山・児玉たちは、この日まさかクロバトキンが奉天よりはるか北方の鉄 嶺まで逃げてしまう決意をしたということを知らない。 こうちゃく どの戦線もにかわでかためたように膠着し、作戦においてロシア軍に勝っという自 せいち 信のもとにあれほど精緻に練りあげた計画も、現実面ではすこしも進まず、このぶんで は将棋でいう「指し切り」になって攻撃側の日本軍自身が攻勢姿勢のまま大崩壊してし まうという危険さえはらみはじめた。 とくに左翼から奉天にむかって迂回運動をしている乃木軍がどうにも弱かった。乃木 軍の前衛は優勢な敵のために潰乱と退却をくりかえしているような状況であり、 「第三軍を遠く北方へ繞回せしめて奉天の側背を衝かしめんとす」 カカし という総司令部が立案当初もっとも自信のあった計画のその部分から瓦解してしまう っこ 0
とおもわざるをえない。それ以上の増援を出せば、日本軍左翼 ( 西部戦線 ) を衝くと いう作戦原案が、基本的にくずれることになる。 が、クロバトキンは、強行した。クロバトキンが絶対権力をもっている以上、その作 戦がたれの目でみても誤りであったところで、それを制限できるような制御装置がロシ ア軍の統帥部には構造として存在しなかった。このことはバルチック艦隊のロジェスト ウエンスキーにおいてもいえるし、それを国家規模に拡大してみても、ツアーリズムそ のものが、そうであった。 このときクロバトキンがやったことは、そのことが過ぎ去ったあとになって考えれば、 なぜかれがこのようなことをやったか、真意を察しかねるほどのものであった。かれは その全兵力の五分の一を東部戦線へ移動させてしまったのである。 つまり、わずか二個師団をもつにすぎない哀れな鵯緑江軍に対し、第一次増援のレネ ンカンプ支隊のほか、シベリア第一師団と第七十二師団、さらに歩兵二個連隊を急派し た。このため戦略予備軍が手薄になったため、シベリア第十六軍団を第一線から後方へ ひきさげた。 たとえ、 戦 乃木軍十万がきた。 会というかれの錯覚が錯覚でなかったと仮定しても、この処置はかれがもともと計画を 進行させていた日本軍左翼 ( 西部戦線 ) へ一大攻勢をかけるというその作戦原案の立場